3,000人の歌声
『帰らない季節』が3,000万回を越えてから数日後、隼人は大学から帰宅すると、夕食までの時間を使って新しい音楽を探していた。Lentoの活動用メールには相変わらず多くの依頼が届いているものの、今日は仕事の候補を探しているわけではなく、単純に知らない歌を聞きたいだけだった。
以前なら、新しい音楽を探す時も人気ランキングや話題になっている曲から聞くことが多かった。しかし星乃ミナやNagiへ曲を書いてからは、再生回数の少ない投稿まで意識的に開くようになっている。完成度とは別の場所に、まだ本人すら気づいていない魅力が残っていることを知ったからだ。
それでも、片っ端から聞いているわけではない。
数曲聞いて何も感じなければ次へ進み、少しでも気になる声があれば過去の投稿まで遡る。芸能の加護は相手の成功を数字で教えてくれる能力ではないが、声の特徴や表現の癖、それがどんな音楽と組み合わされれば魅力になるのかを理解する助けにはなっていた。
その日も何人かの歌を聞き、そろそろ終わろうとした時だった。
おすすめ欄のかなり下に、小さなサムネイルが表示されている。
【Mio/夜更けのカバー】
【再生回数 4,286回】
「4,000か」
隼人は特に期待せず動画を開いた。
画面には人物の顔ではなく、暗い部屋の窓辺を描いた一枚絵が表示されている。概要欄を見る限り、Mioという名前で数年前から活動している個人の歌い手らしい。
チャンネル登録者は3,214人。
動画の投稿間隔も一定ではなく、1か月に2本出ることもあれば、3か月ほど何も投稿されない時期もある。
「かなりマイペースだな」
再生する。
イントロが流れ、そのあとに女性の声が入った。
隼人の指が止まった。
「……へえ」
低い。
ただし、Nagiとは違う。
Nagiには少し掠れた乾いた質感があったが、Mioの声はもっと薄く、透明に近い。それでいて冷たいわけではなく、聞く側との距離を詰めすぎない静かな温度がある。
歌唱力だけなら、もっと上手い人はいくらでもいる。
音程も完璧ではない。
声量も強くない。
サビで大きく盛り上げようとすると、むしろ魅力が少し薄れていた。
それなのに、Aメロへ戻ると急に良くなる。
「そこなんだな」
隼人は最初まで戻して、もう一度聞いた。
特に良いのは、音量を落とした時だった。
声を張らず、ほとんど独り言に近い強さで歌っている部分では、Mioの声が急に近く感じられる。耳元で囁くという意味ではなく、同じ部屋の少し離れた場所から聞こえてくるような距離感だった。
芸能の加護による感覚も強く反応する。
この声は、大勢へ向かって歌わせない方がいい。
1人へ向けて歌う。
それも、相手を励ましたり引っ張ったりするのではなく、夜中に少しだけ言葉を交わすような歌が合う。
隼人は動画を最後まで聞き、そのまま次の投稿を開いた。
◇ ◇ ◇
気づけば1時間近く経っていた。
Mioの投稿数そのものが多くないため、古いものまでかなり遡ることができた。3年前の動画では現在より録音環境が悪く、生活音らしい小さな雑音まで入っているが、それでも声の根本的な特徴は変わっていない。
面白いのは、再生回数だった。
明るくテンポの速い曲を歌った動画は、比較的数字が伸びている。
一方で隼人が良いと思った静かな曲は、それほど再生されていない。
「人気の曲を歌った方が見つかりやすいのは当然か」
本人も数字を意識しているのかもしれない。
ただ、隼人には逆に見えた。
明るい曲でも下手ではない。
しかし、そのジャンルなら他にも上手い人がいる。
Mioでなければ成立しない理由が薄い。
それに対して、夜に聞きたくなるような静かな曲では、声の薄さや距離感そのものが魅力へ変わっている。
隼人はチャンネルの概要欄を確認した。
簡単な自己紹介しかない。
顔出しなし。
個人活動。
連絡先としてメールアドレスが記載されている。
年齢は公開されていないが、過去の配信で会社帰りについて話している切り抜きが残っていたため、少なくとも社会人ではあるらしい。
「また会社員か」
Nagiに続いて、偶然見つけた相手が会社員だったことに少し笑う。
それでも、すぐには連絡しなかった。
Nagiの時と同じだ。
声を聞いただけで「曲を書きたい」と言うことはできる。
しかし、相手がどんな活動をしていて、何を大切にしているのかを知らないまま曲を書くと、声だけを借りる形になってしまう。
隼人はMioの過去動画をいくつか保存せずにブックマークし、その日はパソコンを閉じた。
夕食の時間を知らせる美智子の声が階下から聞こえている。
「今行く」
返事をして立ち上がる。
新しい声を見つけたからといって、今日中に何かを始める必要はない。
急がなくても、明日もその声は残っている。
◇ ◇ ◇
それから1週間ほど、隼人は空いた時間にMioの活動を少しずつ見ていた。
歌動画だけではなく、過去に何度か行われている雑談配信も聞いた。
配信頻度はかなり低い。
多くても月に1回程度で、仕事が忙しい時期には2か月以上何もしていないこともある。
ある配信では、視聴者から投稿頻度を増やさないのかと聞かれていた。
『増やしたい気持ちはあるんですけど、仕事もあるので難しいですね。無理して嫌になるより、歌いたくなった時に歌うくらいがいいかなって思ってます』
隼人はその言葉で、少し興味を強くした。
音楽を人生の中心へ置いていない。
だから真剣ではない、ということでもない。
歌う時には録音を何度もやり直しているらしく、機材も少しずつ更新している。それでも仕事を辞めて専業になることを目標にはしていなかった。
別の日の配信では、登録者についても話していた。
『3,000人もいるの、普通に怖くないですか? 学校の体育館に入らないですよね。たぶん』
コメント欄が笑いで流れる。
『10万人とか想像できないです。私は今くらいでも十分すごいと思ってますよ。だって3,000人ですよ? 知らない人が3,000人も私の歌を聞こうと思って登録したんですよ』
隼人は、その部分をもう一度聞いた。
強がっているようには聞こえない。
本当にそう思っているらしい。
「面白い人だな」
Lentoは既に70万人を越えている。
しかし、最初の1人が登録してくれた時の価値と、70万人目の1人の価値が違うわけではない。
数字が大きくなると、どうしても感覚は鈍くなる。
Mioの言葉を聞いていると、3,000人という数字が改めて大きく見えた。
◇ ◇ ◇
曲の形が浮かび始めたのは、その日の夜だった。
隼人は制作ソフトを開いたものの、最初から完成させるつもりはなかった。Mioの声に合いそうな音をいくつか置き、違えば消す程度の軽い作業から始める。
最初に置いたのは、静かなエレクトリックピアノだった。
少しだけ低い。
その後ろへ、ほとんど存在を意識しない程度のベースを加える。
ドラムはすぐには入れない。
音を重ねすぎると、Mioの声が持っている距離感を消してしまう。
隼人は何度かコードを変え、10分ほど同じ部分を繰り返した。
「夜だな」
Nagiの時は、雨が上がったあとの外だった。
Mioは室内だった。
仕事から帰ってくる。
食事を済ませる。
風呂に入る。
部屋の照明を少し落とす。
眠る前、明日のことを考えてしまう。
仕事が嫌なわけではない。
人生が辛くて仕方ないわけでもない。
それでも、夜になると昼間には考えなかったことが少しだけ頭へ浮かぶ。
そんな時間に流れる曲。
隼人は制作ノートを開いた。
【Mio】
【低い声。音量を落とした時に最も近く聞こえる。】
【大勢へ向けない。眠る前の1人へ。】
そこまで書いて、しばらく考える。
励ます歌にはしたくない。
明日も頑張れとは言わない。
人生は素晴らしいとも言わない。
今日決められなかったことを、今日中に決めなくてもいい。
そのくらいでいい。
隼人は最後に一文を加えた。
【目が覚めたら、また考えればいい。】
「……これだな」
曲の終わりが見えた。
最後に強いサビはいらない。
むしろ音を減らして、Mioの声だけを残す。
そこでこの言葉を置けばいい。
隼人は少し笑い、制作を続けた。
◇ ◇ ◇
今回は運命のダイスを使わなかった。
使うかどうかを迷うことすらなかった。
Mioの声を聞いた時点で、作りたい方向が既に見えている。
ダイスから曲を探すより、自分で書いた方が早い。
そのことに気づいた時、隼人は手を止めた。
「前なら考えられなかったな」
高校3年生で『夜明けの途中』を公開した頃は、ダイスから得た曲を完成させるだけでも精一杯だった。
旋律や伴奏構成、歌唱イメージまで与えられているからこそ、高い完成度へ持っていけた。
しかし、その曲を何度も分解し、作り直し、録音し、さらに自分でも曲を書くようになった。
星乃ミナ。
Nagi。
今作っているMioの曲。
いつの間にか、自分の頭の中だけから曲を組み立てることが特別ではなくなっている。
芸能の加護は助けてくれる。
それでも、指を動かしているのは自分だった。
隼人は少しだけ嬉しくなったものの、そこで作業時間を延ばすことはしなかった。翌日は1限から講義があるため、日付が変わる前には制作ソフトを閉じる。
続きを作りたい。
それでも眠る。
その選択を自然にできることも、今の自分が得たものだった。
◇ ◇ ◇
曲の大部分が完成したのは、それから2週間ほど後だった。
タイトルも決まっている。
【『灯りを消す前に』】
部屋の照明を消す直前。
1日が終わる少し前。
明日になれば、また仕事も生活も始まる。
その境目に置く曲だった。
隼人は仮歌を入れ、最初から確認する。
自分で歌うと、やはり少し強い。
声の輪郭が前へ出すぎる。
キーそのものは歌えるが、この曲で必要なのは歌唱力を見せることではない。
Mioの声なら、もっと静かになる。
「やっぱり本人に歌ってほしいな」
そこまで確認してから、隼人は初めて連絡先を開いた。
Nagiの時とは状況が違う。
今のLentoはアニメEDの影響もあり、以前より名前が知られている。
登録者3,000人ほどの個人歌い手へ、70万人を越えた作曲者から突然メールが届けば、警戒される可能性は高い。
「また偽物だと思われそうだな」
隼人は苦笑しながら文章を書く。
以前からMioの歌を聞いていること。
特に声量を落とした時の歌声に惹かれたこと。
その声を想定して1曲作ったこと。
もし興味があればデモを聞いてほしいこと。
今回も自分から声を掛けているため、制作費を求めるつもりはない。
ただし公開する場合の権利や収益については、事前にきちんと相談する。
断っても問題ないことも明記した。
文章を読み返し、Lentoの活動用メールアドレスから送信する。
「さて、どうなるか」
隼人はそのまま大学の課題へ移った。
返事が来る保証はない。
MioがLentoを知っている保証すらない。
歌ってもらえなければ、この曲は公開しないつもりだった。
Nagiの時と同じで、別の歌手へ回す気はない。
Mioの声から作った以上、その声が入らないなら完成させる意味も薄い。
◇ ◇ ◇
返信が届いたのは、翌日の昼過ぎだった。
隼人は大学の講義を終え、友人たちと昼食を食べている途中に通知へ気づいた。しかし、その場では開かず、午後の講義まで少し時間が空いたところで1人になってからメールを確認した。
送り主はMioだった。
文章の最初には、返信が遅くなったことへの謝罪が書かれている。
その次の文章を読んで、隼人は思わず笑った。
【最初は迷惑メールかと思い、その次にLentoさんを名乗った詐欺だと思いました。】
「またか」
Nagiとほとんど同じ反応だった。
ただし、その後に続いている文章は少し違った。
【チャンネルに記載されているメールアドレスと同じだったので、本物なのだろうと思っていますが、まだ半分くらい疑っています。】
「半分残ってるのかよ」
隼人は大学のベンチで小さく笑う。
さらに読み進める。
【私の歌を聞いていただいたこと自体が信じられません。Lentoさんの『余白の先へ』と『帰らない季節』は以前から聞いていました。もし本当に私の声を想定した曲なのであれば、聞いてみたいです。】
どうやらLentoを知らなかったわけではないらしい。
むしろ、以前から曲を聞いていた。
それなら余計に驚いたのだろう。
隼人は短く返信し、デモ音源を共有した。
そして午後の講義へ向かった。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
隼人が自室で翌日の予定を確認していると、Mioから新しいメールが届いた。
デモを送ってから6時間ほど経っている。
本文を開く。
【3回聞きました。】
最初の一文のあと、少し長い文章が続いていた。
【自分が歌っているところを想像できる曲でした。でも、それ以上に、自分ではこういう曲を選ばなかったと思います。私はもう少し声を出した方がいいと思っていたので、最近は明るい曲や高い曲を選ぶことが増えていました。】
隼人は続きを読む。
【最後の部分が特に好きです。あそこを自分がどう歌うのか、試してみたいと思いました。もしまだお話が有効なら、歌わせてください。】
「よし」
小さく声が出た。
隼人はすぐに制作ソフトを開くのではなく、まず返信を書いた。
もちろん有効であること。
正式に進める前に、一度音声で話したいこと。
曲の方向性や公開方法、権利関係についてもその時に確認したいこと。
送信してから、制作ノートを開く。
【Mio『灯りを消す前に』】
【本人了承。】
【次は、声を聞きながら完成させる。】
まだ曲は完成していない。
仮歌が入っているだけだ。
それでも隼人には、既に自分の声で完成させるより良いものになる確信があった。
3,000万人以上に聞かれた曲を作ったあとで、次に選んだ相手は登録者3,000人ほどの歌い手だった。
数字だけを見れば、ずいぶん小さくなったようにも見える。
隼人には、そうは感じられなかった。
70万人の登録者がいるLentoにも、3,000人の登録者がいるMioにも、歌う時に使える声は1つしかない。その声に自分が曲を書きたいと思えるかどうかは、登録者数では決まらなかった。
隼人はノートを閉じると、翌日の講義資料を鞄へ入れた。
Mioとの通話は、週末に決まった。
今度はどんな人物が、その声の向こう側にいるのか。
それを知ってから、『灯りを消す前に』の最後の形を決めればいい。




