二度目の高校生活
階段を下り始めたところで、味噌汁の匂いがした。
たったそれだけのことで、隼人の足が止まりかける。昨日までの自分にとって朝食とは、コンビニで買ったパンやおにぎり、出張先ならホテルの朝食会場で適当に済ませるものだった。実家へ帰れば父と食卓を囲むことはできても、母が作った料理を食べることはもうできなかった。
それが今は違う。階下から食器の触れ合う音が聞こえ、テレビでは朝のニュースが流れ、その向こうから母の声まで聞こえてくる。35歳まで生きた隼人にとって、それは懐かしいという言葉だけでは片づけられない日常だった。
だからといって、いきなり母へ抱きついて泣くわけにもいかない。美智子からすれば息子とは昨日も普通に話しているのだから、突然そんなことをすれば高校の入学式どころではなくなり、朝一番で病院へ連れていかれる可能性すらある。
隼人は階段の途中で一度深く息を吸い、なるべく普段通りの15歳を演じることにした。
「おはよう」と声をかけながらリビングへ入ると、キッチンに立っていた美智子が振り返った。その姿を真正面から見た瞬間、覚悟していたはずなのに胸の奥が強く締めつけられる。
記憶に残っている最後の母より、遥かに若かった。
髪には白いものがほとんどなく、顔色も健康そのもので、エプロン姿のまま忙しそうに朝食を用意している。病院のベッドでも、遺影の中でもない。41歳の母が、ごく普通の朝を過ごしていた。
「おはようじゃないわよ。入学式の日くらい自分でちゃんと起きなさい。今日から高校生なんでしょう?」
「起きたんだからいいだろ。遅刻する時間でもないし」
「そういう問題じゃありません。ほら、座って。ご飯冷めるわよ」
昔なら少し鬱陶しいと感じていたやり取りだったはずなのに、今はそれすら嬉しかった。隼人は余計なことを口にすれば声が震えそうだったので、大人しく椅子へ座った。
目の前には白いご飯と味噌汁、焼き魚、卵焼きが並んでいる。特別豪華な朝食ではない。それでも隼人は、しばらく箸を持ったまま料理を眺めてしまった。
「何よ。嫌いなものでも入ってた?」
「いや、そうじゃなくて……いただきます」
味噌汁を一口飲んだ。
記憶の中に残っていた味が、そのまま口の中へ広がる。
「……うまいな、これ」
「味噌汁飲んだだけで何その反応。昨日だって飲んだでしょう?」
「今日のは特別うまい気がする」
「何か欲しいものでもあるの?」
「息子が素直に褒めたんだから、まず喜んでくれよ」
美智子は怪訝そうな顔をしながらも、少し嬉しそうに笑った。その表情を見た隼人は、視線を落として焼き魚へ箸を伸ばす。まともに顔を見続けていたら、本当に泣いてしまいそうだった。
そこへリビングの扉が開き、スーツ姿の父が入ってきた。35歳だった頃には60代になっていた父も、この時代ではまだ43歳である。髪も黒く、背筋も伸びており、記憶にある姿より明らかに若い。
「お、ちゃんと制服着たか。昨日まで中学生だったのに、服が変わるだけで少しはまともに見えるな」
「朝一番で息子を褒めるのか貶すのか、どっちかにしてくれ」
「少しは褒めてるだろ」
「その『少し』がいらないんだよ」
反射的に言い返してから、隼人は妙な感覚を覚えた。父とこうしてくだらない話をしている自分が、ひどく懐かしかった。
父はコーヒーを飲みながら時計を確認すると、「今日は午前だけ会社へ顔出して、そのまま学校に行くからな」と告げた。
「父さんも来るんだっけ?」
「何だ、来てほしくないのか?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「もう半休取ってるから、今さら嫌だと言われても行くぞ」
隼人は一瞬だけ返事に困った。
最初の人生でも、両親は揃って入学式へ来ていた。だが当時の自分は高校生にもなって両親が学校へ来ることを少し恥ずかしく感じ、「別に来なくてもいいのに」と言っていた記憶がある。
今はまったく逆だった。
「じゃあ来ればいいよ。せっかく休み取ったんだし」
「今日は随分素直だな」
「高校生になったから成長したんだよ」
「まだ入学式も終わってないでしょう」と美智子が笑いながら会話へ入り、「私は昨日からカメラの充電もしてあるからね」と続けた。
「写真そんなに撮るの?」
「撮るわよ。高校の入学式なんて1回しかないんだから」
隼人はその言葉に、一瞬だけ何も返せなくなった。
確かに1回しかない。
本来なら。
今の自分にとっては2回目だが、同時に、もう二度と撮れないと思っていた写真でもある。
「まあ……好きに撮ればいいよ」
「やっぱり今日の隼人、ちょっと変じゃない?」
「朝から息子に難癖つけるのやめない?」
美智子が笑い、父もつられて笑う。
そんな普通の朝食を終えて、隼人は家を出た。
玄関を抜けた瞬間、春の少し冷たい空気が頬へ触れる。通学路には同じ制服を着た生徒が何人も歩いており、見渡す限り自分と同年代の少年少女ばかりだった。
「……本当に高校生なんだな」
身体が若いことは、歩き始めてすぐに実感できた。駅へ向かう途中には緩やかな坂道があるのだが、足が驚くほど軽い。肩こりも腰の重さもなく、少しくらい走っても息切れする気配すらない。
35歳は老人ではない。だが15歳と比べれば、身体の性能そのものが違う。
「若さってすげえな。こんなもん毎日無料で使ってたのか」
自分でも年寄り臭い感想だと思った。
しかし周囲へ目を向けると、今度は別の問題が見えてくる。同じ高校へ向かう生徒たちは当然ながら全員15歳前後で、昨日まで35歳だった隼人にはかなり幼く見えた。
会社では20代前半の新人とも普通に話していたが、15歳となれば話が違う。昨日まで取引先と酒を飲み、売上や納期の話をしていた人間が、今日から定期試験や部活動について同級生と話すことになる。
「こっちの方が難易度高くないか?」
音楽については知識も経験もある。
高校生については、20年前の経験しかない。
そんなことを考えていると、後ろから自転車のベルが聞こえた。道の端へ寄ろうとしたところで、続けて聞き覚えのある声が飛んでくる。
「隼人! お前歩きかよ!」
振り返った瞬間、隼人は言葉を失いかけた。
自転車に乗った少年が、こちらへ向かって手を上げている。短い黒髪に新品の制服。顔にはまだ高校生らしい幼さが残っているが、隼人がその人物を見間違えるはずがなかった。
「……拓海か」
「何だよ、その久しぶりに会ったみたいな反応。昨日も会っただろ?」
神谷拓海。
最初の人生でバンドのボーカルを務め、最後には解散を切り出した友人だった。
20代半ばの拓海が電話越しに告げた言葉を、今でも覚えている。
俺らの人生まで、お前の夢に付き合わせることはできない。
当時は裏切られたと思った。
今なら違う。
あれは拓海が自分の人生を守るために必要な決断だった。それと同時に、音楽以外を何も見なくなっていた隼人へ現実を突きつけてくれた言葉でもあった。
「いや、制服似合わねえなと思って」
「お前も同じ制服着てるだろ」
「俺は似合ってるから問題ない」
「朝から腹立つな、お前」
あまりにも昔と同じ調子で返してくるので、隼人は思わず笑ってしまった。
「後ろ乗ってく?」と拓海が荷台を軽く叩いた。
「入学式初日に2人乗りで教師に捕まるの嫌だから歩く」
「急に真面目になったな」
「俺も将来を考えるようになったんだよ」
「昨日中学校卒業したばっかりのやつが何言ってんだよ」
「人生について考える時期が早く来たんだ」
「意味分かんねえ」
拓海は笑いながら自転車を押し始め、結局2人で学校まで歩くことになった。
校門へ着くと、新入生と保護者で周囲は混雑していた。満開を少し過ぎた桜から花びらが舞い、校門の前では看板を背景に写真を撮る家族が何組も並んでいる。
隼人はその光景を見ながら、最初の人生の記憶を思い出した。
ここから始まった。
軽音楽部へ入り、拓海たちとバンドを組み、卒業しても活動を続けた。夢を叶えるためなら何でもできると思っていた時代の始まりが、この入学式だった。
だからといって、すべてを変える必要はない。
拓海と友人になったことは失敗ではない。軽音楽部へ入ったことも、バンドを組んだことも、それ自体が間違いだったわけではない。
間違えたのは、その先だ。
音楽以外の人生を持たなくなった。
それだけは繰り返さない。
昇降口に貼り出されたクラス表を確認すると、隼人と拓海は同じクラスだった。そこも記憶通りだったが、隼人は余計なことを言わず、拓海と一緒に教室へ向かった。
教室にはすでに半分以上の生徒が集まっていた。同じ中学校から来た者同士で話している生徒もいれば、まだ誰とも会話せず自分の席へ座っている者もいる。
隼人も指定された席へ座り、何気なく周囲を見回した。
そして少し困った。
全員、若い。
当たり前だが、本当に若い。
男子はまだ身体つきに中学生らしさが残っている者も多く、女子も35歳の感覚で見れば完全に子どもだった。
「これは恋愛とか無理そうだな……」
誰にも聞こえない程度の声で呟く。
見た目だけなら隼人も同じ15歳なので、周囲から見れば何の問題もない。しかし精神的には昨日まで35歳だったのだから、いきなり同級生の女子へ恋愛感情を持てと言われても難しかった。
前世では音楽を優先しすぎて恋愛を後回しにした。それを反省しているからといって、2度目の人生では高校入学初日から彼女を作ろうという話にはならない。
「お前、何か朝から独り言多くない?」
近くの席に座った拓海から怪しまれ、隼人は「高校生活について真剣に考えてた」と適当に返した。
「入学式始まる前から?」
「スタートダッシュは大事だろ」
「お前そんなキャラだったっけ?」
「今日から高校生だからな。人は変わるんだよ」
「数時間で変わりすぎだろ」
危ないな、と隼人は思った。
35歳の感覚で話していると、15歳だった自分の性格から少しずつズレてしまう。だからといって昔の自分を完璧に演じ続けるのも疲れるので、周囲からは高校進学をきっかけに少し性格が変わった程度に思ってもらうのが一番楽だろう。
担任が入ってくると、教室の空気が一気に静かになった。簡単な説明と出席確認を終えた後、全員で体育館へ移動し、予定通り入学式が始まった。
校長の挨拶を聞きながら、隼人は何度か保護者席へ視線を向けた。
美智子と父が並んで座っている。
母は隼人と目が合うと少し笑い、父は真面目な顔で前を向いていた。
その2人を見ているだけで十分だった。
式が終わった後、隼人は予想通り校門前で美智子に捕まった。
「隼人、写真撮るからそこ立って。お父さんも早く来て」
「やっぱり撮るのか」
「当たり前でしょう。ほら、もう少し看板の近くに寄って」
15歳だった頃の自分なら面倒そうな顔をしただろう。
今回は素直に従った。
最初は隼人1人で撮り、その後は父と母も並ぶ。さらに拓海の家族と遭遇したことで、最後には2家族が一緒になった写真まで撮ることになった。
「隼人、もう少し笑って」と美智子に言われ、隼人は「これでも笑ってる」と返した。
「顔が固いのよ」
「写真慣れしてないんだから仕方ないだろ」
「高校生が何の写真慣れよ」
そんな会話をしながら撮られた1枚は、おそらく何年後かに見れば何でもない家族写真になる。
それでいい。
何でもない写真を、もっと残したかったのだから。
午後からは新入生向けの校内説明と部活動紹介が行われた。運動部や文化部が順番に紹介され、やがて軽音楽部の名前が呼ばれる。
数人の先輩がステージへ上がり、ギター、ベース、ドラム、ボーカルという編成で演奏を始めた。
音が鳴った瞬間、隼人の意識が切り替わった。
ギターが少し走っている。
ベースもそこへ引っ張られている。
ドラムは安定しているが、フィルへ入る瞬間だけ僅かにテンポが揺れる。
ボーカルは高音へ入るたびに喉へ力が入りすぎていた。
35歳まで積み上げた経験があるせいで、意識しなくても細かな部分まで聞こえてしまう。
それでも、嫌ではなかった。
むしろ楽しい。
アンプから出るギターの音も、身体へ響くドラムも、少し荒い高校生の歌声も、その全部が懐かしかった。
演奏している先輩たちは楽しそうだった。
それを見ている自分も、自然に笑っていた。
夢を諦めても、音楽まで嫌いになったわけではない。
それどころか、20年近く経っても好きなままだった。
「俺、軽音入るわ」
隣から拓海の声が聞こえた。
隼人はステージを見たまま、「そうか」と返した。
「お前も入るだろ?」
「見学には行く」
「入らないの?」
「まだ決めてない」
拓海が意外そうな顔をする。
「お前、中学でもギターやってたじゃん」
「音楽はやるよ。ただ、ちょっと違うことをやってみたい」
「違うことって?」
「それもまだ考え中」
今の段階で決まっていることなど、ほとんどない。
曲をネットへ投稿する時期も決めていない。
活動名もない。
そもそも歌手として通用するかどうかさえ、昨日少し声を出しただけでは判断できない。
だから急いで決める必要もなかった。
放課後になると、拓海に誘われて軽音楽部の見学へ向かった。
部室の扉を開けた瞬間、隼人は思わず笑いそうになった。
古いアンプ、何本ものケーブル、壁へ貼られたライブ告知、使い込まれたドラムセット。埃と金属と機材が混ざった独特の匂いまで、記憶の中に残っていたものと同じだった。
「見学?」と先輩に聞かれ、拓海が元気よく返事をする。その横で隼人も軽く頭を下げると、壁際に置かれていたギターを見た先輩から「ギターやるの?」と聞かれた。
「一応、中学から少しやってます」
「じゃあ弾いてみる?」
差し出されたギターを見て、隼人は少しだけ迷った。
ちょうどいい。
知識や記憶だけではなく、15歳の身体がどこまで前世の演奏経験についてこられるのか、一度確認しておきたかった。
「じゃあ、少しだけ借ります」
ストラップを肩へ掛け、ネックを握る。
その瞬間、懐かしい感覚が戻ってきた。
コードの形は覚えている。
音の位置も分かる。
次にどこへ指を動かせばいいか、考えなくても理解できる。
ただし身体は別だった。
簡単なコードなら問題ないが、速いフレーズへ入ると指が記憶ほど滑らかに動かない。握力も弱く、長時間弾けば前腕が疲れるだろう。知識と感覚だけ35歳まで進んでいて、身体だけが15歳へ戻っている状態だった。
「なるほど。これはちゃんと練習し直しだな」
「え、何が?」
拓海に聞かれ、隼人は「いや、思ったより指鈍ってるなって」と誤魔化した。
「でもお前、前より上手くなってない?」
「気のせいじゃない?」
実際には逆だった。
技術そのものは身体が追いついていないが、音の出し方や不要な力を抜く感覚は前世の経験が残っている。15歳の自分が同じギターを弾いていた頃より、明らかに無駄が少ない。
「結構弾けるじゃん。入部する?」と先輩に誘われたが、隼人は少し考えてから「もう少し考えます」と答えた。
軽音楽部へ入ること自体は悪くない。
誰かと演奏する楽しさも知っている。
ただ、前世と同じ流れでバンドを組み、そのまま同じ夢を追い始めることだけは避けたかった。
部室を出たところで、拓海が隼人の肩を叩いた。
「なあ、俺バンドやりたいんだけどさ」
隼人は足を止めた。
覚えている。
似たような会話を、最初の人生でもした。
「お前ギターで、俺がボーカル。あとはベースとドラム探せばできるだろ?」
昔の自分なら、その場で頷いていた。
そこからバンドが始まった。
楽しかった。
本当に楽しかった。
だからこそ、今度は同じ形を選ばない。
「悪い。俺はバンドには入らない」
「え、マジで?」
「少なくとも、固定メンバーで上を目指すようなバンドはやらないつもり」
「音楽やめるの?」
「いや、むしろ本気でやる」
「じゃあ何でだよ」
拓海が本気で分からないという顔をしている。
当然だろう。
15歳の隼人が突然こんなことを言い始める理由など、拓海には知りようがない。
「1人でやってみたいんだよ。曲を作って、自分で演奏して、できれば自分で歌って、録音までやる。完成したらネットに出すのも面白そうだろ」
「お前が歌うの?」
「そこ引っかかるよな」
「だって、お前ずっとギターだったじゃん」
「だから試してみるんだよ。下手だったら笑えばいい」
「それは絶対笑う」
「そこは嘘でも応援するって言えよ」
2人で笑う。
拓海は少し残念そうだったが、それ以上強く誘ってくることはなかった。
「じゃあ俺は別でメンバー探すわ」
「それがいいと思う」
「何かお前、妙に余裕あるな」
「高校生になったからな」
「それ便利な言い訳にするのやめろ」
そのまま2人で駅まで歩き、途中で別れた。
帰宅すると、美智子がリビングのパソコンへ入学式の写真を取り込んでいた。
「隼人、これ見て。結構綺麗に撮れてるでしょう?」
画面には校門前で立つ自分と、その両側に並ぶ両親が映っていた。
隼人はしばらく黙って写真を見る。
若い父。
笑っている母。
真新しい制服を着た自分。
「……これ、ちゃんと残しといて」
「もちろん残すけど、どうしたの?」
「いや。せっかく撮ったんだから」
「今日の隼人、本当に写真に優しいわね」
「写真に優しいって何だよ」
美智子が笑った。
隼人も笑う。
夕食と風呂を済ませて自室へ戻ると、ようやく今日1日の出来事を整理する時間ができた。
机へノートを広げる。
今の自分には、まともな音楽制作環境がない。
中学生の頃に買ってもらったギターはあるが、それだけだ。パソコンも家族共用のものしかなく、本格的に音楽制作へ使うには厳しい。録音用のマイクもなければ、オーディオインターフェースもない。
必要な環境を頭の中で計算すると、最低限でも10万円以上はかかりそうだった。少し余裕を持って揃えるなら15万円程度は見ておいた方がいい。
「15歳に15万円は普通に高いな」
父へ頼めば、一部くらいは出してくれるかもしれない。
しかし全部買ってもらうつもりはなかった。
音楽を続けるなら、金についても自分で考える。
前世では音楽へ金を注ぎ込むことばかり考えていたが、35歳まで会社員を経験した今なら、収入と支出を管理することも活動の一部だと理解している。
「高校生活に慣れたらバイト探すか。週3くらいなら何とかなるだろ」
そこで隼人は、自分がまた音楽中心に予定を組み始めていることへ気づいた。
「いや、先に学校だな」
思わず苦笑する。
高校生活が始まったばかりなのだから、授業の時間や宿題の量も分からない。アルバイトを始めるなら、それを確認してからでも遅くない。
次に、今後身につけ直す必要があるものを考える。
歌唱と発声は最優先になる。
ギターは身体を慣らし直し、ベースと鍵盤も少しずつ戻していく。作曲や編曲については前世の知識を使えるが、DTMや録音、ミックスについては20年前より先の知識を持っていることが大きな武器になる。
もっとも、知識があっても機材がなければ始まらない。
そして、急いで始める理由もない。
隼人はスマートフォンの録音機能を開き、昨日と同じように自分の声を確認してみた。
低い音から少しずつ上げる。
今度は息の量を変える。
声を前へ出す感覚と、少し力を抜く感覚を試す。
やはり面白かった。
狙った音程へ声が自然に近づく。失敗しても、なぜ失敗したのかが自分で分かる。喉に力が入ったのか、息が足りなかったのか、母音が崩れたのか、その違いを感覚的に判別できる。
神から与えられた【芸能の加護】は、何もしなくても上手く歌える能力ではない。
むしろ、自分の失敗を理解しやすくする能力に近い。
直すべき場所が分かる。
なら、練習すればするほど伸びる。
「これは楽しいな」
何度か録音して聞き返しているうちに、隼人は時間を忘れかけた。
もう1回だけ。
次は少し声の位置を変えてみる。
その次は息を減らしてみる。
気づけば、昔と同じ思考になっていた。
隼人は時計を見る。
22時を少し過ぎている。
「……今日はここまで」
スマートフォンを机へ置いた。
昔なら続けていた。
翌日眠くなっても構わず、納得するまで何時間でも練習しただろう。
でも今度は違う。
明日は学校がある。
朝には母が作った朝食がある。
拓海とも会う。
授業も受ける。
音楽だけが明日ではない。
隼人はノートを開き、これからの自分が忘れないように1つの文章を書いた。
【人生を音楽だけにしない。それでも音楽をやる時だけは、本気で向き合う。】
書き終えてから、しばらくその文章を眺めた。
これくらいでいい。
前世では、音楽を本気でやるなら他のすべてを犠牲にするのが当然だと思っていた。
でも本当は違ったのかもしれない。
学校へ行きながらでもいい。
友人と遊びながらでもいい。
家族と食事をしながらでもいい。
大学へ進んでもいい。
音楽以外の仕事を持っていてもいい。
それでも作りたい時に本気で作ればいい。
視界の奥には、運命のダイスで取得した〈12〉の楽曲が今も残っている。頭の中で思い浮かべようとすれば、旋律も伴奏も歌唱イメージも取り出せる。
けれど、まだ作らない。
今の自分では、この曲が持っているものを十分に形へできない。
歌唱力が足りない。
身体もできていない。
制作環境もない。
だから待つ。
半年でもいい。
1年でもいい。
もっと必要なら、それ以上でも構わない。
35歳だった隼人は、もう知っている。
夢は早く叶えれば偉いわけではない。
成功した年齢が若ければ、その人生が優れているわけでもない。
急いだ結果、自分の人生そのものを置き去りにしてしまえば意味がない。
机の横には、今日着た制服が掛けてある。
明日の教科書を鞄へ入れ、時間割を確認すると、1時間目には数学と書かれていた。
「高校数学か……20年前だから普通に忘れてるんだよな」
音楽については経験を持ち越せても、すべての授業内容を完璧に覚えているわけではない。
むしろ35歳になってから一度も使っていない知識の方が多い。
「こっちも勉強し直しか」
少し面倒だった。
でも、その面倒くさささえ今は悪くなかった。
階下から美智子の声が聞こえてくる。
「隼人、明日も学校なんだから夜更かししないのよ!」
「分かってる!」
返事をしてから、隼人は小さく笑った。
今日は入学式へ行った。
家族写真を撮った。
拓海と話した。
軽音楽部を見学した。
ギターを弾いた。
少し歌の練習もした。
それだけだった。
曲を投稿していない。
活動名も決めていない。
運命のダイスで手に入れた曲を完成させてもいない。
それでも十分に楽しい1日だった。
最初の人生では、いつからか前へ進んでいない時間を無駄だと思うようになっていた。
何曲作ったか。
何人集客したか。
次のライブが決まったか。
メジャーデビューへ近づいたか。
そんなことばかり考えていた。
今度は違う。
何も成し遂げなかった日にも、ちゃんと意味がある。
隼人はスマートフォンのアラームを設定すると、部屋の電気を消した。
明日は普通に高校へ行く。
音楽は、そのあとでいい。
2度目の高校生活は、最初の人生よりずっとゆっくりと始まっていた。




