第二十話 その布は、日本を描き始めた
時代は、前へ進んでいた。
戦争は遠くで起き、
新聞は勝利を語り、
学校では「新しい日本」が教えられていた。
その流れの中で、
一人の少年が、少しだけ早く、
“理解してはいけないもの”に手を伸ばした。
それを、誰も止めなかった。
なぜなら――
それは、あまりにも優秀に見えたからだ。
明治式の小学校の教室は、
静まり返っていた。
黒板の前で、
教師が日本地図を指し示している。
「では、この山脈と、
この川の位置関係について
分かる者はいますか」
教室の空気が、わずかに張り詰める。
多くの子どもたちは、
地図を見つめながら首を傾げていた。
その中で――
尚造は、すっと手を挙げた。
「はい、尚造」
指名されると、
尚造は立ち上がり、迷いなく答える。
「山脈があるから
川は東と西に分かれて流れます」
「それで、
この辺りは人が集まりやすくて、
道も――」
教師は一瞬、言葉を失った。
「……その通りです。
よく分かりましたね」
教室がざわめく。
周囲の子どもたちは、
驚きと尊敬の混じった視線を尚造に向けた。
「すごいな、尚造」
「どうしてそんなこと分かるんだ?」
尚造は少し照れながらも、
胸の奥が熱くなるのを感じていた。
――沖縄の外には、
もっと広い世界がある。
⸻
その日の帰り道、
尚造は尚綾の袖を引いた。
「母さま。
東京って、どんなところ?」
尚綾は足を止め、
尚造の顔を見る。
「……どうして、
そんなことを聞くの?」
「先生が言ってた。
日本の中心で、何でも集まるって。
僕、行ってみたい。東京に」
尚綾の表情が、
わずかに曇った。
(今は……だめ)
日露戦争の最中。
不安定な時代。
まだ十歳の子を、
県外へ出すなど考えられない。
「だめよ」
尚綾は、きっぱりと言った。
「今は、沖縄にいなさい」
尚造は唇を噛み、
目に涙を浮かべる。
「……どうして」
⸻
その夜。
尚綾は、灯りの下で一通の手紙を開いた。
差出人は――
日露戦争に従軍している、秀伍だった。
紙には短く書かれていた。
|バルチック艦隊が
|日本近海へ向かっております。
|
|海が荒れます。
|しばらくの間、
|村の人を外の海へ出さぬよう
|お伝えください。
|
|海は、戦の前に静かになるものです。
尚綾は、窓の外の海を見た。
沖縄の海は――
今夜、やけに静かだった。
(尚造を外へ出すわけにはいかない)
戦争は、
遠い海で始まり、
静かに村へ届く。
隆造と尚綾は顔を見合わせた。
「誕生日が近いですね」
「ええ。十歳ですし……
気持ちを切り替えさせましょう」
二人は、ある計画を立てた。
⸻
誕生日当日。
小さな祝いの席に、
懐かしい顔が現れた。
「久しぶりだな、尚造」
尚典だった。
尚造は目を輝かせる。
「叔父上!」
尚典は笑いながら、
包みを差し出した。
「これは、三人からだ」
包みの中にあったのは、
日本地図。
尚造は息を呑み、
食い入るように地図を見る。
「……すごい」
尚典は、東京の話を少しだけした。
街の広さ、人の多さ、行き交う情報。
尚造は夢中で聞いていた。
その夜、隆造は尚造を工房に連れていった。
「尚造。
紅型を、やってみるか」
「いいの?」
「ああ。まずは、
日本を描いてみよう」
布の上に広がる、
日本列島。
尚造は、
真剣な顔で筆を握った。
島の形。
山の位置。
海の流れ。
その線は、
幼いながらも、妙に正確だった。
尚綾は、その様子を見つめながら、
胸の奥に小さな不安を覚えた。
(……この子は)
だが、工房に戻った平穏な空気に、
その不安は溶けていく。
尚造は笑っている。
隆造も、尚綾も、笑っている。
――家庭の平穏は、確かに戻った。
それが、
次の歪みへ続く一歩だとは、
まだ誰も知らなかった。
⸻
(つづく)




