第十五話 仲村工房、生まれる
王国がなくなっても、
人は朝を迎え、名を名乗り、
生活を続けていく。
だが――
これまで必要なかったものが、
急に「必要だ」と言われる時代が来た。
姓。
戸籍。
そして、家と仕事の形。
これは、
名もなかった職人が名を持ち、
工房が“家業”として生まれる話。
そして同時に、
周囲が誰も想像していなかった
とんでもない夫婦関係が
明らかになる回である。
朝。
工房の前。
やわらかな光の中、
尚綾が洗い物をしている。
水の音。
「……姉上」
手が止まる。
振り返る。
「……秀」
少しだけ、呼び慣れた響き。
秀伍が立っている。
以前と変わらぬ姿。
だが、どこか距離もある。
「その呼び方……」
秀伍、わずかに苦笑する。
「変わりませんね」
尚綾、肩をすくめる。
「変えるつもりもないわ」
一拍。
秀伍の視線が、家の中へ向く。
「……お変わりありませんか」
少しだけ丁寧な声。
尚綾、ふっと笑う。
「ええ」
「思っていたより――」
一瞬だけ空を見上げる。
「ずっと、楽しいわ」
秀伍、目を細める。
「それは……何よりです」
間。
「ご無理は、なさらないでください」
尚綾、少しだけ呆れたように笑う。
「心配性ね、相変わらず」
一歩、近づく。
「でも、大丈夫」
「私はもう、“守られる側”じゃないから」
秀伍、わずかに息を呑む。
そして、静かに頭を下げる。
「……承知いたしました」
顔を上げる。
「では」
背を向ける。
「また、伺います」
歩き出す。
尚綾、背中に向かって。
「ええ」
「またね、秀」
秀伍は振り返らない。
だが、その足取りは、少しだけ軽かった。
尚綾、ふっと息を吐く。
「……ほんと、変わらないわね」
⸻
朝の光が差し込む台所。
湯の沸く音が、穏やかに響いている。
尚綾は、
何事もなかったかのように湯を注ぎ、
膳を整えていた。
「おはようございます、隆造」
声はいつも通り、
涼やかで落ち着いている。
――対して。
隆造は顔が真っ赤だった。
視線は泳ぎ、箸を持つ手が定まらない。
「お、おはようございます……」
「綾さん……」
箸を落とす。
拾う。
また落とす。
「……?」
尚綾は不思議そうに首を傾げる。
「体調が悪いのですか?」
「い、いえ!」
「とても元気です!」
声だけが無駄に大きい。
完全に、挙動不審である。
尚綾は一瞬だけ、その様子を見つめ――
ほんのわずか、口元を緩めた。
だが何も言わず、
いつも通り朝餉を並べる。
隆造の動悸だけが、
やけにうるさかった。
⸻
役所
机を挟み、役人が淡々と書類を差し出す。
役人
「沖縄が正式に日本領となります」
「婚姻届の提出と、
戸籍謄本の作成が必要になります」
尚綾
「戸籍……」
隆造
「……姓、が要るのですね」
役人は頷いた。
役人
「はい。旦那様のお名前ですが……」
隆造は一瞬、
言葉を探すように視線を落とし、
静かに答えた。
隆造
「……私は、姓を持っていません」
役人が、
わずかに動きを止める。
役人
「では、新たに定める形になります」
隆造は尚綾を見る。
隆造
「生活に根ざした、
町の工房にしたいのです」
迷いはなかった。
尚綾は、
少し考えてから自然に言った。
尚綾
「“仲村”はいかがでしょう」
「人の“仲”に、暮らしの“村”」
隆造は、
その言葉を噛みしめるように頷く。
隆造
「……はい」
一拍。
「姓は仲村」
「工房の名も、仲村工房で」
こうして、
沖縄の歴史と人々の暮らしを布に刻み、
未来へ“問い”を残す紅型工房が生まれた。
⸻
数日後。
仲村家の座敷に、
離島から隆造の友人たちが集まっている。
友人A
「久しぶりだな、隆造!」
友人B
「相変わらず布ばっかりか?
俺たちはもう所帯持ちだぞ」
友人C
「安心しろ。
お前みたいな失恋した童貞オタク男子でも、
そのうち縁は――」
その時。
襖が静かに開いた。
尚綾
「お茶をお持ちしました」
主婦姿の尚綾が、
自然な所作で茶を配る。
沈黙。
友人一同
「………………?」
友人A
「……え?」
友人B
「……奥さん?」
友人C
「……え、姫様?」
尚綾は、にこやかに会釈する。
尚綾
「仲村綾です」
沈黙。
隆造は、完全に固まっていた。
⸻
次の瞬間。
友人たちが一斉に隆造を囲む。
友人C
「ちょっと待て」
友人A
「いつの間に!?」
友人B
「お前、失恋して
一生布と生きるって言ってたよな!?」
隆造は視線を逸らし、
耳まで赤くする。
隆造
「……その……」
友人A
「どうやって落としたんだ!?」
隆造は、しばらく黙ったあと――
小さく、しかしはっきり言った。
隆造
「……綾さんの方から、でした」
一瞬の静寂。
友人一同
「は?????」
尚綾は、
何事もなかったようにお茶を注ぐ。
尚綾
「何か問題でも?」
友人たちは顔を見合わせ――
次の瞬間、堪えきれずに大笑いした。
友人B
「隆造、お前……
とんでもない人生送ってるな!」
隆造は俯いたまま、
ぽつりと呟く。
隆造
「……はい。幸せです」
尚綾は、その言葉を――
決して、聞き逃さなかった。
⸻
(つづく)




