第十四話 尚綾、静かな暮らしのはじまり
琉球処分を経て、
王府を離れた尚綾は、
一人の主婦としての日常を歩み始める。
紅型布と測量で鍛えられた
隆造の正確さと観察眼、
そして尚綾の育ちの良さと知性は、
日常生活の小さな工夫や家事の知恵にも表れていた。
王府での華やかさとは違う、
平凡でありながらも濃密な毎日。
その中で、
二人の心の距離は少しずつ縮まり、
互いの存在を確かめ合う時間が生まれる。
朝。
工房の外。
まだ人の少ない通りに、
柔らかな光が差し込んでいる。
隆造は、水桶を運びながら歩いていた。
「隆造」
背後から声。
振り返ると、
そこに立っていたのは――
尚秀。
「……尚秀様」
思わず口に出る。
尚秀は、わずかに眉を下げる。
「その呼び方は、もういい」
一拍。
「俺は今、比嘉の家にいる」
「比嘉の、秀伍だ」
隆造、言葉に詰まる。
「……ですが」
言い淀む。
「どう接すればよいのか――」
正直な戸惑い。
尚秀は、少しだけ笑った。
「変わらないこともある」
「だが、変わるべきこともある」
一歩、近づく。
「俺はもう、
誰かの上に立つ人間じゃない」
「だから――」
短く言い切る。
「秀伍と呼べ」
沈黙。
隆造は、ゆっくりと息を吸う。
「……秀伍」
その一言。
尚秀――秀伍は、
わずかに目を細める。
「それでいい」
一拍。
「お前は、どうだ」
「これから」
隆造は少しだけ空を見上げる。
「……まだ、分かりません」
正直な答え。
「ですが」
一拍。
「逃げるつもりは、ありません」
秀伍は、小さく笑う。
「そうか」
そして、背を向ける。
「なら、それでいい」
歩き出す。
「またな、隆造」
振り返らない。
隆造も、呼び止めない。
ただ、その背を見送る。
「……ああ」
小さく答える。
水桶の水面が、
わずかに揺れていた。
その声は、
もう“家臣”のものではなかった。
⸻
首里城を離れ、
隆造宅の隣家へ向かう尚綾は、
軽やかな足取りで高瀬家の門を叩いた。
「お隣の高瀬です」
「まあ姫様!
……綾さん、どうぞ!」
高瀬さんは笑顔で手を差し伸べ、
尚綾を中に招き入れた。
「今日から、
少しずつ主婦業のコツを
教えて差し上げますね。
お吸い物から始めましょうか」
尚綾は、
初めて包丁を握り、鍋をかき混ぜる。
しかし、
塩加減ひとつで味が決まる
中身汁の難しさに、
眉をひそめてしまう。
「……塩が、少し多すぎますか?」
横から声がかかる。
隆造は、肩を少し引き寄せ、
尚綾の背に手を添える。
「綾さんの手料理なら、
何でも美味しいです」
尚綾は驚きながらも、
心の奥で小さな温かさを感じる。
鍋をかき混ぜる手元に、
隆造の手がそっと触れる――
初めての、優しいスキンシップ。
「隆造…」
「あなた、手が温かい……」
沈黙。
湯気の音だけが、
静かに立ちのぼる。
尚綾は、一瞬だけ目を伏せる。
何かを決めたように。
そして――
そして突然振り向き、
壁を背に隆造を押しやる。
「今宵は逃しませんから」
隆造は顔を真っ赤にし、
声も出ない。
「綾さん……」
鍋の湯気の中、
二人の距離が少しだけ近づいた。
紅型の布に向かう日々の緊張感とは違う、
日常の中の甘く、慎ましい緊張感。
尚綾は、今日も鍋をかき混ぜながら、
心の中で小さな勝利を噛みしめる。
隆造も、彼女の一挙一動を見つめ、
日々の愛おしさを噛みしめるのであった。
それは、
失ったものの先に、
ようやく手にした日常だった。
⸻
(つづく)
主な登場人物は
隆造編前編をご参照ください。
また、隆造は不器用な男なので、
公式ではここまでにしました。
……あとは、
皆さまのご想像にお任せします。
(たぶん、逃げられていません)




