最終話 干しアワビ王子、その後
東京での生活にも、
尚典はようやく慣れ始めていた。
洋装にも、パンにも、人力車にも、
もう大きく眉をひそめることはない。
そんなある日、
彼のもとに一通の手紙が届く。
差出人は、姉・尚綾。
王府を離れ、
それぞれの場所で生き始めた姉弟が、
文字だけで交わす、
静かで騒がしい時間の始まりだった。
その手紙は、
やけに分厚かった。
尚典は嫌な予感を覚えながら、
封を切る。
経験上、姉からの長文は、
だいたい幸福度が高い。
⸻
|典へ
|
|元気にしていますか。
|東京の生活は、もう少し慣れましたか?
|
|こちらは穏やかです。
|隆造さんは相変わらず紅型に向き合っていて、
|私はその横で、日々の暮らしを整えています。
|
|朝はお茶を飲み、
|昼は布の音を聞き、
|夜は今日あったことを話して眠ります。
|
|結婚とは、思っていたよりずっと静かで、
|それでいて、とても満たされるものですね。
⸻
尚典は、
途中で一度、
手紙を机に置いた。
「……情報量が多い」
王府時代の姉は、もっと簡潔だったはずだ。
どうやら幸福とは、人を饒舌にするらしい。
⸻
|追伸
|子どもが生まれました。
|名前は、尚造です。
|
|よく泣き、よく眠り、
|そして、よく分からない顔で天井を見ています。
|
|あなたの弟分になりますね。
⸻
尚典は、
その一文を何度も読み返した。
「……弟分、か」
その夜、彼は返事を書いた。
⸻
|姉上へ
|
|手紙、読みました。
|情報が多く、少し混乱しました。
|
|尚造のこと、祝福します。
|本は、何冊あっても困らないでしょう。
|教材も、必要になるはずです。
|
|こちらで手配します。
⸻
それからというもの、
尚典は定期的に荷を送るようになった。
文字の練習帳。
算術の本。
挿絵の多い読み物。
少し背伸びをした内容の教材まで。
必要かどうかは、あまり考えなかった。
「あったほうが良い」と思ったから送った。
――結果、
一族の子どもに教材を仕送りし続ける、
"廃課金教育おじさん"が誕生した。
尚造本人は、まだその事実を知らない。
⸻
1880年。
やがて尚典は、
東京に完全に腰を落ち着ける。
王府の王子でもなく、
社交界の客人でもなく、
ただ「尚の名を持つ一人」として。
その暮らしの中で、
彼の血筋は静かに根を張り、
やがて「東京尚家」と呼ばれる名家となった。
120年後――
その系譜から、
一人の紅型職人が生まれる。
名を、尚継という。
今はまだ、
干しアワビ王子が鏡の前で腕を組み、
パンとスープに悩んでいるだけの時代。
だが確かに、
この東京の日常から、
未来は始まっていた。
⸻
尚典編・完
※尚典編からお読みの方へ
隆造編第六話を読むと、
干しアワビ王子の評価が少し変わります。
※隆造編再開のお知らせ
次話から、再び隆造編本編に戻ります。
この穏やかな時間が、
どんな未来へ繋がっていくのか――
この先も、
シリアスとコメディが交差していきます。
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