第四話 干しアワビ王子、東京の日常で溶け始める
社交会も贈答も乗り切った
干しアワビ王子・尚典。
だが、東京生活の本番はここからである。
洋食、街歩き、洋装――
王府時代には存在しなかった“日常”が、
尚典の天然を次々と刺激する。
そして、
それらはすべて従者の手紙となり、
姉・尚綾と隆造を
爆笑の渦へと叩き込むのであった。
東京の朝は早い。
尚典は洋装に身を包み、
鏡の前で腕を組んでいた。
「この服は……正しいのか?」
ジャケットの前を留めるのか、
開けるのか。
王府時代には存在しなかった選択肢に、
干しアワビ王子は完全に固まっている。
「殿、それで問題ございません」
従者は即答した。
一切の迷いがない。
経験である。
「……そうか」
尚典は頷いた。
だが三秒後、
「やはり一度脱ぐべきではないか?」
戻った。
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最初の事件は朝食だった。
「これは……汁物か?」
尚典が見つめているのは、
パンと共に出されたスープ。
「スープでございます」
「では、ご飯は?」
「……パンが主食です」
一瞬の沈黙。
「……主食が、これか」
尚典はパンを持ち上げる。
じっと見る。
さらに見る。
そして小声で呟いた。
「硬くないな……」
一拍。
「干しアワビより柔らかい」
比較対象がおかしい。
従者は静かに確信した。
――これは、記録案件である。
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街歩きでも事件は起こる。
人力車を見て、尚典は真顔で尋ねた。
「あれは……」
「運ばれているのか?」
「それとも偉いのか?」
発想が王族である。
「どちらでもございません」
「そうか……」
一拍。
「東京は難しいな」
結論が広い。
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少し離れた場所で、
伊藤が穏やかに見守っていた。
「尚典殿、慣れとは時間が解決します」
「時間……そうか」
尚典はゆっくり頷く。
「干しアワビも、戻すには時間が必要だった」
例えとしては正しい。
正しいが、
それでいいのかは分からない。
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その夜。
従者は机に向かい、
万年筆を走らせていた。
|拝啓
|尚典殿、本日も天然安定でございます。
|
|朝、服装にて一度迷走し、
|その後自ら混乱を再起動されました。
|
|食事においては、
|主食概念の再定義が行われております。
|
|人力車については、
|新たな身分制度として誤認されました。
|
|総評:本日も順調に“戻り”つつあります。
|乾物から、常人へ。
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数日後。
尚綾は手紙を読み、
「ふふ……っ」
一行で崩れた。
「隆造……これ……」
隆造は受け取り、読む。
止まる。
もう一度読む。
「……主食概念の再定義とは」
そして、
「ははは……!」
耐えきれなかった。
「順調に戻っているそうよ」
尚綾は笑いながら言う。
「それは良かったな……」
隆造も笑いながら答えた。
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遠く離れた東京で、
尚典は今日も真面目に、
日常と向き合っている。
その努力が、
笑いに変換されていることを――
まだ知らない。
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干しアワビ王子は今日も、
少しずつ、しかし確実に――
溶け始めていた。
⸻
(つづく)




