第一話 干しアワビ王子、東京で初つまずき
王府時代は冷徹で完璧だった王子――
尚典。
しかし、明治の東京に降り立った瞬間、
そのプライドは
干しアワビのようにカチコチに硬直し、
天然お上りさんへと変貌する。
本章では、
干しアワビ王子が東京駅に初めて降り立ち、
伊藤博文の指導のもと
社交界デビューを果たすまでの珍道中を描く。
手紙で姉や隆造に報告されるその様子は、
読む者をクスッと笑わせるだろう。
東京駅――
まだ蒸気機関車の白い煙が
空を漂う明治の朝。
尚典は紺色の礼服に身を包み、
背筋をピンと伸ばして立っていた。
「ふむ……これが東京か」
王府時代の威厳を胸に秘め、
その姿は一見、
非の打ちどころのない王子である。
――が。
駅前の人混みに、
ほんの一歩、足を取られる。
「うっ」
わずかに体勢を崩す。
ほんの一瞬。
しかし王子にとっては致命的である。
「うう……これは……」
尚典はその場で静止した。
「これは……失礼にはならぬだろうか」
論点が違う。
傍らで従者が慌てて手を差し伸べる。
「殿、お気をつけくださいませ!」
「む……おお、ありがとう」
声は冷静。
だが耳の先が、わずかに赤い。
干しアワビのように硬く、
しかし思ったよりもろい。
――王子、初手で動揺。
東京駅の賑わいは、まだ序章に過ぎない。
この後、彼を待つのは――
社交。
しかも、“明治式”である。
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「尚典殿」
穏やかな声がかかる。
「まずは相手の目を見て、挨拶をするのです」
伊藤博文は、やさしく、そして逃がさない。
「え、目……相手を……?」
尚典の思考が止まる。
(目を見る……?)
(それは、威圧ではないのか……?)
干しアワビ王子、
基本動作で早くも再起不能。
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一方、その様子を見ていた従者は、
静かに懐から手帳を取り出す。
さらさらと筆を走らせた。
『尚典殿、上京初日にて軽くつまずく』
『現在、目を合わせる文化に困惑中』
一拍置いて、追記。
『天然、順調に進行中』
『姉上と隆造殿への報告が非常に楽しみである』
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こうして――
干しアワビ王子の東京生活は、
つまずき、混乱し、
そして記録されることで完成した。
なお本人は、
その事実にまだ気づいていない。
⸻
(つづく)




