第六十二話 沖縄返還の日
1972年5月15日。
沖縄返還。
長く続いたアメリカ統治が終わり、
沖縄は日本へ復帰した。
けれど――
それは、すべての終わりではない。
新しい時代。
新しい暮らし。
新しい家族。
それぞれの未来が、この日から始まる。
1972年5月15日。
午前0時。
沖縄全島に、サイレンと汽笛が鳴り響いた。
長い年月を経て。
この日、沖縄は日本へ復帰した。
27年にわたるアメリカ統治時代が終わり――
沖縄県が、再び始まった。
⸻
東京。
日本武道館。
会場には、多くの人々が集まっていた。
壇上には、日本国旗。
そして――沖縄県旗。
佐藤栄作は、静かに会場を見渡した。
長かった。
1945年から。
日本と沖縄の間には、
長い時間が流れていた。
やがて。
式典が始まる。
佐藤は、沖縄復帰について言葉を述べた。
その表情には、
安堵と緊張が入り混じっていた。
今日で終わるわけではない。
むしろ――
今日から始まる。
沖縄との新しい関係。
それを、佐藤は理解していた。
沖縄。
那覇市民会館。
こちらでも、式典が始まっていた。
屋良朝苗は、壇上に立つ。
昨日まで。
自分は、琉球政府の行政主席だった。
そして今日から――
沖縄県知事。
日本復帰後、
“最初の沖縄県知事”となる。
屋良は、ゆっくりと会場を見渡した。
そこには、
復帰を待ち続けた人々がいた。
喜ぶ人。
涙を流す人。
複雑な表情を浮かべる人。
そして――
まだ先のことを考えている人。
屋良は、静かに口を開いた。
「……本日」
「沖縄は、日本へ復帰しました」
会場に、静かな拍手が広がる。
屋良は、一度だけ目を閉じた。
終戦以来。
多くの人々が願い続けた日だった。
ようやく、ここまで来た。
だが。
屋良は知っている。
復帰すれば、
すべてが終わるわけではない。
基地問題。
生活。
経済。
県民の不安。
日本政府との関係。
そして、
沖縄自身がどのような未来を作るのか。
屋良は、まっすぐ前を見た。
「……ここからです」
小さな声だった。
だが。
その言葉は、
確かに屋良自身の中に残った。
⸻
同じ頃。
嘉手納基地。
ランパートは、
一人で基地の中を歩いていた。
見慣れた風景。
見慣れた兵士たち。
見慣れた建物。
だが――
今日から、
すべてが少し違って見えた。
ランパート。
最後の高等弁務官。
長い間、
沖縄の施政を担ってきた男の役目も、
終わろうとしていた。
その時。
「高等弁務官!」
振り返る。
ジャックだった。
その後ろには、何人もの米兵が立っている。
ジャックが、花束を差し出した。
「……お疲れさまでした」
ランパートは、少し驚いた顔をした。
「君たち……」
「今日くらいは、仕事を忘れてください」
ジャックが笑う。
ランパートは花束を受け取った。
「……ありがとう」
少し離れた場所。
ジョンがカメラを構えている。
カシャッ。
シャッターが切られる。
ランパートが振り向く。
「ジョン」
「はい?」
「写真を撮っているのか?」
「記念ですよ」
ジョンは笑う。
「最後の高等弁務官ですから」
ランパートは苦笑した。
「……最後、か」
その言葉を、静かに噛みしめる。
やがて。
ランパートは沖縄を離れる。
だが。
ここで過ごした時間が、消えるわけではない。
ジャックが敬礼する。
ランパートも、敬礼を返した。
「……元気でな」
「はい」
二人は、短く頷いた。
⸻
村。
仲村家の近くにある、小さな商店。
朝から、村の男たちが集まっていた。
「……日本になったな」
「なったな」
「本当に?」
「本当にだよ」
「昨日までアメリカだったのに?」
「そうだ」
一人が新聞を見る。
「沖縄県になったってよ」
「知ってる」
「じゃあ、今日から何が変わる?」
「……分からん」
「お前もか」
笑い声が起きた。
しばらくして。
一人の男が言った。
「まあ」
「とりあえず、日本になった」
「そうだな」
「基地は?」
「……残ってる」
「だよな」
男たちは空を見上げた。
飛行機の音がする。
誰も何も言わなかった。
やがて。
一人が笑った。
「まあ、今日からだ」
「何が?」
「俺たちの沖縄だよ」
「……そうだな」
男たちは、また笑った。
⸻
その日の午後。
バックナー家。
玄関の前。
健一は、深呼吸していた。
「……緊張する」
彩花が首を傾げる。
「そんな緊張する?」
健一は真剣な顔をする。
「するよ!?」
「結婚挨拶だよ!?」
「人生最大イベントだよ!?」
彩花は笑った。
「大丈夫だって」
「うちのおとう、村のおじぃだから」
義父は、元高等弁務官。
「いや」
「その”村のおじぃ”が一番信用できないんだけど」
「おとう」
「もう健一のこと気に入ってるから」
「……それでも緊張するんだよ」
その時。
玄関が開いた。
「おう」
バックナーが顔を出す。
健一の背筋が伸びる。
「お、お義父さん!」
バックナーは、二人を見る。
そして。
「……入れ」
「はい!」
家の中。
三人が座る。
健一は、姿勢を正した。
「本日は――」
バックナーが手を上げる。
「酒は飲めるか?」
「……………え?」
健一が固まる。
彩花が吹き出した。
「もう、おとう!」
「第一声それ!?」
バックナーは笑った。
「男を見るには、酒が一番だからな」
健一は慌てて答える。
「は、はい!」
「多少なら……!」
バックナーは満足そうに頷いた。
「よし」
「今日は飲もう」
健一は、ほっと息を吐いた。
(……助かった)
その時。
バックナーが、静かに言った。
「健一」
「はい」
「彩花を頼む」
健一の表情が変わった。
「……はい」
「大事にします」
バックナーは頷いた。
「それならいい」
彩花は、少し照れたように笑った。
「おとう……」
バックナーは笑う。
「今日は祝いだ」
⸻
夜。
沖縄県立博物館。
静かな展示室。
中央には、一枚の紅型が展示されていた。
『沖縄返還協定』
表面には。
沖縄の海。
空。
村。
人々。
そして――
未来。
美咲は、その前に立っていた。
隣には文。
隆司。
そして小林。
小林が、展示を見上げる。
「……完成したんだな」
美咲は静かに頷く。
「はい」
文は、紅型を見つめる。
「長かったね」
隆司も頷く。
「1945年から……」
誰も、それ以上は言わなかった。
その時。
入口から声がする。
「遅くなりました!」
美咲が振り返る。
「屋良先生!」
屋良が、少し疲れた顔で立っていた。
その後ろには――
バックナー。
彩花。
健一。
ジャック。
ジョン。
美咲は目を丸くする。
「みんな来たんですか?」
屋良が笑う。
「ええ」
「今日くらいは、ここに来ようと思いまして」
健一は、屋良を見て。
一瞬、固まった。
「……知事が普通に博物館に来てる」
屋良が振り返る。
「普通に来ますよ」
「いや……」
健一は困惑する。
「知事ですよね?」
「そうです」
「……なんか、もっと警備とか……」
屋良が笑う。
「今日は一人の沖縄県民として来たかったんです」
健一は黙った。
「……なるほど」
その横で。
彩花が小さく笑う。
「健一、まだ慣れてないね」
「何に?」
「仲村家に」
「それは……」
健一は展示された紅型を見る。
「もう諦めてます」
隆司が笑った。
「それでいい」
⸻
屋良は、ゆっくりと紅型の前へ歩いていく。
『沖縄返還協定』
その表面を見つめる。
「……沖縄だ」
美咲が頷く。
「はい」
屋良はしばらく黙っていた。
「今日」
「沖縄は日本へ戻りました」
「ですが」
屋良は、紅型を見る。
「この布に描かれている未来は」
「今日で完成したわけではありません」
美咲は静かに答えた。
「……はい」
文も、紅型を見る。
「これからですね」
バックナーが言った。
「そうだ」
ジャックも頷く。
ジョンはカメラを下ろした。
誰も、急いで言葉を続けなかった。
その場には。
長い年月を越えてきた人々がいた。
戦争を知る者。
基地を知る者。
復帰を願った者。
その時代を生きた者。
そして――
これからを生きる者。
⸻
美咲は、ふと彩花を見る。
「そうだ」
「彩花」
「ん?」
美咲は、にっこり笑った。
「次は――」
彩花が嫌な予感をした。
「……何?」
美咲は、紅型職人の目で笑った。
「彩花の花嫁衣装!」
「ええええ!?」
健一が驚く。
「えっ!?」
彩花は顔を赤くする。
「美咲!?」
文が笑った。
「いいじゃない」
「文さんまで!?」
バックナーも笑う。
「それはいいな」
「おとうまで!?」
ジャックが笑う。
「おめでとう」
ジョンも頷く。
「いい写真が撮れそうだ」
「ジョンさんまで!?」
展示室に笑い声が響いた。
屋良も笑っていた。
「仲村工房は、もう次の作品ですか」
美咲は頷く。
「はい!」
「紅型は、これからも続きますから」
その言葉に。
文は、静かに笑った。
⸻
『沖縄返還協定』
それは。
長い時間を越えて生まれた、
一枚の紅型だった。
けれど。
物語は、ここで終わらない。
国が変わる。
時代が変わる。
人が、新しい人生を始める。
そして――
誰かの人生には、
また新しい紅型が生まれていく。
美咲は、彩花を見た。
「さて」
「どんな花嫁衣装にしようかな」
彩花が笑う。
「美咲、気が早い!」
その声が、静かな展示室に響いた。
1972年。
沖縄は、新しい時代へ歩き始めた。
仲村家もまた。
次の色を描き始める。
――その先には。
新しい家族と、
新しい紅型が待っていた。
⸻
(つづく)




