第五十五話 表と裏
夜が明けた。
けれど、
沖縄の街に残ったものは、
炎だけではなかった。
怒り。
不安。
悲しみ。
そして――
「このままでいいのか」
という問い。
文は、一枚の白い布を前にしていた。
1970年12月21日。
朝。
仲村工房。
昨日までの喧騒が嘘のように、
静かな朝だった。
庭には、
いつものように風が吹いている。
しかし――
遠くから、
まだサイレンの音が聞こえていた。
文は縁側に座っていた。
その隣に、バックナー。
二人とも、しばらく何も話さない。
文が湯呑みを置く。
「……昨日は、大変でしたね」
「ああ」
「コザだけじゃない」
文は遠くを見る。
「沖縄中が、揺れているような気がします」
バックナーは答えない。
しばらくして、文が立ち上がる。
「バックナーさん」
「何だ?」
「工房に来てください」
⸻
仲村工房。
文が、奥から一反の白い布を取り出す。
作業台の上に広げる。
真っ白な布。
まだ何も描かれていない。
バックナーが見る。
「……新しい紅型か?」
文は頷く。
「ええ」
「作りましょう」
バックナーは少し驚く。
「今か?」
「今だからです」
文は筆を取る。
「昨日のことを、忘れないために」
「そして――」
「これからのことを、残すために」
バックナーは黙って白い布を見る。
⸻
文が布の表面に手を置く。
「私は、表面を描くわ」
バックナー
「……表面?」
文
「ええ」
「沖縄の風景」
「海」
「空」
「村」
「人々の暮らし」
文は微笑む。
「この島が、どういう場所なのか」
「それを描きます」
バックナーは少し考える。
そして――
「……俺は?」
文
「裏面です」
沈黙。
バックナー
「……俺は面倒な裏面か」
文
「そうです」
バックナー
「即答か」
文
「あなたにしか描けないでしょう?」
バックナーは苦笑する。
「条文でも書けというのか?」
「ええ」
「基地」
「安全保障」
「主権」
「返還」
バックナーの表情が少し変わる。
「……随分と難しい紅型だな」
「だから、あなたに頼むんです」
⸻
バックナーは白い布の裏側を見る。
何もない。
ただの白。
文が静かに言う。
「でも――」
バックナーが顔を上げる。
「あなたが描く前に」
「一つ、やってもらいたいことがあります」
「何だ?」
文は筆を置く。
「コザへ行ってください」
バックナー
「……」
文
「そして、見てきてください」
バックナー
「何を?」
文
「沖縄の人たちが、何に怒っているのか」
「米軍の人たちが、何を恐れているのか」
「そして――」
文はバックナーを見る。
「あなた自身が、何を守りたいのか」
沈黙。
バックナーは答えない。
「それが分からなければ」
「裏面は描けません」
バックナーは白い布を見る。
「……試練か」
「ええ」
「あなたには必要でしょう?」
バックナーは小さく笑う。
「昔から、文さんには敵わんな」
「知っています」
⸻
同じ頃。
コザ。
焼け焦げた道路。
壊れた車。
割れたガラス。
人々が片付けをしている。
その中を、バックナーが歩く。
誰も彼に気づかない。
一人の男性が、焼けた車を見ながら呟く。
「……まただ」
別の男性。
「いつまで続くんだ」
バックナーは黙って聞いている。
少し離れた場所。
ジャックら米兵が瓦礫を片付けている。
一人の若い兵士が言う。
「I was really scared yesterday.」
(昨日は、本当に怖かった)
別の兵士。
「We didn't know what to do either.」
(俺たちも、どうしていいか分からなかった)
バックナーは立ち止まる。
沖縄の人間。
米軍の兵士。
どちらも傷ついている。
バックナーは何も言わない。
ただ、見ていた。
⸻
USCAR。
ランパートの執務室。
机の上には大量の報告書。
コザ暴動。
被害状況。
基地警備。
住民の反応。
日本政府からの問い合わせ。
ランパートは資料を閉じる。
その時――
秘書が入ってくる。
「高等弁務官」
「何だ?」
「屋良行政主席が来ています」
「……通してくれ」
⸻
USCAR会議室。
扉が開く。
屋良が入ってくる。
ランパートと向かい合う。
二人の間には、長いテーブル。
屋良
「昨日のことについて、お話があります」
ランパート
「私もです」
屋良は椅子に座る。
「では、始めましょう」
⸻
ランパート
「私は、暴動を容認することはできません」
屋良
「私もです」
ランパートが少し意外そうな顔をする。
屋良
「暴力によって問題を解決できるとは」
「私は思っていません」
「しかし――」
屋良はランパートを見る。
「なぜ、あれほどの人々が怒ったのか」
「そこを考えなければなりません」
ランパート
「事故が発端でした」
屋良
「はい」
「しかし、事故だけではありません」
ランパートは黙る。
屋良
「交通事故」
「軍事裁判」
「基地の負担」
「毒ガス」
「そして、これまで積み重なってきたものです」
ランパート
「……」
屋良
「昨日の暴動だけを見てはいけません」
⸻
ランパートは窓の外を見る。
「私は基地を守る責任があります」
屋良
「承知しています」
「兵士を守る責任もあります」
「分かっています」
ランパート
「ならば――」
屋良
「沖縄県民を守る責任も、私にはあります」
二人の視線がぶつかる。
沈黙。
⸻
ランパート
「あなたは、私に何を求めているんです?」
屋良
「県民の声を聞いてほしい」
「そして、言葉を選んでほしい」
ランパート
「……私の声明のことですか」
屋良
「はい」
ランパート
「私は暴動を非難しただけです」
屋良
「しかし――」
屋良は静かに言う。
「県民には、こう聞こえました」
「『沖縄県民が悪い』と」
ランパート
「……」
屋良
「あなたに」
「そのつもりがなかったことは分かっています」
「ですが」
「政治家や行政官の言葉は――」
「受け取った人間の心に残ります」
ランパートは何も言わない。
⸻
屋良が立ち上がる。
「私は暴動を肯定しません」
「しかし、怒りまで否定するつもりもありません」
ランパートを見る。
「怒りが生まれた理由を、取り除かなければ」
「また同じことが起きます」
ランパート
「……」
屋良
「そして次は――」
「もっと大きなものになるかもしれません」
屋良は部屋を出ていく。
⸻
扉が閉まる。
ランパートは一人になる。
机の上。
コザ暴動の報告書。
その隣に――
沖縄返還に関する資料。
ランパートは資料を重ねる。
そして呟く。
「返還か……」
「返すだけでは、終わらない」
⸻
仲村工房。
夕方。
バックナーが帰ってくる。
文は工房で筆を洗っている。
「どうでした?」
バックナーは答えない。
文が振り返る。
「……見てきました?」
「ああ」
「何が見えました?」
バックナー
「怒っている人間がいた」
「怖がっている人間もいた」
「そして――」
少し間を置く。
「どちらも、自分たちが正しいと思っていた」
文
「そうですか」
バックナー
「ああ」
「だから難しい」
文は頷く。
「そうでしょうね」
そして、白い布を見る。
「だから、表面だけでは足りないんです」
バックナー
「……」
文
「裏面だけでも、足りない」
二人は布を見る。
⸻
その夜。
工房の灯りが点いている。
文が表面に筆を入れる。
海。
空。
集落。
沖縄の暮らし。
一方、バックナーは布の裏側に向かう。
筆を持つ。
しかし――
まだ書かない。
白い布を見つめる。
「……何を書くべきなんだ」
⸻
東京。
健一の家。
美咲たちは紅型を並べている。
隆司が一枚を手に取る。
「これで五枚目」
「……残り一枚だ」
美咲
「本当に?」
隆司
「たぶんな」
彩花
「じゃあ――」
風呂敷を広げる。
これまで集めた紅型が並ぶ。
健一が息を呑む。
「これ……」
美咲
「まだ完成してない」
「でも――」
一枚一枚を見つめる。
「ここまで来た」
屋良がいないことに気づく。
美咲
「屋良さん、大丈夫かな」
隆司
「今は、沖縄でやることがある」
健一
「……コザ」
誰も答えない。
⸻
沖縄。
夜。
仲村工房。
文が筆を置く。
バックナーはまだ白い布の裏側を見つめている。
「バックナーさん」
「ああ」
「忘れないでください」
「何を?」
「この布は――」
文は表面を見る。
美しい沖縄の風景。
そして裏面を見る。
まだ真っ白。
「誰か一人のためのものではありません」
バックナー
「……ああ」
文
「だから」
「簡単な答えを書いてはいけません」
バックナーは静かに頷く。
⸻
同じ夜。
東京。
美咲が紅型を包む。
沖縄。
文が筆を置く。
バックナーが白い布の裏側を見る。
ランパートが資料を閉じる。
屋良は沖縄へ向かう道の途中で、夜空を見る。
それぞれが――
まだ知らない。
この島の未来を決めるために、
これから幾度も、
同じ問いに向き合うことになることを。
⸻
表面には、沖縄の姿を。
裏面には、その未来を支えるものを。
そして――
まだ真っ白な一枚の布が、
その答えを待っていた。
⸻
(つづく)




