第五十話 静かな村の来訪者
1969年。
沖縄返還への道筋が、ようやく見え始めた。
――しかし。
仲村家の紅型には、
まだ終わっていない秘密があった。
そして1970年。
東京から一人の学芸員が、沖縄へやって来る。
彼の訪問が、再び世界を動かすことになる。
――紅型を巡る物語は、まだ終わっていない。
1970年1月。
東京から一人の男が、沖縄へやって来た。
国立博物館の学芸員。
健一。
目的は――紅型。
資料を手に、那覇から村へ向かう。
しかし。
本人は気付いていなかった。
少し離れた場所。
一台の車。
その後ろ。
さらに別の車。
そして、もう一台。
健一の後を追う者たちがいた。
⸻
仲村工房。
朝。
バックナーは畑から戻ってきた。
白いかりゆしシャツ。
麦わら帽子。
手には大根。
完全に、“村のおじぃ”だった。
「お疲れさまです」
文が笑顔で迎える。
バックナーは大根を置いた。
「今年はよく育った」
その時。
門の向こうに、
見慣れない男が立っている。
バックナーの目が細くなる。
「……東京からだな」
文が振り返る。
「え?」
バックナーは、
男の歩き方を見ていた。
服装。
靴。
周囲を見る頻度。
そして――
少し離れた場所に停まる車。
「……三組か」
文が首を傾げる。
「何が?」
「いや」
バックナーは大根を持ち上げる。
「客だ」
⸻
健一が門をくぐる。
「こんにちは」
「東京の国立博物館から来ました」
名刺を差し出す。
バックナーは名刺を見る。
「健一さんか」
「はい」
健一は少し驚いた。
「ご存じなんですか?」
「東京から来る客だと聞いていた」
実際には、
誰からも聞いていない。
健一は気付かない。
「紅型について、少しお話を――」
その時。
バックナーが健一の横を通り過ぎた。
そして、小さな声で言う。
「……後ろを見るな」
健一の足が止まる。
「え?」
「付けられているぞ」
健一の顔が固まる。
「……え?」
バックナーは何事もなかったように、
大根を抱えて歩いていく。
「昼飯は食べたか?」
「い、いえ……」
「なら食べていけ」
「……はい?」
⸻
少し離れた道。
車の中。
男が双眼鏡を下ろす。
「気付かれた」
隣の男が聞く。
「誰に?」
男は仲村家の方向を見る。
「……あの老人に」
「老人?」
「分からない」
⸻
昼。
バックナー家。
健一は離れの部屋へ案内された。
「ここを使え」
「ありがとうございます」
健一は荷物を置く。
そして、
窓から外を見る。
畑。
赤瓦。
海。
そして――
妙に大きなハワイアン風の家。
健一は首を傾げた。
「……あの家」
バックナーが振り返る。
「我が家だ」
「……ハワイアンですか?」
「そうだ」
「……この村で?」
「息子は気に入っている」
健一は少し考える。
「……浮いてません?」
バックナーは真顔で答えた。
「昔からだ」
健一は何も言えなかった。
⸻
午後。
バックナー家。
彩花が台所から顔を出す。
「おとう」
「東京のお客さん?」
「ああ」
彩花は健一を見る。
「こんにちは」
健一は少し緊張しながら頭を下げた。
彩花は笑う。
「お茶いる?」
「ありがとうございます」
彩花が湯呑みを置く。
健一はバックナーを見る。
「バックナーさん」
「日本語、お上手ですね」
彩花が即答する。
「おとう」
「ここに住んで二十五年だからね」
健一の動きが止まる。
「……おとう?」
「そう」
「……?」
彩花は不思議そうな顔をする。
「どうしたの?」
健一は慎重に尋ねる。
「失礼ですが……」
「お二人は……」
彩花が笑う。
「親子だよ」
健一
「……」
バックナー
「娘だ」
健一は二人を交互に見る。
「……そうですか」
理解したような、
していないような顔だった。
⸻
その時。
彩花が時計を見る。
「あ」
「仲村家、夕飯の準備しなきゃ」
健一が尋ねる。
「仲村家?」
彩花は笑う。
「私、あっちでも手伝ってるの」
バックナーが頷く。
「いつものことだ」
彩花はエプロンを手に取る。
「じゃ、行ってくるね」
「おとう」
「何だ」
「健一さんよろしく」
「分かった」
彩花は玄関から出ていった。
⸻
家の中。
バックナー。
妻。
息子。
健一。
四人だけになった。
健一は、
何となく落ち着かなかった。
バックナーは新聞を読む。
妻は編み物。
息子はラジオを聞いている。
完全に、普通の家庭だった。
健一は少し安心した。
その時。
バックナーが、新聞から目を上げる。
「……静かだな」
健一は首を傾げる。
「静かですね」
バックナーは立ち上がった。
「少し外を見る」
⸻
同じ頃。
仲村家。
夕方。
彩花が鍋をかき混ぜている。
美咲は帳簿を確認していた。
文は湯呑みを並べる。
隆司は縁側に立っている。
外は静かだった。
静かすぎる。
隆司の目が細くなる。
「……」
虫の声。
風の音。
遠くの犬。
だが――
何かが足りない。
隆司はゆっくり立ち上がった。
⸻
バックナー家。
突然。
バックナーが振り返る。
「……来た」
健一が立ち上がる。
「何がですか?」
バックナーは答えない。
遠く。
仲村家の方向。
小さな物音。
バックナーは帽子を取った。
「ここを動くな」
「え?」
「すぐ戻る」
バックナーは外へ出た。
健一は呆然と見送った。
息子が小さく呟く。
「父さん、昔からああなんです」
健一
「……昔から?」
息子
「戦争から帰ってきてから」
「何か変なんですよ」
健一は窓の外を見る。
白いかりゆしシャツ。
畑仕事の道具。
そして、
迷いなく仲村家へ向かう背中。
健一は思った。
(……この人)
(ただの“村のおじぃ”なのか?)
⸻
夜。
仲村家。
風が止まった。
隆司が庭を見る。
その時。
わずかに、畳が沈んだ。
「……!」
美咲が振り返る。
隆司が一歩前へ出る。
「動くな」
その瞬間。
人影が現れた。
隆司が美咲を背後へ庇う。
彩花が息を呑む。
男の視線は、
お茶の間の掛け軸へ向いていた。
「……何を探している」
男は答えない。
隆司が腕を取る。
一瞬。
男の体が崩れる。
しかし――
外から、別の足音。
隆司が顔を上げる。
「……もう一人」
灯りが消える。
⸻
その頃。
仲村家へ向かっていたバックナーは、
足を止めた。
遠くで灯りが消えた。
「……遅かったか」
バックナーは走り出す。
⸻
仲村家。
隆司がもう一人の侵入者を取り逃した。
美咲たちは震えながら、身を寄せ合っている。
その瞬間。
外から声が響く。
「おい!」
扉が開く。
バックナーだった。
「大丈夫か!」
彩花と文が振り返る。
「おとう!」
「バックナーさん!」
バックナーは全員を見る。
怪我がないことを確認する。
そして――
掛け軸を見る。
何も変わっていない。
バックナーは小さく息を吐いた。
「……よかった」
「何か大きな音がしたから、飛んできたんだ」
隆司は静かに頭を下げる。
「ご心配をおかけしました」
バックナーは静かに頷いた。
「狙いは俺たちじゃない」
「この家の“記録”だ」
美咲は掛け軸を見る。
「……お父さんの?」
バックナーは答えなかった。
ただ、掛け軸を見つめていた。
その表情は、
“村のおじぃ”ではなかった。
かつて、
“戦場に立っていた男”の顔だった。
⸻
深夜。
バックナー家。
健一はまだ眠れず、窓の外を見ていた。
遠くから、バックナーが戻ってくる。
服には少し土が付いていた。
健一は尋ねる。
「……何かあったんですか?」
バックナーは答えない。
ただ。
「仲村家へ行け」
健一は驚く。
「え?」
バックナーは静かに言った。
「君が探している紅型」
「そこにある」
健一は息を呑んだ。
「……本当ですか?」
バックナーは窓の外を見る。
「だが」
「見る覚悟はしておけ」
健一は、しばらく黙っていた。
そして頷く。
「……はい」
夜空には、冬の星が輝いていた。
その下で。
健一の旅は、
ただの文化財調査ではなくなった。
⸻
(つづく)




