第三十八話 沖縄の怪物
1962年10月28日。
ソ連はキューバからミサイル撤去を表明し、
世界は核戦争を回避した。
しかし、
「怪物」は消えていなかった。
1962年10月末。
朝。
那覇市。
青い空だった。
ラジオから、
ニュースが流れている。
「ソビエト連邦は」
「キューバからのミサイル撤去を表明しました」
「アメリカ政府も、これを歓迎しています」
文は、朝食を並べていた。
味噌汁。
焼き魚。
卵焼き。
いつもの朝だった。
美咲はラジオを聞きながら、
大きく息を吐いた。
「世界って、大変なんだね」
彩花が笑う。
「試験より?」
「試験の方が大変」
「それは違うでしょ」
工房に笑い声が広がった。
隆司も、小さく笑った。
バックナーも、静かに微笑んでいる。
美咲は元気よく言った。
「じゃあ、今日は普通の日だね!」
バックナーは、
少しだけ考えてから答えた。
「そうだな」
「それくらいでいい」
ラジオから流れるニュース。
世界は、ひとまず危機を脱した。
バックナーは、そっと音量を下げた。
「世界の心配は」
「大人の仕事だ」
美咲は元気よく頷いた。
「はい!」
その笑顔を見て。
バックナーは、
ほんの少しだけ目を細めた。
――世界は救われた。
少なくとも、
そういうことになっている。
だが。
沖縄には、まだ一つ。
“誰にも説明できないもの”が残っていた。
⸻
那覇。ホテル。
その日の午前。
一室のカーテンが閉じられていた。
机の上には、観光パンフレット。
カメラ。
土産袋。
そして。
一枚の報告書。
イワンは、椅子に座っていた。
向かいには部下。
もう二人とも、
観光客の顔ではない。
イワンが、報告書を眺める。
部下が口を開いた。
「同志」
「結局」
「“怪物”とは、何だったのでしょう」
イワンは答えなかった。
しばらく窓の外を見る。
青い海。
沖縄の空。
やがて。
「見たか?」
「……いいえ」
「俺もだ」
部下は眉を寄せた。
「それなのに」
「なぜホワイトハウスは」
「あの布団をそこまで厳重に管理するのでしょう」
イワンの指が、
報告書を軽く叩いた。
「そこだ」
「……?」
「アメリカが守っているのは」
「布団じゃない」
部下の顔から、笑みが消えた。
「では?」
イワンは、静かに言った。
「布団に描かれているものだ」
沈黙。
「何が?」
「分からん」
「……」
「だが」
イワンは続けた。
「米軍の機密情報」
部下の目が見開かれた。
「……まさか?」
「基地の配置?」
「部隊の移動?」
部下が、声を落とした。
「核兵器関連……?」
イワンは答えなかった。
その沈黙が、妙に重かった。
部下は息を呑む。
「しかし」
「それなら、なぜ布団なんです?」
「軍の地図でもない」
「暗号文でもない」
「普通なら、誰も重要文書とは思わない」
イワンが笑った。
「だからこそだ」
「……」
「隠すには最適だ」
部下は、報告書を見つめた。
「紅型そのものが」
「暗号……?」
イワンは首を振る。
「暗号なら」
「解読すれば終わる」
そして。
「これは別の何かだ」
⸻
部下は、少し考えた。
「では」
「なぜアメリカは破棄しない?」
イワンは、ゆっくり答えた。
「証拠だからだ」
「証拠?」
「誰かが消してしまえば」
「その瞬間」
「描かれていたものが存在した証拠も消える」
部下は黙った。
イワンは窓の外を見る。
「アメリカは」
「怪物そのものを恐れているんじゃない」
少し間。
「怪物が証明してしまうものを」
「恐れている」
部下は、背筋を伸ばした。
⸻
「もう一つ」
部下が言った。
「バックナーです」
イワンが振り返る。
「高等弁務官?」
「なぜ」
「仲村家の隣に住んでいるのでしょう」
イワンは、少し笑った。
「偶然だと思うか?」
「……思いません」
「俺もだ」
部下は報告書をめくる。
「軍人なら基地の宿舎がある」
「それなのに、あの家の隣」
「しかも」
「仲村家に自由に出入りしている」
イワンは、しばらく黙った。
「監視」
部下が言った。
「でしょうか」
「それだけじゃない」
「では?」
イワンは答えた。
「保護だ」
部下が目を上げる。
「保護?」
「バックナーは」
「怪物を守っているんじゃない」
「仲村家を守っている」
「なぜ?」
イワンは、静かに答えた。
「その二つが」
「同じ場所にあるからだ」
沈黙。
部下は、ゆっくり頷いた。
「つまり」
「仲村家そのものが」
「重要だと?」
イワンは答えなかった。
ただ、報告書を閉じた。
⸻
部下が尋ねる。
「では」
「我々は、何を報告しますか?」
イワンは、しばらく考えた。
そして。
「こう書け」
「怪物について確認できず」
部下が書き始める。
「続きは?」
「ただし」
イワンは言った。
「米国政府が仲村尚造に異常な警戒を示している」
部下のペンが止まった。
イワンは、窓の外を見る。
青い海。
赤瓦。
観光客の笑い声。
「それだけで十分だ」
⸻
那覇空港。
その日の午後。
イワンたちは、
帰国準備をしていた。
アロハシャツ。
麦わら帽子。
首からカメラ。
最後まで、
ただの観光客だった。
搭乗口へ向かう途中。
イワンは、
一度だけ振り返った。
青い海。
赤瓦。
そして。
仲村工房のある方角。
部下が尋ねる。
「同志」
「結局、“怪物”は何だったのでしょう」
イワンは、帽子をかぶり直した。
「分からない」
少し間。
「だからこそ」
「触らない方がいい」
飛行機の扉が閉まる。
ゆっくりと、
機体が滑走路を進んでいく。
沖縄の空へ。
⸻
夕方。
嘉手納基地。
一般兵士が入れない区域。
幾重ものフェンス。
警備兵。
鉄の扉。
重い金属音が響く。
バックナーは一人、
防護服を着て地下へ降りていく。
長い階段。
冷たい蛍光灯。
突き当たり。
巨大な鉄扉。
警備兵が鍵を差し込む。
ガチャン。
扉がゆっくり開いた。
部屋の奥には、
巨大な金属製コンテナが並んでいた。
一つ一つに描かれた黄色い標識。
放射線。
バックナーは静かに歩く。
やがて立ち止まる。
誰もいない地下室。
小さく呟く。
「……怪物は」
長い沈黙。
「沖縄にもいる」
静寂。
並ぶコンテナだけが、
何も語らずそこにあった。
⸻
その夜。
仲村工房。
文は縁側で洗濯物を畳んでいた。
その中に、
尚造が染めた文の布団がある。
文は優しく布団を撫でた。
「尚造さん」
もちろん、返事はない。
それでも文は微笑む。
遠くから、
子どもたちの笑い声が聞こえる。
美咲。
彩花。
そして隆司。
庭ではバックナーが、
珍しく一緒に笑っていた。
文は空を見上げる。
「あなたが残したものは」
少し間。
「まだ終わりそうにありません」
潮風が吹く。
縁側の掛け軸。
未完成の『地位協定紅型』が、
静かに揺れていた。
⸻
(つづく)




