第三十七話 母は強し
冷戦時代、国家同士が直接戦わず、
情報・外交・心理戦を繰り広げていた。
……とはいえ、
仲村家では今日もお茶が出る。
今回は少しだけ、
肩の力を抜いてお楽しみください。
1962年10月28日。
朝。
仲村工房。
開店と同時に、
外国人観光客が店へ入ってきた。
先頭はイワン。
今日も麦わら帽子。
今日もアロハシャツ。
首にはカメラ。
まるで昨日の続きを楽しみに来た
観光客そのものだった。
イワンは笑顔で言う。
「おはようございます」
文も笑顔で頭を下げる。
「いらっしゃいませ」
彩花と美咲は店の奥で
紅型を広げ始めた。
バックナーは縁側で新聞を読み、
隆司は庭の掃除をしている。
一見すると、
いつも通りの朝だった。
⸻
イワンは工房を見渡す。
静かに尋ねる。
「今日はご主人は?」
文は微笑んだ。
「亡くなりました」
イワンは少しだけ頭を下げた。
「失礼しました」
文は湯呑みを並べ始める。
「お茶でもどうぞ」
イワンは少し驚いた。
「私にも?」
「もちろんです」
「遠くから来られたのでしょう?」
イワンは席へ座る。
部下も続いた。
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湯気が立つ。
静かな時間。
誰も口を開かない。
やがてイワンが聞いた。
「失礼ですが」
「奥様のご職業は?」
文は少し考えた。
そして笑う。
「母です」
沈黙。
イワンは瞬きをした。
「……母?」
「はい、母です」
部屋の空気が止まった。
縁側。
新聞を読んでいたバックナーが、
そっと紙面を下げる。
(始まったな……)
隆司も竹ぼうきを止めた。
(文さんらしい)
イワンは咳払いをした。
「紅型職人では?」
文は首を振る。
「それは仕事です」
「母親は一生辞められません」
イワンは返す言葉を失った。
⸻
少し間。
イワンは本題へ入る。
「ホワイトハウスは」
「何を隠しているのですか」
工房が静まり返る。
文は何事もないように
急須へお湯を注いだ。
「布団ですよ」
イワンは眉を動かす。
「布団?」
「主人のお気に入りでした」
「戦地まで持って行ったんですよ」
隆司が苦笑する。
「妙に寝心地が良くて」
「よく借りて寝ました」
イワンは困惑する。
「……布団?」
文は笑顔のまま頷く。
「布団です」
バックナーは新聞で顔を隠した。
(中身は当時の最重要機密情報だがな……)
イワンは静かに息を吐く。
「本当にそれだけですか」
文は優しく笑う。
「親は子どもに」
「危ない物を渡しません」
少し間。
「だから」
「主人が持っていったんでしょうね」
バックナーは思わず目を閉じた。
(尚造らしい……)
隆司も静かに頷いた。
イワンは少し笑う。
「あなた方は“布団”ではなく」
「”尚造”を守っているのですね」
文は頷いた後、
湯呑みへ新しいお茶を注ぐ。
「おかわり、いかがですか?」
「……頂きます」
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その時。
黒電話が鳴る。
リン――
リン――
文が受話器を取る。
「はい、仲村工房です」
少し聞いてから、
受話器をバックナーへ渡した。
「お電話です」
バックナーは受話器を取る。
「……俺だ」
ジョンの声が聞こえる。
「高等弁務官」
「昨日、U-2偵察機がソ連領空へ入りました」
短い沈黙。
「潜水艦も魚雷発射準備を進めています」
バックナーは静かに目を閉じる。
「……そうか」
電話を切る。
イワンも立ち上がった。
バックナーは静かに言う。
「悪いことは言わん」
「手を引け」
「必要なら」
「俺が仲介する」
イワンは少し考える。
やがて、
仲村家の黒電話へ歩いた。
「少し、お借りします」
文は笑う。
「どうぞ」
イワンは受話器を取り、
ゆっくりとダイヤルを回した。
隆司は、その様子を見ながら小さく呟く。
「……クレムリンの電話番号」
「覚えた」
バックナーは思わず吹き出した。
文も笑う。
「うちの電話使うのね」
イワンは受話器を置いた。
「……モスクワから命令です」
「観光は終わりです」
帰り支度をする。
文が見送る。
「また沖縄へ遊びに来てくださいね」
イワンは肩をすくめて少し笑う。
「今度は本当に観光で」
張り詰めていた空気が、
少しだけ和らぐ。
⸻
その日。
ソ連はミサイル撤去を表明した。
世界の危機は去った。
しかし。
誰も知らない。
沖縄には、
まだ語られていない
”怪物”が眠っていることを。
⸻
(つづく)




