第二十三話 ドーナツの穴に潜む影
沖縄に新しい店ができた。
ドーナツ屋である。
――だが。
一つのドーナツをきっかけに、
アメリカと沖縄、そしてソ連まで巻き込んだ
謎の”食文化戦争”が始まる。
甘い香りが広がるその頃。
世界では、“冷戦”も静かに始まっていた。
1951年。春。
朝。
基地前。
新しく一軒の店がオープンした。
看板には大きく、
『DONUT KING』
甘い香りが辺りへ広がる。
彩花は目を輝かせた。
「わぁ!」
「いい匂い!」
美咲も鼻をひくひくさせる。
「あまい!」
文は苦笑する。
「また基地のお店?」
バックナーは頷いた。
「ああ」
「今日は開店日らしい」
⸻
店内。
揚げたてのドーナツが並んでいる。
店員が笑顔で勧めた。
「どうぞ!」
バックナーは一つ手に取る。
「……オールドファッションだ」
文は即答した。
「違います」
「サーターアンダギーです」
バックナーは首を振る。
「いや」
「真ん中に穴が開いている」
「これはドーナツだ」
文も負けない。
「揚げ菓子です」
「仲間です」
ジョンは困ったように笑う。
「また始まりましたね」
⸻
その時。
後ろから低い声。
「……ピロシキ」
全員が振り向く。
そこには、
赤髪の外国人男性。
帽子を深く被り、
穏やかな笑みを浮かべている。
イワンだった。
イワンは真剣な顔で言う。
「パン生地」
「油で揚げる」
「中に具を入れる」
少し考える。
「ピロシキだ」
文
「増えた」
バックナー
「何がだ」
文
「意見」
ジョン
「三勢力になりました」
⸻
バックナーはドーナツを持ち上げる。
バックナー
「穴がある」
イワン
「穴は重要ではない」
文
「そうです」
バックナー
「味も重要だ」
イワン
「いや、思想だ」
全員
「思想?」
イワン(真顔)
「食べ物には、国民性が出る」
ジョン
「なんだか難しい話になりましたね」
⸻
その横では。
彩花が大きくかぶりついた。
「おいしー!」
美咲も両手で持つ。
「あまーい!」
文
「何だと思う?」
彩花
「おやつ!」
美咲
「おやつ!」
バックナー
「……それが正解か」
ジョン
「議論終了ですね」
バックナー
「彩花、口の周り」
彩花は慌てて拭く。
文とバックナーの妻も笑った。
文
「二人とも」
「そんなに急がなくても」
妻
「また来ましょうね」
子どもたちは元気よく返事をした。
「はーい!」
⸻
帰り道。
基地の門前。
文と妻は彩花と美咲の手をつないでいた。
「それじゃ」
「また夕方に」
バックナーも頷く。
「ああ」
その時。
文がふと思い出したように言う。
「そういえば」
「さっきの人」
「ロシア人かしら?」
ジョンが振り返る。
「え?」
文は少し考えながら答えた。
「英語で話していたけど」
「食べ物だけ」
「ロシア語だったでしょう?」
少し間。
「昔、上海でロシア人の会話を聞いたことがあるの」
「少し似ていたわ」
ジョンは驚いた。
「そこまで分かるんですか」
文は苦笑する。
「商売柄ね」
⸻
バックナーは何気なく
服の襟元へ手をやった。
指先に違和感。
「……?」
取り出す。
折り畳まれた小さな紙。
見覚えはない。
さらに胸ポケット。
小さな赤いマッチ箱。
いつの間に。
バックナーはゆっくり息を吐いた。
「……二回」
ジョンの顔色が変わる。
「え?」
バックナーは静かに周囲を見渡した。
「少なくとも二回は触られている」
もう男の姿はない。
「……ソ連が来た」
文の笑顔が消える。
「こちらを見に来たんじゃない」
「測りに来た」
ジョンも息をのんだ。
「何をです?」
バックナーは小さく呟いた。
「沖縄を」
春の風だけが、静かに吹いていた。
⸻
その頃。
人気のない港。
イワンは静かに海を眺めていた。
隣には部下。
「同志」
「今のうちに工作しますか?」
イワンは答えない。
屋台で買ったドーナツを見つめる。
真ん中の穴。
ゆっくり指でなぞる。
小さく笑った。
「その必要はない」
部下は首をかしげる。
イワンは穴を見つめたまま言った。
「シロアリは」
「外から壊さない」
「中から食べる」
静かな声だった。
「その時を待てばいい」
部下は静かに頷く。
「了解しました」
イワンは最後に、
もう一度沖縄を振り返る。
「……いい島だ」
「穴があるから面白い」
春の風が港を吹き抜ける。
⸻
同じ頃。
仲村家。
縁側。
美咲と彩花は笑いながら、
ドーナツを半分こしている。
文は、何も知らない二人を見つめている。
その奥のお茶の間では。
『日米地位協定』紅型が、
静かに風に揺れていた。
バックナーはその前に正座する。
(尚造)
(お前は“首里城”を)
(“地下”に築いた)
胸ポケットのマッチ箱。
強く握る。
(家族には)
(絶対に近付けさせない)
帽子を深く被る。
(俺は“空”に築くぞ)
⸻
1951年。
戦争は終わった。
しかし。
世界は今、
“冷戦”という名の
新しい戦いへ歩き始めていた。
そして。
仲村家へ忍び寄る”怪物”もまた、
静かに動き始めていた。
⸻
(つづく)




