第二十六話 雨のテント――赤い糸を使わない日
雨音は、戦場でも平等だった。
銃声も、砲声も、階級も関係なく、
ただ静かに地面を叩き続ける。
この日、諜報班は――
まだ、何も壊していなかった。
1945年6月。
南部。
小高い丘の裏側。
雨は朝から止まなかった。
諜報班は、
砲撃の届かない“安全地帯”に
簡易テントを張っていた。
地面はぬかるみ、
靴の底に赤土がまとわりつく。
だが、不思議と空気は静かだった。
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尚造は、
テントの入り口で雨を眺めていた。
霧がかかった向こう側――
ぼんやりと、米軍の陣地が見える。
距離はある。
今日は、接触の予定もない。
尚造は、
腰の布袋に手を伸ばす。
そして。
中身を確認するように、
そっと指を入れた。
赤い糸。
きれいに束ねられたまま、
動かされていない。
尚造は、少しだけ笑った。
「……今日は」
誰に向けたわけでもなく、
独り言のように呟く。
「今日は」
「赤い糸を使わずに済みましたね」
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隆司は、
湯気の立つ飯盒を抱えながら、
その言葉を聞いた。
「……いい日ですね」
思わず、そう返してしまう。
尚造は振り向いて、頷いた。
「はい。いい日です」
「雨も、悪くないですし」
隆司は少し驚いた。
戦場で「いい日」と言える人間を、
これまで見たことがなかったからだ。
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テントの奥では、
薬丸が黙って双眼鏡を拭いていた。
敵影はない。
今日は偵察もない。
それでも彼は、
何度もレンズを確認する。
隆司が苦笑した。
「薬丸さん」
「今日は休みですよ」
薬丸は顔を上げない。
「敵がそう思ってくれればな」
それだけ言って、
再び双眼鏡へ視線を落とした。
尚造が小さく笑う。
「薬丸さんらしいですね」
「うるさい」
だが、その声は少しだけ柔らかかった。
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少し離れた場所では、
小林が手帳を開いていた。
鉛筆を走らせる音だけが聞こえる。
隆司が横から覗き込む。
隆司
「また書いてる」
小林
「書いてる」
隆司
「何?」
小林
「たぶん記録」
隆司
「たぶんって何だよ」
小林は少し考えた。
小林
「今日は何も起きてないから」
手帳を見る。
そこには、
『雨』
『静か』
『砲声一回』
それだけだった。
隆司
「雑じゃない?」
小林
「十分だろ」
隆司
「絶対あとで困るやつだって」
小林
「困ったら隆司に聞く」
隆司
「俺かよ」
二人は少し笑った。
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テントの中。
諜報班の兵たちが、
思い思いに過ごしていた。
誰かは靴を干し、
誰かは地図を広げ、
誰かは黙って缶詰を温めている。
会話は少ない。
だが、沈黙は重くなかった。
戦場では珍しいほど、
穏やかな時間だった。
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尚造は地面に腰を下ろし、
膝の上で布切れを広げる。
紅型ではない。
ただの、無地の布だ。
それを丁寧に畳む。
まるで、
「今日はこれでいい」
と言うように。
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遠くで、砲声が一発だけ響いた。
誰も身をすくめなかった。
ここには届かないと、
全員が分かっていた。
雨音が、その余韻をすぐに消す。
小林は手帳へ一行だけ書き足した。
『砲声 一回』
そして手帳を閉じた。
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尚造は、布を布袋に戻し、
赤い糸に触れないよう、きちんと口を閉じた。
そして静かに言った。
「……このまま」
「何も起きなければいいんですけどね」
隆司は少しだけ笑った。
「それ、フラグじゃないですか?」
尚造は首を振る。
「大丈夫です」
「今日は、“使わない日”ですから」
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雨は降り続いていた。
薬丸は双眼鏡を脇へ置き、
小林は手帳を閉じ、
隆司は空になった飯盒を片付ける。
誰も口にはしなかったが、
皆、
この静かな一日が
続けばいいと思っていた。
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だが、その日は確かに――
戦争の中に残された、
小さな、穏やかな一日だった。
そして誰も知らなかった。
この静けさが、
赤い糸が最後まで使われなかった、
“唯一の日”だということを。
⸻
(つづく)




