第一話 距離の測り方が、分からない
結婚したからといって、
すぐに夫婦になれるわけではない。
名前の呼び方も、
立つ位置も、
どれくらい近づいていいのかも、
誰も教えてはくれなかった。
三十歳の夫と、十五歳の妻。
新婚三日目の朝。
ふたりはまだ、
同じ家の中で
それぞれの「距離」を測っていた。
これは、
手が触れない新婚生活の話。
そして、
ゆっくりと夫婦になっていく
はじまりの記録である。
結婚して三日目の朝。
尚造、三十歳。
文、十五歳。
仲村家の台所には、
まだ少しだけ他人行儀な空気が残っていた。
文は早起きをして、台所に立っている。
慣れない鍋、慣れない火加減、慣れない家。
(……お嫁さんって、こんな感じなのね)
小さく深呼吸をしていると、
背後から足音がした。
「おはようございます」
振り返ると、尚造が立っていた。
いつも通り穏やかな表情で、
いつも通り距離が遠い。
「お、おはようございます」
二人は向かい合ったまま、
数秒沈黙する。
新婚なのに。
夫婦なのに。
どこに立てばいいのか、
どのくらい近づけばいいのか、
二人とも分かっていなかった。
尚造は咳払いをひとつしてから言った。
「その……
朝餉は、僕が用意しますので。
文さんは、まだ慣れていないでしょう」
「い、いえ。私がやります」
文は慌てて首を振る。
「ここは僕の家ですから」
「文さんが無理をする必要はありません」
尚造は本気で、そう思っていた。
文は一瞬きょとんとしてから、
ふっと小さく笑った。
「……ありがとうございます」
その言葉に、
尚造は少しだけ安心したように頷く。
それから二人は、
台所に並んで立つことになった。
距離は、腕一本分。
近すぎず、遠すぎず。
包丁の音と、鍋の湯気だけが、
静かな家に満ちていく。
⸻
朝餉が終わると、尚造は工房へ向かった。
文は縁側に座り、洗濯物をたたむ。
(結婚したら、もっと……
こう、夫婦らしい何かがあるのかと
思っていたけど)
手が触れることもない。
視線が絡むこともない。
でも、不思議と寂しくはなかった。
⸻
夜。
家族が眠りについた後。
尚造は書斎に明かりを灯し、机に向かう。
文は少し迷ってから、
廊下を歩いてその前に立った。
障子の向こうから、
紙をめくる音がする。
(……入っていいのかしら)
しばらく考えて、
文は小さく声をかけた。
「尚造さん……」
「はい」
即座に返事が返ってくる。
「お茶、淹れました」
尚造は立ち上がり、障子を開けた。
二人の距離は、昼間より少しだけ近い。
「ありがとうございます」
文はお盆を差し出しながら、
思い切って言った。
「あの……
私、ここにいてもいいですか」
尚造は一瞬、言葉を失った。
そして、少しだけ困ったように笑う。
「……もちろんです。
文さんの家ですから」
文は、
その言葉に胸の奥が
じんわりと温かくなる。
⸻
二人は同じ部屋にいながら、
それ以上近づくことはなかった。
けれど。
灯りの下で、
同じ時間を過ごすことが、
今はそれで十分だった。
(この人は、
ゆっくりなんだ)
文は、そう思った。
そして尚造は、
その夜もまた思っていた。
(……僕は、
ちゃんと夫になれているだろうか)
答えは出ないまま、
静かな新婚の日々は続いていく。
⸻
(つづく)




