第二話 距離があるまま、立ち位置が変わる
結婚生活は、
時間が経てば自然に進むものだと
誰もが思っている。
けれど実際には、
進む速さも、立つ位置も、
人それぞれだ。
世界が不安定になり、
時代がざわめき始めた頃。
仲村家では、
声を荒げることもなく、
答えを急ぐこともなく、
夫婦がそれぞれの場所を
探していた。
これは、
近づこうとして踏みとどまった夜と、
離れようとして理解した想いの話。
そして、
「待つ」という選択が、
初めて意味を持った章である。
1929年。
仲村家の朝は、
相変わらず静かだった。
尚造は工房に出て、
文は家のことを整える。
変わったのは、文のほうだった。
十九歳になり、
髪型や着物に少しだけ気を遣うようになった。
ご近所の同年代の女性たちと、
井戸端で立ち話をする時間も増えた。
「文ちゃん、
若いんだから楽しまないと」
そんな言葉を笑って受け流しながら、
文は心のどこかで思っていた。
(……私、青春してるのかしら)
⸻
ある日の夕方。
尚造が工房から戻ると、
尚綾が腕を組んで待っていた。
「尚造。あんた、
ちょっとこっち来なさい」
呼び出される先は、
いつもの縁側。
「文も、もう十九だよ」
「……はい」
「いつまでも、
距離を置きすぎじゃないかい?」
尚造は一瞬、言葉に詰まった。
だがすぐに、落ち着いた声で答える。
「母さん。
十代後半から二十歳前後の女性は、
心も体も変わる時期です」
尚綾が眉を上げる。
「だからこそ――」
「だからこそ、です」
尚造は、淡々と続けた。
「焦らせたり、
周りの基準を押し付けたりするのは、
文さんのためになりません」
尚綾は、
しばらく尚造の顔を見つめたあと、
小さくため息をついた。
「……あんた、
本当に変な男だよ」
それ以上は何も言わず、立ち上がる。
尚造は一人、縁側に残された。
(僕は、間違っていないはずだ)
そう思いながらも、
胸の奥に小さな引っかかりが残る。
⸻
その夜。
文は、
尚造の後ろ姿を
じっと見つめていた。
工房の帳簿を閉じる尚造。
灯りに照らされた横顔。
(……尚造さん、
昔より近くにいるのに)
文は、
思い切って一歩近づいた。
「尚造さん」
「はい?」
呼びかけに、尚造が振り返る。
文は、迷いながらも、
そっと尚造の袖をつかんだ。
ほんの一瞬の沈黙。
尚造は、明らかに戸惑った。
「……文さん?」
文は、少し照れながら笑う。
「みんな、
こういうの普通だって言ってて……」
言葉の続きを探すように、
指先がわずかに震える。
尚造は、
視線を逸らし、深く息を吐いた。
「……困ります」
文の心が、きゅっと縮む。
だが尚造は、すぐに続けた。
「文さんが大人になったのは、分かっています」
一拍。
「だからこそ……
僕の都合で、急ぎたくないんです」
文は、袖を離した。
しばらくして、
小さく、でもはっきりと頷く。
「……分かりました」
その声は、少しだけ大人びていた。
⸻
二人の間に、
見えない一線が引かれる。
遠ざかったわけではない。
ただ、同じ場所に立っていないだけ。
(この人は、私を待っている)
文は、そう理解した。
そして尚造は、
初めて気づいてしまった。
(……文さんは、もう子どもではない)
夜の帳が下りる中、
二人の距離は、
少しだけ形を変えていく。
⸻
世界は不安定になり、
時代は騒がしくなる。
けれど仲村家では、
静かに、確実に、
夫婦が「次の段階」へ進み始めていた。
⸻
(つづく)




