そして、新しい日常。
時間は少し遡る。
「……なぁ、悠。悪い、俺、ちょっと酷い事言っていいか?」
なんとかなぐさめようとしてくれていた彼からの唐突な言葉に、ベッドに座ったままの悠の体が強ばる。
いらだっていたとはいえ、けんか腰のメールを送りつけたばかりなのだ。むこうだって気が立っているだろう。しかも電話がつながったかと思えばずっと嗚咽ばかり。相手が腹を立てても仕方がなかった。
何か辛辣な言葉が返ってくるのだろう、と覚悟して、嗚咽の合間に、何? と小さく返す。
「あのな、俺」
真剣な声でそれだけ言った後、大きく息をする気配。――これは本当に大事な内容なんだ、とつられるように緊張を高めた悠の耳に、病室の引き戸に何かがぶつかる音が届いた。それも、人間がつまづきざまに思い切りタックルをしたかの様な豪快な音。
つと、視線を動かすと、乱暴に開けられたドアの向こうにいたのは宙に浮く人間サイズの出目金。胸びれが手のかわりなのかドアの取っ手に絡みついている。驚きなのかぱかりと開いたままの口が何ともまぬけだったが、そこを指摘できるような余裕が悠にあるはずもなく。
そして、昨日よろしくお互い一瞬の硬直。
「何嘘やだ出目金大きいときもっ?!」
叫ぶと同時に悠が思わず手に持っていたスマホを思い切り投げつける。
距離がなかったからか、火事場の何とやらか、スマホは見事に出目金の口内を直撃した。
「ぐっ、……っん?! んんぅっ?!」
衝撃にか、痛みにか、変な声をもらした出目金が天井にむかって直立――?――すると胸びれが人間なら喉に当たりそうな部分を激しく叩いた。――そして。
ごっくん。
ひたすらに不吉な、何かを無理矢理飲み下す音。
余程苦しかったのか、口からコードをたらしながらふらふらと蛇行しながら床に着地する出目金を、ぽかんとながめていた悠が我に返ったのはその時だ。
「ちょっ?! スマホ返してっ?!」
「……いや、嶋村さん、自分で投げといてそれは……」
「あぁ、まぁ、うん……。僕が弁償するよ」
出目金の後ろから現れた男二人の反応がいくぶん微妙なのもしかたがないだろう。二人とて、出目金を閉じ込めていた病室から脱走させてしまった自分達の落ち度なのはわかっているのだが、まさか悠がスマホを投げるとも、それを出目金が飲み込んでしまうとも思わなかった。むしろこんなアクシデント、想定できる方がおかしい。
「てか、これ何なんですかっ?! 何の特撮?! 着ぐるみの中に入っただけですよねっ?!」
「残念ながられっきとした生物だよ」
「なまものって言ったっ?! いきものじゃなくてナマモノ?! というか電話中っ! 大事な話してたのにっ?!」
冷静に返す東堂と、半ばパニックを起こしている悠のやり取りはどこかかみ合わない。
「ええと……。とりあえず、この口から出てるコード、充電器かな?」
二人の会話に割り込めなかった内科医は現実逃避気味に出目金に目をやり、ふと口からたれているコードに目をとめた。
「って、充電器、俺のなんですけど……」
「……それも弁償するよ」
「投げた時に、スマホへの差し込みじゃなくてプラグが抜けるとか、……本当ついてない」
常ののんびりした空気のまま東堂がぼやく。充電器がなくてはスマホはそれ程長時間使えない。職場に充電器が常備されているのは、休憩時間の必須アイテムだからこそで、彼のぼやきも当然だった。
「問題そこですかっ?!」
「あぁ、何か大事な電話だったんだっけ? 僕のからかけ直していいよ」
床に寝そべっている出目金のわきを無理矢理通り抜けた内科医から携帯を渡され、受け取ってから悠が硬直する。
「……番号わからないっ」
スマホや携帯が普及する前の時代、よくかける番号は覚えていたものだが昨今は覚える必要などないのもあり、自宅や自分の番号でもない限り覚えていないのが当然だった。悠もその例にもれず、着信は名前で表示されるのもあって相手の番号などまったくわからない。もちろん、電話番号より複雑なメールアドレスなど覚えているはずもなく。
「……そればっかりはねぇ」
「今すぐスマホ返してっ?!」
「……いや、たぶんもう壊れてるよ」
地球の出目金がどうなっているかはともかく、この巨大出目金は歯がないのに口より喉の方が細い。ではどうやって物を飲み込むのか……、というと、喉の入り口にある筋肉で喉を通る大きさに押しつぶして飲み込んでいる。そして恐ろしい事に異世界では実力者でもあるこの出目金は、スマホなど軽く押しつぶして飲み込む実力がある。人間の手足くらいは簡単に飲み込めるのに、顎の力はさほど強くない。食いちぎられずにつながったまま手足の先だけ飲み込まれたりしようものなら……、非常にあれな絵面になる事だろう。
ついそんな事を考えた内科医の前で、悠がじわりと目に涙を浮かべる。ついさっきまでも泣いていたのだろう、泣きはらした目元が痛々しい。
「……うそ」
スマホが生命線という自覚のある悠は頻繁にバックアップを取るし、各種アプリやデータも、家に帰って新しいスマホに復元すれば多少のまき戻りはあるにせよ復旧がきく。だからそれは問題ない。
問題なのは、そんな事をしている間に今さっきまで通話をしていた相手と連絡の取れる時間が終わってしまう事だ。機種変更はどれだけスムーズに進んでもそれなりの時間がかかる。しかも今日は土曜日で、折しも先週新機種が発売されたばかり。アンテナショップがすいてるはずなどない。
あんな状態で一週間連絡がつかない。しかも、最後に自分の叫んだ言葉を聞いてどう思っただろうか……。
「……あんまりだ」
つぶやいて涙をこぼす悠を見て、東堂が出目金の尾びれを思い切り踏みつける。しかもピアスの上からだというのがまたたちが悪い。
「ぎゃあああっ?!」
「君、さっさとこっちにおいで? そんなもの飲み込んだままじゃ苦しいよね? かき出してあげるよ」
普段とまったく変わらない笑顔で尾びれを踏みにじった後、ひょいとかがむと尾びれの一部をつかんで引きずっていく。
「おい、医者っ! たすけろっ?!」
「いや、本当にさっき飲み込んだもの生物にとって有害だから、取り出してもらって、ついでに胃洗浄でもしてもらうといいよ」
こちらの世界の人間に害なした相手には容赦するな、というのが、診療を続けていく上での大原則だ。つけあがらせるのは何重の意味でも危険なので、ここはきっちりと灸を据えるところだと判断した内科医は、横柄に助けを求める出目金に笑顔で手をふる。
「任せてください。きっちり、完璧にやりますよ。……あぁ、麻酔薬が切れてますが、問題ないですよね?」
「ま、やらないと命に関わるからね、しかたがないよ」
東堂の鬼畜な提案にさらりとうなずく内科医。もちろん、麻酔薬が切れているなど、嘘に決まっている。
引きずられていく出目金の叫びが、処置室まで連れて行かれたのか、聞こえなくなるまで待ってから内科医が悠をふり返る。悠はまだ完全に泣き止んではないかなったが、いくらか落ち着き始めてはいるようだった。
「色々申し訳ないね。大事な連絡だったのかな?」
「……週末、の一日、しか、連絡取れなく、て」
「あぁ、そうか。それは申し訳なかったね。もし何かあるようなら、言ってくれれば僕からも相手先に謝るから。ともかく少し横になろう? あんまり泣くと熱が上がってしまうよ」
しゃくりあげながらの返事に連絡の取りにくい相手らしいと踏んで、唐突な断線の責任は取るから、とふくませ、内科医は悠の頭をなでる。普段職員にこんな事はしないのだが、泣いている悠を落ち着かせるにはそのくらいでもいいような気がしたのだ。
「うちの職員が悪ふざけで出目金の被り物で驚かせたら、ついスマホを投げてしまった事にすればいいよ。その時に当たりどころが悪くて壊れたせいで連絡がつかなくなった、とでも言えば信じてもらえるだろうから」
意識してやわらげた声で言うと、悠がこくりと頷く。
「昨日から驚かせ通しで悪いね。ともかく今はゆっくり休んで、落ち着いてから色々説明するよ」
さすがにまだ病み上がりというのもはばかれる状態で、酷く落ち込んでいる様子の悠に精神衛生上よろしくない話をするのはまずいと判断した内科医は、最後に一度悠の頭を軽く叩いてから手を引いた。
「あ、このお菓子、食べられそうだったら食べちゃっていいからね。僕は笑顔の裏で密かにめちゃくちゃ怒ってた東堂君の様子を見てくるけど、何かあったらすぐ呼んで」
「……はい」
今度は言葉に出しての返事があり、ぎこちなく笑みを作った悠がおとなしくベッドへ潜り込むのを確かめてから、内科医は病室を出た。
「……本当、出目金君にはペナルティが必要だなぁ」
言語道断な行動はもう少し控えてもらわないと、何よりも出目金本人の身の安全が保証できない。さてどうしたものか、とつぶやく内科医の表情は、言葉と裏腹にとても楽しげだった。
結局、出目金の暴挙を理由に、彼と同じ世界からの患者の診療拒否、という最終兵器に近い手段で患者を減らし、時間を捻出した内科医の指示で東堂が悠の病室を尋ねた時、丁度目を覚ましていたらしい悠は、男二人が差し入れた雑誌をながめていた。
「今大丈夫?」
「はい」
落ち着いた態度での返事に内心一息ついた東堂は、常備の椅子に腰を下ろし、手に持っていた袋から飲み物やゼリーなどを取り出してテーブルに並べた後、ジッパー付の保存用ビニール袋を置いた。
その袋には無残にひしゃげたスマホとケースの残骸が、どろりとした透明の粘液にまみれて入っていた。直径二センチ程の円筒形に圧縮された上、ひょうたんのようにくびれたそれはもはや、元がスマホだと知っていないと謎物体にしか見えない。
「ごめんね。一応回収はしたんだけど、どう見ても再起不能。愛着があるなら洗浄してから返す事もできるけど、どうする?」
「……あ~……。どうしてこんな形になったのか説明できないし、廃棄でお願いします」
粉砕された、プレスされた、程度なら落としたところを車にひかれた、とでも言えばすみそうだが、こんな状態になる状況に想像がつかない。
いくぶん微妙な沈黙の後、悠はあきらめてそう返事をした。ケースは気に入っていたが、同じ機種を買ったところで再利用できないのはわかりきっていたし、得体の知れない粘液まみれになって変形しているそれを手元に残したいと思う程の執着はない。
「うん、ごめんね。悪いけど、こっちとしてもそう言ってもらえると助かる」
悠の返事を聞いて、東堂は元スマホだった物体をしまう。
「さっき、院長先生も言ってたけど、買い直しの費用はこっちで負担するからね。別に領収書切ってもらう必要はないけど、レシート持って来てもらえるかな?」
「あ、でも、別に院長先生のせいじゃ……」
「いや、正確に言えば、弁償するのはあの出目金。今回の騒動の慰謝料って事でそれなりの金額支払わせる事になったから、そこから補填させてもらうよ。もちろん、嶋村さんが元気になるまでの入院費も全額ね」
常ののんびりした空気のまま、ペットボトルのお茶を飲みつつ言われて、悠が目をまたたく。
「……出目金って支払い能力あるんだ……?」
心底驚いたように言われ、これには東堂も小さく笑う。
「あの出目金、いわば金持ちの馬鹿息子でね。実家が日本じゃないから支払いは日本円じゃないけど、院長先生はむこうの通過を日本円に両替できるんだ。交渉もあの人が全部やってくれるから嶋村さんは遠慮しないで、お金受け取ってくれればそれでいいんだよ」
「……はぁ」
説明に納得がいったのか、いかないのか、悠の反応は今ひとつ鈍い。
「ちなみに、その国はあんまり医療が進んでなくてね。だから、週二日、実質でも一日分の診療時間でもむこうには貴重でねぇ。ここで暴れたら二度と診察しないよ、って言ってあるからそうそう問題起こす人もいないんだ。けど……。馬鹿息子はどの世界でも馬鹿って事かなぁ」
さらりと空飛ぶ出目金がいた理由を説明すると、悠が軽く首をかしげた後、眉間にしわを寄せる。
「……なんか、ネット小説によくある異世界料理屋物になってきた……?」
ぽそりとつぶやかれた言葉に、東堂が小さくふき出す。
現実感がまだないにしても、このタイミングでその感想がでてくるか。
「あぁ、うん、近いかもね」
笑いをかみ殺しながら同意すると、悠が目をまたたいた。
「東堂さんもそういうの読むんですか?」
「うん、まぁそれなりに。ほら、うちの診療って金曜は一時間早上がりで土日休みだよね。でも、金曜の夜に二時間、土曜の午後に四時間、そっちの診療をやってるから、俺と院長先生は実質休み一日なんだ。そうそう本屋にも行けないし、隙間時間にちらっと読むんだとああいう形態が楽でね」
「土曜の午後? 午前はやらないんですか?」
「土曜の午前は、金曜のカルテ整理とむこうの患者さん専用の薬とか器具、そういうものの在庫管理と発注、納品してもらった物の整理だね。で、診療が終わったらカルテ整理して、通常の診療が終わった時と同じ状態になるように院内片付けてから終了」
「忙しいんですね……」
「うん、すごく忙しい」
さらりと答えられたものの、東堂の雰囲気だと本当に大変なのかはよくわからない。いや、忙しいには忙しいのだろうが、彼の雰囲気だと大変だというよりも楽しんでいるように聞こえるのだ。
「本当は納品とかを午後にしたかったんだけど、むこうの都合で午後の納品は難しいみたいだし、患者さん達も午後の方が通院しやすいらしくてね」
半端な時間配分の理由をそう説明した後、東堂は少しためらってから、それで、と付け足した。
「はい?」
「嶋村さん、金土の診療、手伝ってもらえないかな?」
「はいぃ?!」
予想外の提案に悠の声がいっそ見事な程ひっくり返る。
「出目金とか無理無理無理っ!」
「いや、あの出目金は当分現れないし、そもそも出目金自体あんまり来ないよ?」
「そういう問題じゃなくてですねっ?!」
「休日出勤と特殊業務手当で一日につき一万二千円加算してくれるって。つまり、金曜夜と土曜日拘束されるかわり、十時間分の時給プラス二万四千円。つまり、毎月十三万くらいの増収だけど?」
本当にこんな言葉で悠が引き受けるのか、と思いつつ、内科医の提示した案を口にしたら、悠が言葉につまる。
「ついでに言うと、週末にしか連絡が取れない人がいるなら、その人と電話する時間、三十分くらいなら抜けてかまわないって」
「……っうっ」
至れり尽くせりの条件に悠が明らかに迷う色を見せる。
月十三万……。十三万とかほぼ給料1.5倍以上っ。いやでも待って、異世界って事は出目金とか、もっとすごいのもいっぱいいるはず……っ。そんなのの相手とか無理だよね、生理的に無理だよ。……でもどうせ週末暇だし、電話も大抵二十分くらいなんだよねぇ。三十分抜けていいのなら問題ないし、お金なんていくらあって困るものじゃない。欲しい物はたくさん……、手の届かなかったあれだって……。
……って、だから異世界とかそういうのはフィクションだから楽しいんであってっ?! だいたい、不自然な増収とか怪しすぎるしっ?!
ぐるぐると悩み出した悠の様子に、内心で苦笑している東堂は次の札を切ってみる事にした。あまりにも熱が上がったので念のためにとした血液検査の結果、悠は異世界の毒に耐性が低いのではなく、彼女が持っているアレルギーが原因だとわかったのだ。
出目金の毒に含まれる成分が悠のアレルゲンと近い構造だったのが問題であり、つまり、今回のように大量に直接皮膚に浴びて長時間放置するような事がなければ、何ら問題はない。
体質面で問題がないのであれば、確かに人員増加は東堂もありがたい。むしろ大歓迎だ。ここは、色々な意味でハードな職場に同僚を巻き込む事に対する良心の呵責など目をつぶっても許されるだろう。
「ちなみにね、週末勤務はボーナスの査定にも倍率かかるから。嶋村さんの場合、ざっくり計算で年間百八十万くらいは収入増えるよ。ちなみにこの診療、あちこちからの依頼でやってるから、急にお給料増えたからとかで税務署に怪しまれたりとか、そういうのもないから。ま、守秘義務あるし、まわりの人にバレないよう注意してもらわないとだけどね」
さらりと懸案事項を一つ潰され、悠の中で天秤が大きく傾く。
……な、何事も慣れれば平気になるものだよねっ?!
「あ、それとこの仕事、出目金みたいな面白い生物も来るけど、エルフのような美形も多いよ」
この言葉が止めとなったのか、悠の中で天秤は完全に片側へ振り切った。
「と、とりあえず、試用期間から、という事で……」
「あ、やってもらえる? 助かるよ、最近人手不足で困ってて。じゃ、来週からよろしくね」
普段の二割り増しの笑顔で言われ、悠はいくらか引きつった笑顔でうなずく。
こうして、とある診療所の受付嬢の、なかなかに非現実的な仕事に追われる日々が始まるのであった。
お読みいただきありがとうございます♪
ひとまずここで一旦更新停止となります。
続きをどうするか思案中なので、念のため完結設定はしませんが。