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ルアンは父親のことは誰にも言わなかった。
大地や大河、朱里には無論、ベトナムにいる母親にも言わなかった。リアムの言ったことは多かれ少なかれ真実だという確信があったし、母親が長年少なくとも自分に打ち明けたくなかったことを、こちらから言いだすのは気が引けたのである。
だからルアンはいつも通り週末に帰ってくる朱里から新曲をもらい、平日はそれを練習し、時折雑誌だのSNSだのに掲載された自分のモデルとしての仕事ぶりを大地にいじられ、大河に慰められる、そんな日々を送っていた。
自分に父親はいないし、母親はベトナムにいる。自分は一人で日本でバンド活動に専念する。それだけのこと。もう自分は子供ではないし、何もかもを曝け出す必要はない。あえて言わなくてもよいことが、世の中にはたくさんある。そろそろルアンはそう思い始めていた。
全てを打ち明けあう仲ではなくなっていたのは、実は朱里も同様であった。
朱里が東京の大学を選んだ表面的な理由は、海里と共に生活をするためであった。それは両親からも強く求められていたことであるし、特に母親は朱里は人とかかわるのが不得手であるものだから、大学進学の暁には絶対に一人暮らしは認められない、自宅から通うか海里のマンションで暮らすように、と何度も言い聞かせていた。それが母からの譲れぬたった一つの要求であった。だから朱里の東京の大学進学は、一見それに従っただけの選択であるように見えた。
しかしそれよりも重大な理由が、朱里にはあった。それは、東京には性同一性障害を専門とする病院が多数存在するということである。
朱里は上京するや否や、海里にも内緒で大学そっちのけでいくつもの病院を巡った。
まず、女性になる手術を施してくれる病院を見つけること。そして、言葉を発することのできない自分を受け入れてくれる病院を見つけること。それは田舎では絶対に不可能だった。だから上京のチャンスに全てを託したのである。
朱里が行った病院の一つでは、まず血液を採取しての遺伝子検査が行われた。
一週間の後検査結果を聞きに行き、初めてそこで自分がクラインフェルター症候群という病気であることを知ったのであった。
中性的な顔つきをしていることも、体力がなく風邪をひきやすいことも、身長は高いが細身であることも、すべてはこれによるものとのことだった。
さらに医師は言う。外見的特徴ばかりではなく、クラインフェルター症候群の人たちはコミュニケーションに困難を来したり、内向的な傾向になることも多い。あなたが喋れない理由は声帯の異常ではない。だとするならば、もともとの遺伝子的な理由に加わった、性別違和による極端な心理抑圧によって、言葉が出なくなっているのではないか、ということだった。
喉の構造的に言葉が出ないわけではない。でも出そうとすると喉から漏れ出ずるのは空気のみ。声を出そうとすれば体が硬直する。声の代わりに涙が出る。体全体が、声を発することを拒絶する。
おそらく、あなたの周りには大きな声を出す男性がいませんでしたか? あなたが声を出すとあんないかにも男性らしい声になってしまう。そういう恐れもあったのではないか、と。
朱里の脳裏には、はっきりと、街頭演説で町中の人々を引きこむ祖父と父の姿が浮かんだ。
「あなたはこれから、どう生きたいのですか?」医師は問うた。それは朱里にとって、今まで与えられたことのない問いであった。
ーー自分はどうしたいのか。どう生きたいのか。
我慢ではなく、諦めるでもなくて、自分がどう生きたいのか。
しばらくの逡巡の後、朱里は自分の目の前に置かれたメモ用紙に、ーー女の子になりたい。と書いた。
「体が女性になっても、あなたが人とコミュニケーションを取れるようになるかは別問題ですよ」医師は淡々と言った。「女性になっても、今あなたが抱えている問題が解決するとは限らない。というよりも、おそらくは解決しない。そうして、どんな手術においても危険は付き物です。ましてや性転換手術となると、術後少なくとも数週間あるいは数か月間は、絶対に療養が必要となります。その後もホルモン治療にも通って頂くことにもなる。家ではダイレーションのことは誰にも言わなかった。
大地や大河、朱里には無論、ベトナムにいる母親にも言わなかった。リアムの言ったことは多かれ少なかれ真実だという確信があったし、母親が長年少なくとも自分に打ち明けたくなかったことを、こちらから言いだすのは気が引けたのである。
だからルアンはいつも通り週末に帰ってくる朱里から新曲をもらい、平日はそれを練習し、時折雑誌だのSNSだのに掲載された自分のモデルとしての仕事ぶりを大地にいじられ、大河に慰められる、そんな日々を送っていた。
自分に父親はいないし、母親はベトナムにいる。自分は一人で日本でバンド活動に専念する。それだけのこと。もう自分は子供ではないし、何もかもを曝け出す必要はない。あえて言わなくてもよいことが、世の中にはたくさんある。そろそろルアンはそう思い始めていた。
全てを打ち明けあう仲ではなくなっていたのは、実は朱里も同様であった。
朱里が東京の大学を選んだ表面的な理由は、海里と共に生活をするためであった。それは両親からも強く求められていたことであるし、特に母親は朱里は人とかかわるのが不得手であるものだから、大学進学の暁には絶対に一人暮らしは認められない、自宅から通うか海里のマンションで暮らすように、と何度も言い聞かせていた。それが母からの譲れぬたった一つの要求であった。だから朱里の東京の大学進学は、一見それに従っただけの選択であるように見えた。
しかしそれよりも重大な理由が、朱里にはあった。それは、東京には性同一性障害を専門とする病院が多数存在するということである。
朱里は上京するや否や、海里にも内緒で大学そっちのけでいくつもの病院を巡った。
まず、女性になる手術を施してくれる病院を見つけること。そして、言葉を発することのできない自分を受け入れてくれる病院を見つけること。それは田舎では絶対に不可能だった。だから上京のチャンスに全てを託したのである。
朱里が行った病院の一つでは、まず血液を採取しての遺伝子検査が行われた。
一週間の後検査結果を聞きに行き、初めてそこで自分がクラインフェルター症候群という病気であることを知ったのであった。
中性的な顔つきをしていることも、体力がなく風邪をひきやすいことも、身長は高いが細身であることも、すべてはこれによるものとのことだった。
さらに医師は言う。外見的特徴ばかりではなく、クラインフェルター症候群の人たちはコミュニケーションに困難を来したり、内向的な傾向になることも多い。あなたが喋れない理由は声帯の異常ではない。だとするならば、もともとの遺伝子的な理由に加わった、性別違和による極端な心理抑圧によって、言葉が出なくなっているのではないか、ということだった。
喉の構造的に言葉が出ないわけではない。でも出そうとすると喉から漏れ出ずるのは空気のみ。声を出そうとすれば体が硬直する。声の代わりに涙が出る。体全体が、声を発することを拒絶する。
おそらく、あなたの周りには大きな声を出す男性がいませんでしたか? あなたが声を出すとあんないかにも男性らしい声になってしまう。そういう恐れもあったのではないか、と。
朱里の脳裏には、はっきりと、街頭演説で町中の人々を引きこむ祖父と父の姿が浮かんだ。
「あなたはこれから、どう生きたいのですか?」医師は問うた。それは朱里にとって、今まで与えられたことのない問いであった。
ーー自分はどうしたいのか。どう生きたいのか。
我慢ではなく、諦めるでもなくて、自分がどう生きたいのか。
しばらくの逡巡の後、朱里は自分の目の前に置かれたメモ用紙に、ーー女の子になりたい。と書いた。
「体が女性になっても、あなたが人とコミュニケーションを取れるようになるかは別問題ですよ」医師は淡々と言った。「女性になっても、今あなたが抱えている問題が解決するとは限らない。というよりも、おそらくは解決しない。そうして、どんな手術においても危険は付き物です。ましてや性転換手術となると、術後少なくとも数週間あるいは数か月間は、絶対に療養が必要となります。その後もホルモン治療にも通って頂くことにもなる。家ではダイレーションも毎日行って頂かなければ、せっかくの手術が台無しとなる。その結果人にもよるが、せっかく念願だった手術を受けても、心身ともに疲弊し鬱状態になる人も少なくはない。」
ーーでも、女の子になりたいです。
朱里はめげずに再び書いた。
ーーこのままでは、生きていけない。
そして朱里は慌てて持ってきたバッグを漁る。そこには自分の幼少時の写真がいくつも収められたアルバムが入っていた。
必死に医師の目を見つめながら、1ページ1ページめくる。すべての写真で、朱里はスカートを着ていて、長い髪にはリボンを付けていた。ぬいぐるみを抱く朱里。天蓋付きのベッドで眠る朱里。浴衣で花火に興じる朱里。
ーー女の子になれないのなら、いっそ死んでしまいたい。もう、この体で生きるのはいやなんです。
そう書いて、朱里の目から涙が零れ落ちる。
こんなにも女性の体への執着が芽生えたのは、朱里の中でははっきりしていた。
一日でも早く大地の恋人になりたかったから。普通に愛される恋人になりたかったから。たしかに前々から女の子への憧れはあった。しかしそれが喫緊のものとして、何にもまして他の何を犠牲にしてでも叶えたいと思った理由は、大地と結ばれたいというその一心だった。
別にしゃべれなくたっていい。そんなことは問題じゃない。大地はしゃべらなくてもすべてをわかってくれるから。今までも、これからも。人魚姫だって恋人のために声を捨てたのだから、そんなことは問題じゃない。
けれど、この男の体では、一生大地に愛してもらえない。そのうちに大地は素敵な女の子と恋仲になってしまうだろう。私はその様を見ながら大地の隣でギターを弾くのか。地獄。そんな地獄を乗り越えられる程、自分は強くない。絶望の末自分は死ぬだろう。
朱里の目から涙が零れ落ちた。
「わかりました。手術の方法とそれにともなうリスクについては執刀医の私からと、それから麻酔科医、泌尿器医、婦人科医からもそれぞれ説明をします。そして承諾書にサインを頂いてから、手術の日を決めましょう。」
はっとなって朱里は医師を見つめた。
「頑張ってください。手術を受けて終わり、というものではありません。先ほども申しましたが、人によっては一生、苦しみは続きます。肉体的にも精神的にも。」
朱里はその言葉を真の意味で受け止めることはなかった。女性になれるという期待であまりにも胸がいっぱいであったので。これで大地に女性として愛してもらえる、その期待で胸がいっぱいであったので。




