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ルアンの母親が生まれ育ったのはベトナムの山岳地帯で、非常に貧しい家であった。農作物も十分には育たず、観光客なんぞもほとんど来ない。女性が従事できる仕事といえば、ほとんど買い手のない伝統的手織物の製作以外にはなく、それで得られる収入もごく僅かであった。しかしそんな場所でルアンの母親は、ある時思いがけない出会いを果たした。
それはどこぞの有名企業の御曹司が、そこに住む少数民族保護を目的とした伝統工芸品の委託販売を行いたいと、下見にやってくるというのである。それは当時流行っていた、フェア・トレードというものらしかった。ルアンの母親にとっては今更珍しくもなんともなく、そして大して誇りにも思っていない手織物を、それでもかなりの高額で買い取ってくれる手筈を整えてくれるのだというので、村中から請われてその御曹司とやらの対応の役割をしぶしぶ担った。
ルアンの母親は元々織物は好きではなかったし特に思い入れもなかったが、ただただ若く容姿端麗であったので指名されることとなったのである。
そうしてルアンの父となるリアムとの出会いを果たした。
リアムは思ったよりも若く、そして美麗な顔立ちをしていたので、ルアンの母親はあっという間に惚れ込んだ。それは相手も同じであった。日中は手織物の製作現場を見ながら、それが終わると毎晩のように二人きりで会った。しかしそんなことはすぐに村に知れ渡る。
特によく思わないのが、村の青年たちである。ルアンの母親は美人であったので、彼女を狙う男たちは大勢いた。よって、リアムは早々村の男たちによって袋叩きに会い、予定を早めてとっとと国へ帰ることとなった。手織物のフェア・トレードの話もあっという間に立ち消えとなった。
それから数か月後、ルアンの母親は自分が懐妊していることに気づいた。相手は十中八九リアムだと思われた。無論確信はなかったし、その分そこには十二分に願望も含まれていた。
ただ、田舎に居続けるのは飽き飽きしていたし、たしか、カナダからやってきたというリアムに嫁ぐことができたら、今の生活を一新することができるのではないかという期待で、名刺に書かれた連絡先に村唯一の電話を使って連絡を取ってみたのである。
しかし本人には繋がらなかった。初めに繋がったのがオフィスの電話番、次にどうにかこうにか理由をつけて繋がったのが顧問弁護士であった。彼は冷酷だった。
ーー要件はわかりました。ただし出産まで連絡はし兼ねます。出産と同時に遺伝子検査を行い、もしそのお腹の子がリアムの子でなかったならば、名誉棄損として数億ドル単位の裁判を起こします。
ルアンの母親は激昂した。もう、見知らぬ御曹司に頼るのは、金輪際、やめる。そしてその怒りに任せたまま、家を出た。もう地元でなければどこでもよかった。そうして新しい恋人のいるハノイに出て出産をし、そこから子供を連れてまた新たな恋人のいる日本へと行き、そしてさらに子供を二人産むと、再びベトナムへ強制的に送還されてくることとなったのである。
「あああ」ルアンは呻いた。なぜだか今日はさっぱり、気分が乗らないのである。元々気分よくモデル業に勤しんでいるわけでもないのだが、今日は特に酷い。やはり自分にはモデルは向いていないのだ、ドラムを叩く使命にあるのだ、そんなことを胸中で反芻してはみたものの、でも目の前のカメラから逃げられるわけではない。
「ちっと休憩してもいいべか」ルアンは音を上げた。「ちっとだけ」
若手の無名モデルがそんな我儘を言ったところで、普通であれば無視されて撮影は続行されるのだが、その時、撮影スタジオの入口で何やら騒がしい声がし始め、物理的に撮影は中断となった。ルアンはほくそ笑んでコーヒーを飲み始める。
すると外から一人のスタッフが撮影現場へと飛び込んでくるなり、大声で言った。
「今そこに、MiddonのCEOが撮影を観たいと言って来ています!」
カメラマンは、スタイリストは、ヘアメイクは驚愕して体を硬直させた。
「Middonの、CEO? マーティン・リアム?」恐る恐るカメラマンは呟いた。「嘘だろ? 何で日本に?」
「知りませんよ、でも撮影現場を観たいって」スタッフは頭を掻きむしりながら言った。「すぐそこに来ているんですって。なんだかたっくさんのお付きの人たちまで引き連れて! だから撮影しててください! いいですね!」
ルアンは休憩を問答無用で退けられ、地団太踏んだ。髪が乱れる。慌ててヘアメイクがルアンを抑えつけ髪を整え始めた。
するとすぐに黒いスーツ姿の男を十人も引き連れた、背の高い白人男性が登場した。
ルアンとその男の目が合った。
ルアンはこの男が誰だか知らない。CEOというのが何を意味するのかもわからない。ただただ、自分の休憩をはく奪した人間だと言うことだけがわかっている。
カメラのフラッシュが輝く。撮影が、始まってしまった。
ルアンは相変わらず不機嫌そうな顔で、時に途中から入って来た外国人男性を睨むようにして撮影に応じる。
カメラマンは緊張からか、若干上ずった声でルアンに、様々なポーズを要求する。ルアンはそれに応えたり、応えなかったり、する。三十分程写真を撮って、とりあえず終了となった。
その時だった。突如、「このモデルと2人きりにしてくれないか」白人男性が思いのほか流暢な日本語でそう声を張った。
遂にルアンは怒声を発した。「何なんだべ、おめは! 偉い人だかなんだかしんねけんど、俺はおめと二人になんがなりたくねえど!」
ルアンの一番近くにいたヘアスタイリストが頼むからそんなことを言ってくれるなとばかり、祈るような表情でルアンの肩を抑えつける。
「おれは今から下妻さ帰んねどいげねえんだ。下妻は遠いんだ。おめとしゃべくってる場合でねえんだ」
しかし誰もルアンの言葉なぞは聞き入れない。スーツ姿の男たちもカメラマンも、モデル事務所の人間も、こぞって波を打ったようにスタジオを出て行く。
「おい、ちっと待てって! みんなどこさ行くんで? こっだらやづの言うこと聞くことあんめよ!」
誰もルアンを見もしない。そうして、遂にスタジオは2人だけが残された。
「ルアン君、だね」
ルアンは遂に観念する。「ほだよ。誰だと思って来やがったんだ」
「もちろんルアン君、君に会うために私はここにやってきた」
「何の用だべ」ぶっきらぼうに言う。「用件があんならとっとと済ましてくれ。もう帰りてえんだから。」
「わかった。……私は君の父親だ」
ルアンはばかばかしい、と思った。つまらぬ戯言だと思った。頭がおかしいのではないか、とも思った。
でも、……目の前にいるこの中年男性に自分はよく似ていた。それはさすがに認めざるを得なかった。目の色髪の色、それから鼻の形唇の形まで。自分の将来を見ているようでもある。でもだからと言って父親、だというのは承諾しかねた。ルアンは今まで父親なぞについて考えてみたこともない。子供時代、母親に自分の父親について聞いてみたことはあった。でも母親はその時、父親はどこにいるのかわからないと言った。それがあまりにも寂しそうだったので、それ以上追及することはできなかったのである。それから十数年。父親については考えることはすっかり辞めた。そんなことはいくら考えたところで無益だったし、それよりも自分のなすべきことが日々いくらでもあった。曰くドラム。
「何言ってんだべ」ルアンは精一杯鼻で笑った。「頭おかしいんでねべか。俺におっ父なんざ、いね。」
「君のお母さんと私は、かつて恋に落ちた」
「ああ、ああ、母ちゃんはよぐ恋に落ちんだ。そら、しょっちゅうな!」ルアンの目に怒りがよみがえってくる。「そんでどんだけ俺が苦労したが知らねえべ! いっづもいっづも母ちゃんの恋人が狭いアパートにいてよお! 文句ばっかぶったれる! そんで揃いも揃って犯罪者だ! 何かって殴る、蹴る! 俺だけならまだしも弟や妹やらもなあ! ほっだらどこに俺の居場所なんかあるはずもねえ! おっ捕まったのはいがっだがなあ、母ちゃんが日本にいれなぐなっだのも、弟妹らがバラバラになったのも全部全部そいづのせいだ!」
リアムはごくり、と生唾を飲み込んだ。
「おれに父ちゃんなんざ、いらねえ。ほっだら人間がいだら、ぶちのめしてやりてえぐれえだ。」
「辛い思いを、したんだな……」
そう言われて少し、ルアンは落ち着きを取り戻す。
「朱里のお蔭でな。日本にいれるごどになって、バンドも続けられるようになった。朱里がいながっだら、おれは今頃……」ルアンは口淀んだ。
「朱里?」
「ああ、俺の仲間だ。大切な仲間。」
「そうか。……今まで君の手助けができなかったことをとても心苦しく思う。言い訳がましくて申し訳ないが、私はこれを見るまで」と言って、新進モデルを集めた小冊子を懐から取り出した。「君の存在を知らなかった。まさか、あの時子供が出来ていて、そして出産していたなどとは……」
ルアンは真意を問うようにリアムの顔を見つめた。これは嘘ではないのか? 本当は子供がいることを知っていたが、知らぬふりをしていたのではないか? だからそれで自分ばかりが見知らぬ日本の地で苦労せざるを得なくなったのではないか?
「……知らなかったって、本当か?」喉の奥に何かが絡み付くような声で言った。
「ベトナムの地で別れた後、君のお母さんから私に連絡が来ることはなかった。もう一度会いたいと実は、君のお母さんが住んでいた村を訪れたことがあったんだが、既にどこかへ行ってしまった後だった。それきり、会っていない。もし機会があれば、君のお母さんに聞いてみてほしい。」
真実だ。ルアンにはそう直観された。
「……本当におめはおれのおっ父なのが? 似てるだけでねえのが?」
リアムは苦笑しながら首を静かに横に振った。
そして今度は茶封筒を取り出す。
「失礼だとは思ったが、遺伝子検査を行わせてもらった」
「はあ?」ルアンは目を丸くする。「ど、ど、どうやって俺の遺伝子検査したんだ? 知らねえ間に血抜いたんが?」
「いつも君が撮影をする時に担当となっているヘアスタイリストと、ヘアメイク」リアムは顎をしゃくって、扉の向こうにいるであろう二人を指した。「あれは私の腹心の部下だ。ブラシから君の髪の毛を入手し、検査を行わせてもらった」
ルアンは唖然とした。
リアムは封筒の中から、一枚の紙を取り出した。
遺伝子検査の結果である。そこには両者の名前と共に、99%の親子関係を示す文言が並んでいた。
「もう一度言う。私は君の父親だ」
「……目的は何だ?」ルアンは観念して言った。「俺に会って、ほんで何がしてえんだ?」
「別に何も」
「何もってこどあっかよ、何だ? 人の髪の毛さ使って検査までして! 何か目的があんでねえのが?」
リアムは黙ってルアンを見つめていた。
「言っとくが金はねえど。スティック買ったら今月もすっからかんだ。」
「金なぞいくらだって稼げる。人から奪い取ろうなどと思ったことはないよ」
かつての母親の恋人とは違う、ルアンは驚いた。
「んん、なら、この体か? ドラム叩く以外興味はねえかんな! 大地んちの梨もぎりの手伝いはしてやっけど、それ以外はなんもやんねえがらな!」
リアムは微笑んだ。かつて音楽を志していた自分を思い出して。彼もまた自分と同じく音楽に魅せられた一人であるということが、なぜだかこの上なく嬉しかった。
「もし何か自分に手伝えることがあったら、何でも言ってほしい」
「ねえよ」ルアンは驚きつつも、精一杯の虚飾でそう、きっぱりと言い放った。「俺には仲間がいるから、おめに手助けしてもらう必要はねえ。一つも」
リアムは寂しく微笑んだ。「そうか、わかった。ルアン君には素晴らしい仲間がいるんだな」
「ああ。ほだ。最高のバンドができる仲間だべ。」
「二人で話せてよかった。感謝する」
ルアンは何と答えるべきかわからず黙した。ーーこの人は今までの母親が連れ込んだ恋人たちとは全く、違う。この人が自分に危害を加えたわけではないのに……。邪険にしたわけではないのに……。今更ながらそんな念が沸き起こってきて、ルアンは咄嗟に謝りたくなった。
「もしそれでも何かあったら、ここに連絡をしてほしい。」リアムはそう言って名刺を差し出した。
謝りたいが、謝れない。ルアンは考えあぐねて、
「ヴァッケンに出る時には呼んでやるよ」と言った。
「ヴァッケン? ドイツの?」
「ほだよ」晴れ晴れとした表情でルアンは笑った。「ヴァッケン・オープン・エア、世界最大のメタルフェスだ。俺はこれに出るのが夢なの。地平線まで埋まる観客の前でな、ドラム叩くのが夢なんだ。そこに出ることが決まったら、チケット送ってやるべよ。予定さ開けといてくろ。」
リアムは突き上がる歓喜に耐え切れず、ぎゅっと目を閉じた。




