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 エンジン音だけが低く鳴り響いている。

 窓の外からはカーテン越しにぼんやりとした光が常に差し込んでいた。

 夜ーー、それは日本時間でであったが、今ここはどこで何時であるのかはわからなかった。とにかく、そんな時間にルアンはふと目を覚ました。隣で大地は途中のままの映画を画面に映したまま寝入っていたし、その隣では毛布に包まって大河も静かな寝息を立てていた。

 就寝時間を迎えると、朱里の簡易ベッドはそっくり囲むようにカーテンが敷かれた。だから今、カーテンの向こうに朱里は休んでいるはずだった。ルアンは何とはなしに気になって、ソファから立ち上がるとそっとカーテンを捲ってみる。

 朱里はぼんやりと外を眺めていたがルアンに気づき、ほんの少し口の端を上げた。

 「起きてたんか」

 朱里は小さく頷く。

 「体はだいじだべか」

 再び頷く。

 それだけだった。ありがとう、とか感謝している、とかをこの期に及んでも一切言い出さないのがルアンには嬉しかった。

 言葉を発することのできない朱里と、外国人で日本語の話せないまま日本にやってきたルアンとの間には、一見すると妙な意思疎通が行われていた。

 それは言葉に頼らない、というコミュニケーションの根幹を覆すような方法だ。それがいつからなのかははっきりしない。おそらくは出会った頃から、二人はそんな風にお互いの思いをやりとりしていた。

 ルアンが強制送還されそうになった時、朱里が発せぬ声を発して政治家の父と祖父とを動かし、なんとか日本滞在を認めさせたことについて、実はルアンは朱里に言葉としては礼を言ってはいない。一言さえも。

 「ありがとう」。それはあまりにも軽すぎたし、一種ばかげているようにしか思えなかった。恥ずかしい、とか照れくさい、というのとは違う。そんなことでは朱里の前では通用しない、それが近い。

 その代わりにルアンはドラマーとして朱里の音を世界に届ける技量を身につけることに、いよいよ専心した。傍から見ればそれは筋違いの方法に見えたかもしれない。しかしルアンにとって、それが唯一の朱里の恩義に報いる方法であったし、そこに迷いなぞ、一つもなかった。

 朱里もその思いを感じ取っていたからこそ、ルアンに曲を渡すたび無理難題にも思える要求を平気で、した。それが朱里流の「どういたしまして」、であった。

 その後朱里が性別適合手術を受けたことを後日知らされ、裏切られたような気になったのも、自分と朱里とはすべてを分かち合える仲間だと思っていたからである。代理の海里でヴァッケン出場を志そうと公言したのも、たしかに海里の卓越した技量に改めて惚れ込んだというのもあるが、裏切りには裏切りで報いるべきだと思ったことも大きい。

 しかし地獄を知った朱里の意想外の進化による唯一無二の音に接し、その主張をにわかに翻してからは、自分の一番嫌いな、人に頭を下げるということすらルアンは厭わずやってみせた。その相手がわずか一度しか邂逅したことのない父親であっても。その人のせいで自分が幼少時代、さんざ苦痛を味わってきたという理不尽な憎悪さえ感じていたとしても。

 朱里がやってくれたように、自分ができないことでもって尽くすのが、ルアン流の礼儀だったし、それこそが朱里とルアンとの親交の深め方、であった。そこに言葉はいらない。

 だからこそ朱里も、この僥倖には大いに甘えた。甘えに、甘えた。日本にいる時よりも深く眠り、十分に過ぎる食事を摂り、ヴァッケンに向けて体力温存に励んだ。そしてステージでは、――そこで死んでも構わないーー最高のステージングをしてみせる。世界の耳目をあっと言わせてみせる。そうして自分の、バンドの、夢を叶えるのだ。朱里はそんな幸福な決意で胸がいっぱいであった。


 朱里にとって、メンバーは自分と世界を繋ぐ唯一の存在だった。

 それは朱里と遊ぶとなれば、誰しもが獲得しなければならない能力の一つであったかもしれないが、大地も大河もルアンも、朱里の微細な表情を読むには長けていた。

 ほんの少し上がる眉、唇に入る力の多寡、歩が刻むリズム……。

 朱里は喋れないだけで決して冷静なわけではなかったし、性質が温和なわけでもなかった。

 近所のパン屋でお気に入りのチェリーパイが売り切れで買えないと落ち込むし、ギターが思うように弾けなければ苛立つし、兄海里に一種狂的な恋慕を抱き、失恋しては大粒の涙を零したこともあった。むしろ、感情的、でさえあると三人は思っている。

 ただし一切言葉には出ないものだから、そのストレスは相当なものであろう。朱里が音楽という道を志したのは、直接的なきっかけは海里であったかもしれないが、もし海里を介しなくても必然的にたどり着いただろうと、三人は確信していた。

 音楽は朱里にとっての言葉であった。朱里が生み出す音楽を通じて、三人は「こんなことを考えていたんだな」と妙に納得するような場面も、多々あったのである。

 朱里が手元のスマホを取って、何やら打ち込む。

 ーーもうそろそろだね

 「ほだいな(注:そうだな)」ルアンはにやり、と笑む。

 ーー緊張してる?

 「してねえ」

 ーー本当に?

 「おめを連れてこれてほっとしてる」

 朱里は微笑んだ。

 ルアンはそっと手を伸ばして、毛布を肩まで上げてやる。

 ――俺は俺なりのやり方でお前をここまで連れて来た。あとは、お前の音で世界を魅了しろ。俺はそれを後ろから見守ってるから。安心して、飛び立て。

 それは言葉にはしなかったけれど、確実に、朱里には伝わっていたのである。それが朱里とルアンの絆だった。


 飛行機が着陸すると、その後の手続きも異様な程にスムーズであった。空港にてプライベートジェット専用のルートを辿り、ハンブルクの地に降り立つ。なんと、専用の乗務員とばかり思っていた青年も同行し、空港の目の前に付けられたリムジンに共に乗車することとなった。朱里は日本同様、横になったままの移動でもある。しかし、もう驚かなかった。それよりも、これほどまでに配慮されている以上、自分のなすべきことをなさねばならぬ、そんな決意に満ち溢れていた。


 空は快晴。雲一つない大空がどこまでもどこまでも続いている。車窓は次第に牧歌的なそれと変わっていった。それに従って、明らかに黒いTシャツにレザージャケットを身にまとったメタラーと思しき面々が、路上に現れ出す。

 「あいづ、ルアンとおんなしIn FlamesのColonyのTシャツ着てやがるべ」窓に張り付きながら、大地は嬉しそうにはしゃいだ。

 「あっぢは大河の好きなMEGADETHのRISKだべ! センスいいべ!」ルアンも騒ぐ。

 大河は朱里の隣に座りながら、「どんどんメタラーが増えて来たべ。いよいよだなあ」と微笑みかけた。朱里もここまで来てみると、ひたすら睡眠を取って来たためか、この謎の乗務員の用意する食事が口に合っているためか、日本にいるよりも体調が良い気がしてくる。大河ににっこりと微笑み頷いてみせた。

 横になってはいるが、しっかりと大地から渡された下八幡神社のお守りと、オートクチュールドレスを抱きしめている。

 大地が笑顔のまま朱里の隣にやってくる。

 「いよいよだべな。だいじか?」

 朱里は頷いた。

 何はともあれ、自分のなしうる一番のコンディションであることには間違いなかった。

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