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ヴァッケンに向けた初めてのリハの最中、朱里の新たなギタリストとしての進化に密かに驚嘆していたのはルアンばかりではなかった。大地も、大河もその変化には当然気づいたし、だからこそこの儚く今にも崩れ去ってしまいそうな一少女に、一種の惧れにも似た感情を抱いた。これはかつて朱里が初めて曲を披露した時のそれともよく似ていた。
しかし、ーーあの時と明らかに違っているのは、朱里のその音を、凄まじいまでの覚悟を秘めたこの音を、観客に聴かせることができない可能性が濃厚にしてある、という点であった。
朱里の体調は、その後リハを重ねても思うように良くはならなかった。
スタジオに出向くに際しても大抵は海里が機材の運搬を肩代わりしてやっていたし、リハ中も途中までは頑張って立って弾こうとするものの、間もなくへたり込むように座るのが常だった。
朱里ははっきりとは言いたがらなかったが、海里によれば朱里は現在も出血が続いており、おそらくはそれに伴う貧血が影響しているのであろうとのことだった。
これではいかに音に凄みがあったとしても、それが観客に対して唯一無二の独自性と衝撃を与えられるにしても、そもそもヴァッケンまで赴くことさえできないのではないか、というのが三人の同一の見解であった。
丸一日近い移動時間を、どうやってクリアするのか。
リハには取り組みつつも大地の脳裏にはもはやこれまでか、という思いも過った。
「飛行機のチケットの手配だがな、これ、俺に任せてくれねえが?」
リハを終えた後、そうルアンが言い出したのは、いよいよヴァッケンまであと50日と迫ったある日のことであった。
「おめにできんのが?」
大地が訝る。
「馬鹿にすんでねえ。おれはこう見えて外国産だかんな」
こう見えても何も、見た目はどこから見ようが外国人である。自分ばかりがすっかり茨城県民になり切った気でいる。
「まあ、一番大変なドラムの搬送に関しては、たしかにルアンが一番わがっでんがんな。その方がいいかもしんね」という大河の言葉で、ルアンにチケットの手配は一任されることとなった。
「本当に大丈夫があ? いざとなっだら朱里に頼めよ。朱里は外国さ旅行で何度も行ってっかんな。詳しいべ」大地は最後まで不安であった。
「だいじだっつってっぺよ」ルアンが口を尖らせる。「おめらはしっかりパスポート取っとけよ。パスポートなげりゃ、外国さ行けねんだかんな!」
「ほっだらごど知ってっぺよ!」大地が不満げに言う。
「パスポートどうやって取るか知ってんのが?」さらにルアンが大地に詰め寄る。
「当たり前ぇだべ! 茨城空港さ行けばくれっぺ! なんつったって俺は正真正銘押しも押されぬ茨城県民だかんな!」
大河に後頭部を打たれ、大地は「何すんだべ!」と怒りをあらわにする。
「役場だべ、役場! だいじだ、ルアン。俺が責任持ってちゃあんと、大地の分と俺の分、パスポート取ってくっから。そっぢの手配はよろしく」
そうしてルアンが向かった先は、旅行代理店でも空港でも、なかった。
見上げると首が痛くなるような都心に聳え立つ高層ビル。
ルアンはそこにはきわめて不釣り合いなCARCASSのTシャツにレザージャケット、おまけに迷彩柄パンツといういで立ちで立っていた。行き交う人々は例外なくビジネスマンである。誰もが物珍し気にルアンを見た。
ふう、と呼吸を整えて正面ドアを入る。
受付嬢が一瞬、瞠目し立ち上がった。
「あの、CEOのマーティン・リアムに会わしてほしいんだが」
「お約束はございますでしょうか?」
ルアンは押し黙る。
「お約束がございませんと、現在面会のお時間を設けますのは大変難しく……」
「ルアン・ファムだっつっても無理だべか」
「申し訳ございません。CEOは大変多忙な身でございまして……」
ルアンは悔し気に下唇を噛んだ。ここまでなのか。他に何かよい方法はないのか。何も考えずにここまで来てしまったことを、今更ながら悔いる。
たまたま見つけた父親のSNSには、先週から来月頭まで日本に滞在する旨のコメントが残されていた。その瞬間、始終海外を行ったり来たりしている父がこのタイミングで偶然にも日本にいる、ということがルアンにとって唯一の希望となった。だから、どうしてもこの機を逃すわけにはいなかった。
どうにか、ならないものかーー。強行突破? ちら、と物騒な考えが頭をよぎる。
その時であった。後方から駆け寄ってきた、スーツ姿の男がいた。アジア人に見える。
ルアンを覗き込んだその顔は、どこかで見た顔のような気がする。
「ルアン様ではないですか!」明らかに驚いた顔で言った。
「リアムの秘書のイェンです。お久しぶりです」
そう言われてもいまいちピンとこない。
「そうですね。私のことなんぞは存じますまいが、一度リアムと一緒にルアン様がモデルの撮影をされているところに行き、しばらく拝見しておりました。まあ、あの時はすぐ人払いをされてしまいましたので、私が一方的にルアン様を眺めていただけ、ということではありましたが。……それで、一体どうしてここに?」
「リアムに会いてえんだ」ルアンは藁にも縋る思いで言った。
イェンは一瞬躊躇したが、すぐに真剣な眼差しで頷いた。
「わ、わかりました。リアムは本日昼の会食まではこちらにいる予定です。さあ、一緒に参りましょう」
受付嬢は呆気に取られている。
見たことのない様なたくさんのボタンが列挙したエレベーターの中で、イェンは驚きの中にも喜びを含んだ顔つきでルアンを眺めた。
「まさかルアン様からわざわざお越しいただけるとは。どうしてリアムが日本にいることを?」
「いやあ、その……」わざわざSNSを検索した、などというのもこそばゆい。
「まあ、偶然にして何にしてもリアム様は、大変喜ぶと思います」
ルアンは緊張に言葉を喪ったまま、堅く小さく頷いた。
「用件は、……私が今ここで伺わない方がよろしいですよね?」
再びルアンは頷く。
自分がこれからリアムに直談判をしようと考えている内容は、どう考えても非常識に過ぎた。断れて当然であるし、こんなことを名目上の父親とは言え、今まで何の縁もなかった人に言う頼むということが、ルアンのプライドにも耐えがたいというのが正直なところでもあった。でもこれ以外に方途はなかった。だから来たのだ。ルアンは勇気を奮い起こす。
最上階に到着する。エレベーターの扉が開いた。
「こちらへ」促された先には「CEO」とのプレート。
イェンはノックをする。
「come in」中から声がした。
扉を開く。
リアムがいた。
リアムはルアンを見、目を見開いたまま固まった。
無言ではあったが、ルアンは意を決して早足でリアムの前まで進み出た。イェンは慌てて一つ頭を下げると、速やかに部屋を出て行く。
「一生の、お願いです」




