25
リハはその日から何度も重ねられていった。
そのある日中のこと。
海里が珍しく血相を変えて朱里の部屋に飛び込んできた。右手にはスマホを握り締めている。
「大変だっぺ!」
ベッドに腰かけてギターを弾いていた朱里は、手を止めて何事かと海里を仰ぎ見る。
「今日これから、うぢに悠里と志緒里が来るちけ!」
朱里は目を瞬かせた。
悠里は鈴木家の長男で東京大学の法学部を出、今では政治家を目指すべく国会議員の秘書をやっており、志緒里は次男で現在は法科大学院に通って弁護士資格の取得を目指していた。
「なんでいきなり来るんだべ? おめ、なんか心当たりあっか?」
朱里は首を横に振った。
平生、世の中に怖いものなど一つもないという顔をして生きている海里が、世界で最も苦手とする二人がこの長兄と次兄であった。
鈴木家の兄弟は総勢五人、口さがない人からは優秀な遺伝子は最初の三人で使い果たしたとも言われているが、それは海里も全くその通りと自覚している。幼少時代よりどう考えたって勉強嫌い、悪戯は人の三倍やりつくし、下妻市中に悪名を轟かせてきたこの弟を、半ば放任の父母に代わって叱り飛ばし、懇々切々と説きに説いてきたのが、この長兄と次兄のコンビなのである。
朱里ははっとなって、スマホに文字を入力する。
ーーママに言われて私を下妻に連れ戻そうとしてるのかも
海里ははっとなって部屋を見渡し、「おめ、どっか隠れてっか? クローゼットん中どか」と言った。
朱里はゆっくりと首を横に振り、
ーーちゃんと話す。東京でバンドの練習しなきゃいけないって。
と入力してみせた。こうなると朱里の方がだいぶ大人である。
海里は頭を抱えた。「何だべ、一体。まあたこの年んなって説教されんのが。定職に就けどか言うだけならまだしも、仕事さ勝手に決めてこられてたらどうすべえ。あああ、とんずらこくべかな。でもとんずらこいたところでなあ。あいづら俺がどこにいだってめっけるべ。頭だけはピカイチだかんなあ。」と、何やらぶつぶつと言いながら部屋を出ていく。
残された朱里は呆然として海里の後姿を見守った。
でも、海里が慌てだすのも無理のないことで、悠里も志緒里も今まで一度もこのマンションに来たことはないのである。二人とも東京に住んでいるから距離的には近くにいるはずであるが、一度も来たことがないというところに、この兄弟の間に生じている溝が明らかになっている。
そして、遂に夕方を待たずして兄二人が到来した。
「……どうぞ」
海里は二人の有難くない顔をインターフォン越しに確認をして、鍵を開ける。
朱里も珍し気に海里の背から兄の顔を覗き込む。
「おめは奥にいろ」
朱里はそう指示されて、リビングのソファに座り込む。海里なりに下妻連行を食い止める方法を思案しているのかもしれない、などとも思った。
まもなく二人がエレベーターを上がって、部屋の前までやってくる。
二人ともメタルTシャツの海里とは対照的にしっかり襟の付いたポロシャツを着込み、しかもアイロンまでかけたのかというくらいに皺ひとつない。そういえば実家にいた時もTシャツなんぞには決して腕を通さず、いつもきちんと首元を締めていたことを海里は思い出した。
「いやあ、あんぢゃんら、しばらくだごど。どうぞどうぞ」
海里は精一杯愛想よく二人を迎え入れ、リビングに案内した。
悠里も志緒里もどこか表情は硬く、気難し気に見える。
二人はソファに行儀良く座っている朱里を見ると、「おお、元気か」「久しぶりだべ」二人は少し頬を緩めて言った。
海里は油断なく、二人をじっと見つめながらキッチンに用意したお茶を淹れる。
「いい部屋だんべ。眺めもいいべ」志緒里が窓からの風景を眺めながら目を細める。
「防犯もしっかりしてんな。ここなら朱里さいでも父ちゃん母ちゃん安心だべ」海里も満足そうに頷いた。
「まあ、なんもねえけどゆっくりしてってくろよ」
海里は二人の前に茶を出しながら、頬を固くしたまま言った。
「まあ、ゆっぐりしてえとこなんだが、そうもしてらんねえんだ」
海里はあからさまに安堵する。
「ほうがー! 残念だべ! せっかくひっさびさなのによお! まあ、悠里あんぢゃんも志緒里あんぢゃんも、忙しかっぺからしゃあんめな(注:仕方がないな)!」あっはははは、と哄笑までおまけに付いた。
さすがに二人とも不審げに海里の顔を見つめる。
「……忙しいんではねえが、一刻も早く伝えたいことがあっでな。実はな、朱里、おめに用があって今日は来た。」
朱里はさすがに身構える。
「ほれ、志緒里」海里はそう言って志緒里を見た。促され、志緒里は持ってきた手提げカバンからそそくさと一通の書類を出す。
朱里は身を乗り出した。
「こらな、ほれ、前おめに診断書、医者様に出してもらえっつったっぺ。そんでな、それ家裁に出して今日無事戸籍変更の申請が通った」
朱里は目を丸くし、悠里と志緒里を交互に見つめた。
「ほだ。おめは今日から、正真正銘女っごになったんだ」
朱里はぽかんと口を開ける。
「え? ……マジか」そう言って海里も目を瞬かせる。
「本当も本当だ。これ見てみろ」
そういって志緒里が出した戸籍抄本には、「鈴木朱里 長女」と記載があった。
朱里は震える指でその「長女」欄に触れる。
「ほだ。おめは鈴木家の長女になったんだ」
朱里の唇が震えだす。
悠里は微笑みながら朱里の頭を荒々しく撫でた。
「俺らもいい勉強になった。俺は将来政治家になる身として、志緒里も弁護士になる身として、こういう機会を与えてくれて、おめには感謝してる」
朱里は悠里の手を握った。涙ぐんだ瞳でしっかと悠里を見つめる。
「まあ、そんなかっごいいこど言ってべが、今まで、……正直小せえ頃からずっと、おめが何を考えて、何を思ってんのがよぐ俺にはわがらねがった。なんで男なのに女っごの恰好してんだっぺって、変なやづだなあ、と思ってだ。そんで先月、母ちゃんから、朱里が女になる手術したって聞いた時は、まさか身内でそんなことがあんのがって魂消て魂消てどうしようもねがっだ。でも魂消てばかりもいられねえがら、志緒里呼んで、実家さ帰って父ちゃん、じいちゃん、母ちゃん、みんなで膝突き合わせて話した」
朱里は頷く。
「おめも知っての通り、うぢは代々保守派の議員だ。男は男らしく、女は女らしく、子を成してこそ一人前。それが地元の発展、日本の発展だってことを長年疑ったこともねがっだ。でもおめのごどを見でて、一人一人の幸せはそんな単純なもんでねえのがなって思うようになったんだ。
じいちゃんが、言ってた。
おめが喋れなぐってもずーっと毎日毎日つるんでくれでる友達見でて、男だ女だ、日本人だ外国人だ、ほっだら分け方すっこどが本当に人の幸せになんのがなって、この年になって初めて考えはじゃったって……。おめの友達、先祖代々下妻で農家やってる子と、外国人の子が当たり前みてえにつるんでで、ほんでおめも当たり前にそこにいて、毎日仲良くやってる。そういう幸せもあんでねえのがなって……。んで外国人の子が不法滞在で強制送還されっちまうって時に、おめ、必死になってじいちゃんと父ちゃんに助け求めたんだってな。じいちゃん、思わずあっぢこっぢに手回してどうにかやりくりしたけど、自分がほっだらごどやるようになるとは思わねがっだって、笑ってたど。おめがあまりにも真剣だったから、つい力貸したたけど、元々はじいちゃん、外国人にいい顔する人でねがっだかんな。日本人が世界一の民族だっつって公言して憚らねえ人だったから。
まあ、じいちゃんはもう政治家引退してっから、『おめが政治家になった暁には朱里から勉強さしてもらっだごどを生かせるようにならねばだいだ(注:だめだ)。男だ女だ、日本人だ外国人だって単純な二項対立さ当てはめて、わかったような気になるのはだいだ。これからの時代に合った政治をやらねばだいだ』って、言ってた。俺もそう思うべ。」
朱里は目を丸くして悠里を見つめていた。
「朱里、ありがどう。机の上の勉強だけじゃあ、政治家として本当に大事なことを学べながっだと思う。おめの生き方が、俺も、じいちゃんも変えてくれだし、ひいては俺が政治家になった暁には、地元も、日本も変えていってくれたんだって、そう言えるように、俺頑張るかんな」
朱里は半ば呆然として悠里を見つめていた。
「悠里あんちゃん、次の下妻市長選さ挑戦すんだ。おめらも応援すんだど」志緒里が微笑みながら言った。




