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実家での献身的な看病と静養の甲斐あって、朱里の体調は少しずつ回復していった。
一か月も経つと一人で起きて庭を歩けるようになってきたし、食事も少しずつ摂れるようになった。
体調の良い時には砂沼まで歩いて、水面をゆくカモの姿を眺めることもあったし、八幡神社にお参りをすることもあった。
しかし、まだメタルバンドのライブをやるには正直、至らなかった。
思い立ってギターを爪弾いてはみたものの、ギターを提げて立つこと自体がまだまだしんどい。よく今までこんなに重いものを持って二時間もギターを弾いていたものだと思う。
海里は優しく笑って、「いまちっとゆっくりしてろ」と言ってはくれたが、そろそろ時期的にヴァッケンに向けてのリハも始めなければならない。
このままではまた選考会の時のように、海里に自分の居場所を奪われてしまう。
しかし焦っても、急速に体調が良くなるわけではない。
できるだけ睡眠を取り、できるだけ栄養を摂り、朱里は健康になるために日々努力していた。
大地も農作業の傍ら度々顔を見せにきてくれ、朱里の様子を伺った。自分の家で作った梨なんぞを持ってきてくれたり、一緒に庭の散歩に付き合ってくれたりもした。そんな時に大地が話すのは、幼き頃の思い出ーー。
「砂沼に落っこちで溺れた時には、死ぬかと思ったべ。砂沼の水ん中ってな、海藻みてえのでどこもかしこもつるつるしてんの。だからどっこも掴めねんだよ。おめ、知らねえべ?」
朱里は笑いながら頷く。
「だからな、上さ上がろうと思っても、なかなかうまくいかねえ。あん時あんちゃんに引っ張り上げられながっだら、間違いなく死んでだと思うべ」
朱里もその出来事はよく覚えている。小学校に入るか、入らないかの時であったろう。貸船に乗って皆で釣りをしてたところ、何を思ったか大地が突然船の上に立ち上がったのでバランスを崩して落っこちたのだ。びっくりした。
「たまげた大河が大泣きして帰っだもんだから母ちゃんにバレて、こっぴどく怒られるし、もう砂沼行くんでねえなんて言われて、ありゃあ、たまったもんでなかったべ」
朱里は顔を覆って笑う。
「でも次の日また砂沼で遊んだけどな。あんちゃんと、おめと、大河と、ルアンと。さすがに船はやめっぺってことになって、砂沼庵の近くでおどなしぐ釣りしたっぺ」
朱里は頷く。
「ブラックバスいっぱい釣れてよお、朱里んちのニシキゴイと仲良くさせてやっぺって思って、池さ入れようど思ったら朱里のじいちゃんに『ニシキゴイはおめらの持って来たやづどは仲良くなれねんだ』って教えてくれでな。なんでだっつったら、『国が違うべ』っつわれて、『はあ、そうなのが? でも俺はルアンと仲良しだ、ルアンはべとまむっていう国から来たんだど? だけど今ではまいんち一緒に遊んでる。誰とでも仲良くなれっぺ』っつったら困ったような顔してたな。おんなし魚なのに国が違うから仲良くなれねえわけあんめよってその時は思ったけど、今思えばとんでもねえごどしようとしてたな。おめえんちのニシキゴイ全滅さしてたらうぢの財産吹っ飛んでだわ」
朱里は再び笑った。
ちょうど二人の目の前にはその池がある。太ったニシキゴイたちが優雅に泳いでいる。
「なーんか、いっづも俺ら一緒に遊んでだよなあ。楽しかったよなあ。今もまあ、そうだけど」
朱里は再び頷く。これからも大地とルアンと、大河と一緒にバンドをやりたい。この四人でライブに出たい。そして世界へ、行きたい。
大地ははあ、とため息をついて暫く何かを考えるように黙した。ニシキゴイがちゃぷり、と音を立てて尾を振る。
「……朱里、ヴァッケン行けっか?」大地が突然真剣な眼差しで問うた。
朱里は頷いた。ーー絶対に、行きたい。でも、体は……。そう、急には回復しないのはこの一か月の自分の様子を見ていても明らかだった。
「俺は絶対に、おめと行きてえ。でも……」口淀んで、「長い時間飛行機に乗らして、ほんで着いたら着いたで荒れ地の埃まみれのステージで演奏さして、ほんでおめがぶっ倒れるようなまねがあったら、俺は悔いても悔いきれねえ」
見たことのないような、苦悶の表情だった。
朱里は大地の腕をぎゅっと握り締めて、真正面から向き直った。ーー大丈夫。絶対。約束する。そんな思いを込めた。
「ヴァッケンまであと二か月だ。そろそろ本気になってリハしていかねければなんね。……東京さ、行けるが?」
朱里は力強く頷く。大地のため、そして自分の居場所を守るため、命をかけよう。そう決意した。
さすがに真正面から両親に東京行を告げたところで、了承が得られるとは思えない。近場を歩けるようになったのも今週のことなのである。
しかし長時間電車に乗って東京に行ける自信もなかったし、地元のタクシー会社を使ったとしても、顔の広い両親のことだ、即座に話が知れてしまいそうな気がする。
朱里はそれを大地に伝えた。すると、
「なあんだ、ほっだらごど。俺が車で連れてってやっぺよ」
朱里は安堵した。
大地は耳打ちした。「駆け落ちみてえだな!」
朱里の顔は赤くなる。
「なあに、すぐに父ちゃんに話つけてやっから、ちっと待ってろ」
大地は帰宅と同時に風呂に入った。そしてそのままばあちゃんと母親が丹精込めて作った、夕飯の席に着く。明日は休みとなると父親は夕飯の前にビールをいっぱいやるのが至極の時間で、始まった野球中継を観ながら早速缶を開けた。
「なあ、おっ父、明日軽トラ使うか? ちっと借り出してえんだが。」
「明日は別に使わめよ、何だ? 何が運ぶのか? まだ楽器か?」
「いや、ちいと朱里と出かける用事あんだ」
「朱里?」父親は首をかしげる。
「宗衛門(注:朱里の家の屋号)どごのばっち(注:末子)だべ」ばあちゃんが台所から答える。
「大地のあまっご(注:彼女)だんべよ」母親も同じく台所からそう答えた。
「何、おめ、宗衛門のばっちとできでんのが?」父親はビールを噴出さんばかりになり慌てて口を拭う。
「いや、ほっだらごどではねえけど……」
「おめ、あまっごど出かけんのに軽トラっちゃあんめ! しがも、宗衛門ちのあまっごに軽トラ!」そして思わず手が出る。大地は頭をぶたれ、座布団の上に転がった。
「な、何すんでー?」
「おめ、馬鹿か! 前々から馬鹿でねえがと思ってはいだが、いよいよ馬鹿確定だっぺ! どこに、あまっご乗せんのに軽トラ使う馬鹿がいっぺが! ……こっち来!」
大地は父親に耳を引っ張られ、隣の和室に引きずられる。
「痛ぇよ! 何すんだよ!」
神棚の前で放り出された。
父親はパン、パンと柏手打つと、恭しく神棚に乗せていた車のカギを降ろす。
「そらあ、おっ父の……」
「ほだ。メルセデス・ベンツだ。」
これは数年前、家で作っているネギの価格が高騰し非常な利益を出した時に、営業マンに半ば言いくるめられ、父親が清水の舞台から飛び降りる覚悟で購入した自家用車メルセデス・ベンツの鍵であった。
しかしあまりに大切にしすぎているがために、正月の初詣と親戚の法事ぐらいの用途でしか使ったことはないし、普段はなぜだか父親の手によってこうして神棚に祀られている代物であった(車体本体はトラクターと一緒に長屋に置かれている)。よって普段はその存在を家族のだれもが忘れている程である。
「これ、貸してくれんのが?」
「ほだ。……男があまっご乗っける時はかっこづけなあいかん。」
父親がおそらくは母親に聞かれぬよう、小声で耳打ちする。
「ほんで、どこまで進んでんで? チッスはしだが? もっどしだが?」
「何言ってんでえ?」大地は顔を顰めて父親から身を離す。
「大事なことだっぺよ! めおどさなる前に赤子でぎぢまったら、俺も土下座しに宗衛門どご行かねばなんめ?」
「ほっだらごと必要ねえよ!」
再びぐいと大地を引き付け、「ゴムさちゃんと付けんだど? なけりゃくれてやっから」
大地は両手で全力で父親から身を離す。
「いらねよ!」鍵だけをひったくり、慌てて大地は逃げ出す。なんでどいつもこいつも朱里が男だということを忘れてしまうのか。これもあいつが女の形をして声を出さないからに違いない。
でも、たしかに、ーー大地は考え込む。
朱里は綺麗だ。まるで夕焼けを映しこんでキラキラと輝く砂沼の水面のように。
はあ、と大地はよくわからないため息をついた。




