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20

 翌朝。

 海里の家に泥酔したルアンが届けられた。朝も早くから実に騒々しく、

 「あんちゃん! 俺が帰ってきたど! 開けてくれ!」そうインターフォン越しの絶叫を浴びせられ、それでも海里は入り口を開けた。

 出てみると、両脇をどこぞのバンドマン二名に抱えられたルアンのお出ましである。

 「あの、……ルアン君にここがご自宅と言われて連れて来たのですが、海里さんの家だったんですか」

 Tシャツに短パン姿の海里を目前に、バンドマン二人は緊張の面立ちで言った。

 「ああ、だいじだ。こらあ迷惑かけたな。ありがとう」

 ルアンは正体不明の体で立ち上がることもできない。海里はルアンを抱き抱えて二人に礼を言うと、そのままリビングに担ぎ込みソファに投げ出した。傍で寝ていた大地と大河もむくりと起き上がって、ルアンを見て驚きの声を上げる。

 「いやあ、お帰り。ルアン帰ってきたんが。」と大河。

 「ただいまー!」

 むわん、と酒臭い息に当てられ思わず大河は怯んだ。「くっせ!」

 「おめ、どんだけ酒飲んだんだ。こんなんでよぐ帰ってこれたな」

 「こいづ、担がれて帰ってきたんだど。てめえで歩かれねえで、一晩中とんでもねえ迷惑かけたに違えねえ。」海里は苛立ちながらスマホで何やら検索をし始めた。そして、「ああ、あいづらどっかで見たことあるど思ったら、Hatecrewのやづらが。後でしみじみ(注:しっかり)礼しとかなきゃあんめ……」と呟く。

 「ほれ、大地! ヴァッケン行くど! ヴァッケンさ行って日本のメタルを見せつけてやんど!」ルアンがソファで喚いている。

 大地は面倒くさそうに台所に立つと、コップに水を注ぎ入れルアンに無理やり飲ませた。

 「おめ、ちっとこんで酔い冷ませ」

 「あんちゃん、一緒にヴァッケン行ってくれるよな? また俺らとギター弾いてくれるよな?」水を口から零しながらルアンは必死に言った。

 その隣で大地はほとんど泣きそうな顔でルアンを見下ろした。

 「おめらも頼めよ。大地、おめはあんちゃんじゃなきゃ昨日みてえなライブできめ(注・できないだろう)?」

 「……ほっだらごどねえ」嚙みつぶすようなを漏らす。

 「やるのは朱里の曲、弾くのはあんちゃんでいいでねえべか! その方がいいライブできっぺよ!」

 そこにふらりと、朱里が入ってきた。顔は青白く、体は壁にもたれかかったままであるが、手にはペンを持っていた。慌てて大河が朱里の体を支え、そのままゆっくりとソファに座らせてやる。さすがにルアンも言葉を噤んだ。

 朱里は必死の形相でテーブルに置かれたメモ帳に、何やら震える手で字を書き始めた。

 ーーえらんで

 「何を?」大地は無理やり作り笑いを浮かべる。「選ぶも何もねえ。俺らのギターは朱里に決まってっぺ。」

 ーーかいりとはちがうけど

 少し間があった。

 ーーわたしのギターひく

 字が震えている。

 ーーできなかったらやめる

 右手を左手で支え始めた。

 ーーだからチャンスほしい

 遂にペンが指の合間から落ち、朱里は顔を覆った。肩が震え出し、さらさらと肩から零れ落ちる髪を朝日が強く照らしていた。

 ルアンは朱里から目をそらし、眩い朝の街並みを静かに見つめていた。


 朱里の体調は一日一日薄紙を剝ぐようにではあったが、回復の兆しを見せていた。

 しかしまだギターを弾く、ましてやステージに立つまでには到底至らない。朱里はそれでもバンドとしてヴァッケンに出るため、遂に実家で療養する決意を固めた。

 止まらない下血で汚れたシーツを海里に交換させるのも忍びなかった。トイレに這って行って海里の手を借りるのも忍びなかった。自分はもう女だったから。

 無論母親は朱里が性別適合手術を受けたことは知らない。本人は無論、海里も朱里から強く口留めをされていたので、知る由もなかったのである。

 海里からの電話ですべてを知った母親は、その場で卒倒しかけた。卒倒しなかった、というよりもできなかったのは、母として朱里を守らなければならないという使命感にただただ突き動かされたからである。

 痛苦と焦燥、それから悲嘆でひどく息切れがする中、「い、今から車で迎えに行ぐから」母親は言った。

 「いや、いい」海里は言った。

 「いいごどあんめ(注:いいなどということはあるまい)!」思わず叫ぶ。

 「だい(注:だめ)だ、今の母ちゃんにはとてもでねえけど運転させらんねえ。こっちさ来る前に事故るのが関の山だべ。だから俺がこっちから朱里のごどタクシー乗せて一緒に帰るから。俺も一緒だ。だから、母ちゃんはそっちで準備しで待っててくれ」

 そう言われればそれが適解だと思う。さすがに母親は肯ずる他ない。

 母親は早速朱里のベッドを整え、近所のスーパーで栄養のある、それでいて体によさそうなものを片っ端から買い込み、ああ、そうだ、忘れていたとばかりに受け入れ準備が整ってからようやく夫と義父母をリビングに呼びつけて、

 「朱里がな、女になった」と前触れも何もなくそう、言い放った。

 昨今若干認知症の気のある義母は、

 「シェリーちゃんは女の子だっぺよ。下妻一の別嬪だべ。」とのんきなことを口走り、夫と義父も、

 「何でえ? 戸籍さ変えたのか。弁護士も付けねで、一人でよぐできたなあ。たいしたもんだべ」などと同じくのんきなことを言ってくる。

 母親は三人をほとんど睨みつけるようにしながら、

 「馬鹿ども! シェリーちゃんは×××おっ切る手術さして、穴さこさえて、女になる注射さして、女になったんだ!」

 さすがに三人の顔色は一変する。

 「……今は海里の家で寝込んでるっつう話だべ。でも体が辛いし海里は男だから、だから、今から海里がシェリーちゃんごどタクシーさ乗っけで帰ってくる。……おっ父さん!」怒鳴られて、びくりと県会議員の夫は肩を震わせた。「海里に勘当だの敷居跨がせねえだのなんだのって、もうつまんねごど言うでねえよ! シェリーちゃんごど連れて帰ってきてくれんだからな! 邪魔したらただでおかねど!」

 「も、もちろんだべ」気迫に押されて何度も頷く。「今回は特別だ」

 「『今回は』でねえ!」母はさらに喚いた。「いづまで海里のごど縁切るなんで言ってんで! あの子はなあ、天下一の音楽家だど! 東京人だけでねぐて、外国人にだってファンがいっぺえ付いてんだ! シェリーちゃんに生き甲斐もくれて、そのお陰でしゃべれねえのに楽しく生きれで、あんないいあんちゃんはいねえべ! いづまでも勘当なんざしでだらそれこそ鈴木家の名折れだべ!」

 再び夫は何度も頷いた。「わ、わがっだ。海里は大事な大事なうちの子だ。お前、……落ち着け。」

 「肌襦袢用意せねば」まだら呆けの気がある義母は、突如何を思い至ったか鋭い目つきで立ち上がる。「下の手術したってことなら下血もしてっぺ。あっぢの蔵さに千里産んだ時たっくさんこさえた襦袢さ山ほど積んであっから、取ってくべ。」

 「おっ母さん……」母親は涙目で義母の後ろ姿を見送る。「ほだ。おっ母さんの言うとおりだ。シーツももっと用意しとかねどいけね。」母親はそう言ってそそくさとリビングを出た。

 夫と義父は呆気にとられたまま、慌ただしく去る二人の後ろ姿を見守った。


 それからちょうど三時間後、はたして海里と朱里は帰宅を果たした。

 海里が抱き抱えてタクシーを降りると、

 「シェリーちゃん!」感極まった母親が駆け寄る。

 長時間の移動は辛かったのだろう。朱里は半目を開いて小さく頷いてみせた。

 「ほれ、おっ母どいてくれ。朱里運ぶの、二階の部屋でいいな?」

 「ああ、ベッドは作っておいたかんな」朱里の顔を覗き込みながら言う。

 「おっ父さん、家入るど」海里はその隣で黙していた父を横目にそう告げた。

 「何言ってんで! おめは大事なうちの四男だべ! 家入るのにいぢいぢ了承取る馬鹿いねえ!」母親がそう言うと、

 「ほだ。よぐ朱里ごど連れて帰ってくれだ。」父親は頭を下げた。

 海里は一瞬目を見開いたが、腕の中の朱里のことを案じていたので特に返答もなく、そのまま玄関を入り朱里の部屋へと上がった。

 「……ああ、ばあちゃん」

 部屋には既に祖母がいて、テーブルの上に白い布のようなものをたくさん積み上げていた。

 「海里、遠いところお疲れさんでしたな。どうもありがとう。ここからは女の仕事だべ。任せろ。大事だ。シェリーちゃんごどは、おらとおっ母でちゃあんと面倒看っからな。」

 その声に不思議と海里も朱里も安堵でいっぱいになる。

 「ありがとな、ばあちゃん。」

 朱里は丁寧にベッドに寝かされる。ありがとう、と海里に目で告げた。

 「もう大事だ。ばあちゃんにも母ちゃんにもしっかり甘えて、早く良くなれよ。」

 小さく頷く。

 「じゃあ、俺は帰るから。」

 「何言ってんで」そう言ったのは意外にも元衆議院議員の祖父であった。「わざわざ東京から帰って来て、ほっだにそそくさと帰るやつがあるか、泊まってげ。なあ、朱里。おめもあんちゃんにしばらくはいてほしいべ」

 朱里は目を瞑ったまま、吐息を漏らしながら頷く。

 海里は困ったような嬉しい様な顔で朱里の頭を優しく撫でた。

 「あんがとな、じいちゃん。じゃあ、ちっとお言葉に甘えべ」

 「今晩はおめの好きなミートソーススパゲッティさ作ってやんべよ」母親が泣き顔めいた微笑みを浮かべながら、荒々しく海里の頭を撫でた。「ほれ、下でゆっくりしろ」

 

 その夜、朱里は浅い眠りを何度も繰り返した。

 その夢はどの夢も執拗に朱里に恐怖と焦燥と、孤独感とを植え付けていった。

 「朱里はもういらない」ルアンが冷たい眼差しで告げる。「勝手に性転換の手術をしてライブができなくなるようなギタリストじゃあ、世界では戦えない」

 「あんちゃんにいてもらいたい」そう言って大河が海里に甘える。「俺たちに本当に必要なのはあんちゃんだ。朱里じゃない」

 苦しくて苦しくて大地に縋ろうとしても、「男でもない女でもない中途半端な奴に近くにいてほしくない」呆気なく拒絶されてしまう。「メタルバンドは力強い男でなければだめだ」

 汗だくになりながら朱里はカッと目を見開く。

 ここはどこだろう。今は何時だろう。

 暗い部屋。怖い。叫びたくなる。でもどうしたって声は出ない。体が震え出す。夢、の一言では片づけられないような恐怖がまだ体に染みついている。厭だ、一人になりたくない。

 でも体は疲弊しきっていて、再び夢の中に引きずり込まれる。引きずり込まれると、再び大地が、ルアンが、大河が、自分を不要な人間だと拒絶する。

 「曲を作ったのは私」そう言いたい。

 「海里とは違うけれどギターだってちゃんと弾ける」

 「体もすぐ治すから」

 ルアンは静かに首を横に振る。「自分勝手な朱里はいらない。バンドのことを優先できない朱里じゃバンドを大きくできない。」

 大河もそうだ、とばかりに頷く。「あんちゃんが入ったライブは最高だった。観客も今までで一番盛り上がってた。朱里じゃだめだ。」

 大地はもう自分を見ていない。「ちゃんとした女の子と付き合いたい。朱里は男でも女でもないから嫌いだ。傍にいてほしくない。」

 朱里の目から涙が溢れる。何も見えない。息ができない。

 自分の目の前に誰かの気配がした。

 「朱里、大事か?」その声は海里だった。

 涙が、顔が柔らかいタオルで拭われる。

 「怖い夢でも見たか?」暗がりの中で海里は優しく微笑んでいた。ベッドの下で布団を敷いて寝ていたものと思われる。

 「まだ夜中だ。寝な。」

 朱里は激しく首を横に振る。

 海里は苦笑を漏らした。「寝れねえのか。」

 朱里は手を差し出した。ーー手を繋いで。

 海里は仕方ないな、とでもいう風に手を取ると朱里の隣に体を横たえ、肩を抱いた。

 「じゃあ、よぐ眠れるようにお話をしてやるべ」

 朱里は目をぱちくりさせて海里を見る。

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