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ーーライブは終わっていた。
いつしか朱里は意識を喪っていた。
どうして自分は今こうしてベッドに横になっているのだろう。
ふと朱里はそんなことを考える。
海里のことが大好きだった。
初恋だった。
自分にギターと音楽とメタルを教えてくれた。世界を教えてくれたのは、間違いなく海里だ。
その後も陰日向なく支えてくれた、愛する兄。尊敬すべき兄。
そんな兄が動けぬ自分に「自分がサポートをやる」と言ってくれた時、どれ程自分は救われたと思っただろう。
しかし、それは海里にとっても苦肉の策であった。
大地は理解を示すかもしれないが、ルアンは絶対に受け入れないだろうという確信があった。最悪、糾弾には納まらず朱里をクビにする、あるいはその身勝手さに自らがバンドを辞めるとも言い出しかねない。ルアンは至極感情的だ。それがバンドマンとして良い所でもあれば急所でもある。しかし、だからこそ、最後の最後まで朱里は何とか体調を改善させようと苦心し、それが叶わぬ苦しさに悶えていた。
海里は、上京してそれなりの集客もついたIn Your Faceの内部のことには、あえて口出しをしようとは考えてはいなかった。その役割はもう彼らの下妻時代で終えたと思ってもいた。無論相談を持ち掛けられれば誰よりも親身になって解決策を思案し尽力しようとは思ってはいたが、今回は朱里があくまでも自身の問題として抱えきれぬ程の罪悪感を抱えている以上、こちらに今までのように素直に何かを申し出てくるとは限らない。
だから海里は、朱里に自らサポートを持ち掛けたのである。
バンドで生きていこうとする人間に対して、酷い甘やかしだとの自覚はあった。ただそれよりも、愛しい弟の窮地を救いたいという思いの方が強かった。大地とルアン、大河の前で朱里にサポートとして自分の出場を納得させた後、海里はこう朱里だけに語った。
「たしかにおめの曲に俺のギターは似合わねえかもしんねえ。でも、とりあえずバトルさ出ねえとルアンは満足しねえ。大地と大河は優しいやづだからそこまではっきり言わねえかもしんねけんど、でも腹の中じゃあ……。」言おうとして海里は口をつぐむ。それは言わなくても朱里自身が一番よくわかっていることだと思いなして。
朱里は布団の端を握り締めながら、小さく頷いた。
「……悪かったな。俺は近くでおめのごど見ているつもりで、なんも見えてながっだ。おめが女になりてえと思ってることさえ、知らねがっだ。」
朱里は苦しく瞼を閉じる。こんなことを言わせてしまっていることが、辛かった。
「もっと早くに気づいてやれば、もっとちゃんと支えられだはずだった。すまねがった」
朱里は首を横に振る。
「だいじだ。これからはちゃんどおめの一番近くで、支える。約束する。どんなことがあっても」
朱里の閉じた目からじんわりと涙が滲んだ。
いつからだろう。
自分が女の心を有していると実感したのは。
幼稚園生の頃、初めて大地と出会った時には、男だの女だのといった区分は一切考えていなかったような気がする。
それよりも大地に誘われて園庭でジャングルジムに登ったり砂沼に行ったりすることが、何よりも楽しかった。大地は親友だった。だからいつも一緒にいたかった。
小学校に上がり、母親に小児科だの小児神経科だの、はたまた児童精神科に言語聴覚士とのリハビリ等々全国あちこちの病院に連れ回されるようになると、ただただ大地と遊べないことが嫌だった。不満だった。
喋れないことで自由が奪われている、だから一刻も早く喋れるようになりたい。そう思ったものの、喉から言葉が出ることはなかった。一人言葉を発する練習をしてもみた。でもどうしたって言葉は出てこない。「だいち」と言ったらきっと大地は喜ぶに違いない。そんなことも考えてみたが、でも無理だった。喉の奥からは掠れた空気しか出てはこなかった。
だからある日、もう病院には行かないことを表明した。
玄関で満身に力を籠め、一歩だに動かなかったのである。それは成功した。母親は既にあちこちの病院で、育て方のせいだ、心の病だと散々追及され心身ともに疲弊していたのもあり、思ったよりも安易に朱里のボイコットを受け入れた。
朱里はそれから再び、今後は大地ばかりではなくルアンや大河とも遊び始めた。海里に教えられ釣りをし、ギターも弾いた。砂沼に浮かぶ小舟に乗ってカモを追いかけたり、時には砂沼庵で団子のご馳走にありつくこともあった。その時はむしろ女の子と人形遊びなんかをするより、彼等といた方が何倍も楽しかったし、女の子の恰好が好きなだけの男の子なのだという風に自身を認識してもいた。
しかし小学校も高学年に上がると、次第に体つきが変わってくる。その時に朱里は明白な違和感を覚えた。自分ではない体に無理やりに閉じ込められられてしまっているという恐怖感。閉塞感。焦燥感。寝ても覚めても、落ち着かない。その時朱里は自分の心と体とが一致していないからだという結論に至った。でもどうしようもない。田舎の小学生である。性別違和など言葉さえ知る由もない。
そんな時だった。生まれて初めて兄のライブに行ったのは。
はっきり、目が覚める思いがした。自分のこの窮屈で誤った体のことを忘れられるようになった。そんなことを吹き飛ばすくらいの歓喜が、興奮が、覚醒が、そこには、あった。
ギターに没頭し、それから作曲に打ち込むと次第に体に対する違和感は薄れていった。ライブハウスでの活動、音源作成、それよりももっと大切なことがいくらでも目の前には広がっていた。
そんな時だった。いつも一緒にいる大地に対する感情が、異性に対するそれではないのかと気づかされたのは。
我ながら軽薄だとは思うが、発熱して床に伏していた時、見舞にやってきた大地に無理やりキスをされたのが、そう気づかされたきっかけであったかもしれない。あとは、海里に恋人がいたと思い込み、ひどく落ち込んでいたという事情もあっただろう。何はともあれ、大地に抱く感情が特別なものであると感じたのはそんな頃合いだった。花火に誘って、帰途にキスされた時は本当に嬉しかった。天にも昇る気持ちだった。
でもその時からまた、例の身体に対する違和感がむくむくと頭を擡げてきたのである。
こんな身体では恋人にはなれない。友達にしかなれない。そしていつしか大地には女性の心と体を持った恋人が現れ、海里のように取られてしまう。そう思うと恐怖心で身が震えた。堪えられなかった。大地は明るくて誰とでも喋れて、人気があって好かれていたから。
それで初めて、性別違和を専門とする病院を探すことを最大の目的とし、上京を決めたのである。
そこで検査をし、自分の遺伝子が男でも女でもない、クラインフェルター症候群と診断された時には、男ではなかったという嬉しさと、男でも女でもなかったことによる不安との入り混じった、妙な困惑と焦燥感に襲われた。
でも医師から男性器切除の手術と、その後の女性ホルモンの投与を提言された時には、これで大地の恋人になれるという希望と期待でいっぱいであった。
たしかに術後は安静が必要で、しかも注射後には体調を崩す例も多々あると聞かされていたのだが、そんなことが一掃されてしまうほどに自分は浮かれていた。浮かれ、切っていた。
ライブ、しかも最も華々しく海外へ打って出るチャンスたる、ヴァッケンへの選考会も間近だというのに。結果、体調は術後想定以上に悪いままだった。これは神様からの罰、そうも思った。思わざるを得なかった。バンドの将来よりも自分を優先させた罰。音楽よりも恋情を優先させた、罰。今まで作曲も音作りも、散々偉そうにやってきたのに、これで信頼は全て崩れ去った。バンドを続けていけなくなる。
そして海里がサポートとしてライブを行ったことで、さらに色濃く、自分がバンドから遠ざかる運命が迫ってくるのを朱里は否応なしに感じ取っていた。




