13
退院の日、朱里は海里に抱き抱えられながら、タクシーに乗って実に三週間ぶりに自宅へと向かった。
立てない。歩けない。でも顔は晴れやかだった。
女としての体で病院から出られることを、どれほど夢見ていただろう。それは体が思うように動かなくても、痛みがあっても、関係のないことだった。
ただただ朱里は嬉しかった。夏の太陽が眩く、青空が高く、樹々が美しかった。涙が出た。本当の自分になれたのだ、と天にも昇る気持ちであった。
マンションに到着する。エレベーターを上がり、懐かしい部屋へと入り、海里の手によってベッドに横たえられると、朱里は移動の疲労からすぐに眠りに落ちた。
その後だった。大地とルアン、大河が海里のマンションにやって来たのは。
チャイムが鳴り、朱里は目覚めた。二度、三度とチャイムは続けて鳴った。海里はどこかに買い物にでも行ったようである。朱里はスマホを手に取り、スマートロックで開錠する。
しばらくすると家のドアが開いて、大地の声がした。
「しゅりー? どこさいんだー?」
リビングを探してから、寝室の扉が開けられる。
大地はベッドに横たわる朱里を見て、息を呑んだ。「どうした?」
ただの風邪、ではないことは一目瞭然だった。顔色がひどく青白い。それに、頬の肉がげっそりと削げ落ちてしまっている。
後ろからルアンと大河も慌てて顔を出した。
二人も大地同様、朱里を見て一瞬硬直した。
「どしたんだ? おめ……」ルアンはそう言って言葉を喪う。
朱里は覚悟を決め、恐る恐るスマホを手に取った。
ーー旅行は嘘でした。ごめんなさい。
三人は目くばせしながら、頷く。当然だ。こんな状態で旅行など行っている、はずがない。行ける、はずがない。
ーー本当は手術をした
「手術?」大地は頓狂な声を上げ、慌てて朱里の枕元に座り込む。「おめ、何の病気だったんだよ!」
朱里は緩く首を横に振った。
ーー性転換手術
三人は息を呑んだ。
「性、転換?」
朱里はその言葉に涙をにじませる。
ーー女の子になりたかった
知ってはいた。こうも毎日女の子のファッションをして化粧をしているのだから、知らないわけがない。もっと言えば幼稚園の頃からずっとスカートばかり穿いて、髪にはリボンなぞ付けていたのだから、女の子になりたいという願望を知らなかった、という方が無理がある。ただ、まさか体を変えたがっている、などということまではついぞ気づかなかった。ましてや、それで手術を受けることなど。
ーー本当はもう良くなってるはずだった
ーー旅行って言って元気な姿で女の子になったって言うつもりだった
でも、実際にはベッドから起き上がれそうもないのである。顔もひどく青白いのである。見たことがないぐらいに、痩せているのである。その姿を目の前にして、しかし三人は何も言えなかった。
ルアンは無言で部屋を出る。次いで、名残惜し気に大河も出た。
「どうして、……言ってくれなかった?」大地は悲痛な声で言った。「俺のごど、信用できなかったが?」
朱里は違う違うと激しく首を横に振る。
ーー反対されたくなかった
ーー大地、優しいから
ーー手術しなくていいっていう ぜったい
大地は否定できない。
ーーでもそれじゃ
ーー抱いてもらえない
大地はその場で顔を覆った。そうしてくぐもった声で言った。「俺は朱里が女でも男でも……ほっだごどどうだっていい。ほっだらごど……」
そこまで言って大地はごくり、と生唾を飲み込んだ。
「一番大切な人であることに、変わりはねえんだから」
朱里の眦に涙の筋が伝った。
大地も大河もルアンも、朱里の置かれている現状を否応なしに理解した。それはすなわち、メタルバトル・ジャパンへの出場が危うくなっていることと、同義であった。
三人はほとんど無言で部屋を出ると、そのままエントランスに降りた。そこで先頭を歩いていたルアンがふと立ち止まった。
「どうすんだよ、俺ら」誰へともなく呟いた。困惑の中に、明らかな怒りが滲んでいた。「ヴァッケン、どうすんだよ」
ルアンは振り返る。
「何でこのタイミングで手術なんかすんで? しかも女になる手術なんてよお! 朱里のやづ、バンドのことどう思ってんだ?」一度言葉にし始めたら止まらなくなる。「今までさんざ偉そうにああだこうだ曲の講釈垂れて、全部全部従ってたのにこのザマかよ! 俺ら、朱里に騙されてたんでねえのが?」
「ほっだらごど……」大河が耐え切れずに言う。「違う。朱里はずっとバンドを一番真剣にやってた。曲だってアレンジだって。朱里のお蔭で、俺らここまで来れたんでねえか。」
「そうかもしんねえ。前まではな。でも今、あいづが女になりてえってことを、バンドより優先さしたのは事実でねえか!」次第に声も大きくなる。
新曲を完成させるにあたって、常に朱里は一切妥協を許さなかった。
ーーそこのブラスト、雑音下げないで粒揃えて。
「はあ? 32分だど? どうやって叩けつうんだ?」
ーーそこツーバス左右差が出てる。揃えて。
「出てねえよ」
ーー出てる。
「はあ? 俺はロボットでねえんだど? 人間! に・ん・げ・ん!」
ーーそこのタム回し、音2倍にする。
「誰が?」
ーールアンが
「思いつきで言うんでねえよ!」
ーー思いつきじゃない
曲を完成させるにあたって、言い合いをしたことは数えきれない。
でも全部全部従ってきた。そのために血のにじむような努力もしてきた。なぜなら朱里の言うことは正しかったから。音楽に正誤もない、などというのはまやかしだ。朱里の言う通りに叩けるようになった時、明らかに曲の質が変わった。客の盛り上がりが変わった。朱里の理想こそが完璧だった。ルアンはそう確信する。
そればかりではない。朱里は自分でも想像を絶する努力をしていた。ギターの練習だってそう。決して自分のパートばかりが楽な作曲をしているわけではない。新曲を完成させるには四人全員隈なく、地獄のような練習が必須だった。
さらに朱里は体が弱い。しょっちゅう熱を出す。それでもライブに穴を空けたことは一度もない。いつぞやなんぞ最後の音と同時にステージでぶっ倒れたこともあったし、翌日入院、などということもあった。でも決してバンドを辞めるだとか、休むだとかは言ったことは一度も、ない。
だからルアンは朱里を信頼していた。誰よりも深く。男だの女だのではない。一人のメンバーとして、人間として、類稀なる才能を有するコンポーザーとして、尊敬していた。
だからこそ、裏切られたとしか思えなかった。許せなかった。
「……なんで今、女になる手術なんてやんだよ。俺ら、ヴァッケンがかかってんだど? ほっだらごと今でなくたっていいべよ!」
同じ言葉を繰り返すルアンに、大地は憤りを隠せない。
「しゃあねえべよ! あいづにとっては大事なことなんだべ! おめにはわがんねえべよ!」
真っ向から反論され、ルアンの形相が一変する。
「そうが。……おめが『やる』ために朱里に女になれっつったんだっぺ」唇の端がいやらしく歪んだ。
「朱里でねえ、おめが、バンドよりヴァッケンより、女とやることで頭いっぱいだったんだっぺ」
大地の拳がルアンの頬にめり込んだ。大きく体勢を崩したルアンが、しかしすぐに大地の頬を全く同じように殴り返す。お互い赤く染まった頬で一瞬睨み合ったかと思うと、再び大地もルアンも殴り合いを始めた。
エントランスで悲鳴が上がる。
「……、や、やめ! やめろ、おめえら!」大河が慌てて二人を離そうと試みるが、すぐにルアンに蹴り飛ばされる。壁にいたく頭をぶつけ、地に伏したまま大河は涙目で再び「やめろよ!」と叫んだ。
大地はルアンの髪を引っ掴み、蹴り上げる。しかしルアンも即座に廻し蹴りを試み、大地を吹っ飛ばす。
その時だった。
「何やってんだ!」大河はその声の主を、ほとんど神かなにかのように感謝の思い出見つめた。ーー海里だった。
海里は入口から一目散に駆けて来たかと思うと、一気に大地とルアンを両腕に抱え込み二人の動きを完璧なまでに封じた。海里の脇にきつく抱え込まれたまま、それでもお互いをぶん殴ろうと試みる二人にそれぞれ頭突きを見舞し、「人んちで何暴れてやがんだ! 人様に迷惑かけるでねえ!」怒声が響き渡った。
そしてついに二人は収束した。大河は「ああ」と声を上げて泣いた。
「おめも泣いてねで、とりあえず家さ入れ」
海里に言われ、大河は力なく立ち上がった。
そうして四人は再び朱里のいる部屋へと戻った。




