11
翌朝ーー、朱里は明るい日差しにゆるゆると瞼を開く。前夜に睡眠薬を処方されたこともあるだろうが、昨今ないほどに熟睡することができていたことに朱里は気づいた。
今日はいよいよ手術の日である。心はすっかり落ち着いていた。ちょうどこの青空のように……。朱里はうっとりと目を細めて窓の外を眺める。
そこに看護師が迎えにやってくる。
朱里は誘われ、手術室へつながる廊下を歩く。帰り道は、自分は女になっている。そう思うと嬉しいよりも不思議だった。自分が自分でなくなる。そしてそれを誰も知らない。知るのは、全てが終わってから。
手術室にたどり着く。そこにはたくさんの医療従事者が忙しなく準備に応じていた。
朱里の目の前に書類が出される。
曰く、「同意書」。
朱里は目を滑らせて最後にサインをする。男として書く最後のサイン。
手術着に着替える。
髪を帽子に入れ、前の開いた淡いグリーンの手術着に着替える。小さなベッドに誘われる。周りには何人もの医師、看護師。
促され横たわる。
朱里は落ち着いた表情で天井を見上げていた。頭上から医師がのぞき込む。
「鈴木朱里さん、あなたがこれから受ける手術は、睾丸摘出、陰茎反転法による膣形成術です。不可逆的な手術です。もう元には戻せません、何があっても。いいですか?」
朱里は頷く。
「今から麻酔を入れますね」別の医師が現れる。「眠くなりますよ」
朱里は自ら目を閉じ、深呼吸をした。
幼い頃母と一緒に買い物に行き、花柄のワンピースを着て試着室から出た時、「わあ、可愛いごど、よく似合ってるべ」と褒めてくれた。
祖父が中学校に行き、直談判して入手してきたセーラー服……。それを着て部屋の姿見の前に立った時、家族みんなが見に来た。口々に「似合う似合う」と喜んでくれた。
夏祭りの日、迎えに来た大地が浴衣を着た自分を見て目を丸くし、「別嬪だべ」と褒めてくれた。
そう、私はずっとずっと女の子になりたかった。他の誰よりも女の子に憧れていた。
でも、これで本当の女の子になれるんだ。憧れではなくなるのだ。朱里の眦から一筋涙が伝った。
目覚めると、まず朱里が感じたのは重さと寒さだった。目蓋はまだ開かない。ただ、遠くから声が聞こえる。「……朱里さん。朱里さん」
ゆるゆると瞼を開けるとそこには担当の看護師が優しく微笑んでいた。
「終わりましたよ」
朱里は頷こうとしたが、動けない。喉の奥がなぜか痛い。
「気分はどうですか?」
朱里は瞬きをする。
「何か、してほしいことはあれば、指さしてもらえますか?」
目の前にコミュニケーションボードが差し出された。朱里は腕を動かそうと力を込める。なかなか動かない。さらに力を込める。少し、動いた。しかしそこには点滴の管が入れられている。朱里は満身の力を込めて、「喉乾いた」のイラストを奮える指でなぞった。
「お水用意しますね」
看護師はテーブルから吸い飲みを持っていくと、すぐに戻って来た。朱里の唇に水を差し入れる。
喉に冷たい水が沁み込んでいく。ほんのりと、甘い。
朱里はありがとう、の思いを込めて瞬きをした。
看護師は静かに微笑む。
「手元にナースコールを置いておきます。何かあったらいつでも呼んでくださいね。痛みが出たら我慢しないで、押してください。先生からその時に服用するお薬の指示も出ていますから。」
朱里の手に固い手のひらサイズのボタンが握らされた。
その時腿に手が触れたはずだのに、感覚がないことに気づく。脚も、腰も、何も感じない。
朱里は多少驚いた顔をしたのかもしれなかった。
「まだ麻酔が効いていますから、傷口の痛みはないと思います。でもおそらく数時間後に切れてくるので、その時はすぐにこちらを押してくださいね。痛み止めを点滴に入れますから。」
朱里は恐々と看護師の顔を見上げた。
「よく、頑張りましたね。時間は少しかかりましたけど、手術は何の問題もなく終わりましたよ。あとは回復を待つばかりです。」
朱里の視界が揺れた。
――手術は、何の問題もなく、終わった。
反芻する。
一気に胸が高鳴る。
もう今の自分は女になったのだ。突き上げる歓喜が苦しい程だった。後は回復を待つばかり。そうすれば正真正銘の女の子として生きていける。大地にも愛してもらえる。嬉しくて、嬉しくて、喉の奥がごつごつと痛んだ。今なら声を上げて泣けるかもしれない。深い吐息が出た。
自分は生きている。女として、生きている。
朱里の視界が滲んだ。それを見て看護師が柔和な笑みを浮かべ、「本当に、よく、頑張りましたね」そう言って朱里を勇気づけるように大きく一つ頷いた。
誰も何も知らぬまま、二週間の月日は経った。
海里は今日はようやく朱里が帰ってくる日だと、少々浮足立ちながら近所のスーパーに朱里の好物である梨とイチゴ、それからチェリーパイを買い込んで昼前に家に戻って来た。
何時に帰ってくるのかはわからないが、とりあえず夜までには帰ってくるだろう。夕飯は朱里の好物で揃えてやろう。多少顔色も良くなって肉もついているとよいが、そんなことを考えながら海里は夕飯の仕込みをしつつ、バンドの新曲作りを行ったりギターを弾いたり、といつも通りに過ごしていた。しかしいつまで経っても朱里は帰ってこない。
そのまま夜になった。朱里は帰って来ない。連絡もない。
海里は少々恥ずかしさを覚えながらも、「今日何時に帰ってくる?」とメッセージを送った。
しかし返信はない。
「今どこ?」「迎えに行こうか?」十分おきに、何度かメッセージを送りつける。
返信はない。
海里は次第に胸中に暗雲が広がっていくのを感じる。もう夕飯の時刻はとうに過ぎている。旅行先が気に入ってしまって、日にちを延長しているのだろうか? 旅先が楽しくてうっかり余計に足を延ばしてしまっているのだろうか?
そこまで考えてはたと気づいた。朱里は旅行の話をする時、全く楽しそうな表情をしてはいなかったことに。
昔母親と旅行に行く、となった時にはわざわざワンピースを新調したり、お土産何が欲しい? などとわざわざ聞いてきたり、天気を調べたり、無表情なりにも朱里なりに楽しそうにしていたではないか。まさか、思い詰めてーー? 鼓動が否応なしに高鳴った。
そうだ、と思いついて海里は母親に電話を入れた。
ーー母ちゃん? 朱里さ、今どこに旅行行ってっんのが聞いてる?
ーーなんでえ、旅行さ行ってんのが、知らながっだわー。
電話の向こうでのんきな声が響く。
ーー私もシェリーちゃんと一緒に行きでがったわー。前二人で一緒にハワイさ行った時、楽しかったものー。
もし帰宅予定日なのに帰って来ない、などと言えば下妻の地で母親は慌てふためき大騒ぎをするに相違ない。海里はごくり、と生唾を飲み込んで今度みんなで一緒に行くべ、などとお茶を濁して電話を切った。
大丈夫だ。朱里には大切なバンドがあるのだ、まさか、死にはするまい。でも、事故に巻き込まれたのではないか? それともどこぞで倒れているのでは?
そんなことをとめどなく考えている内に日付が変わった。
海里はいてもたってもいられずに、朱里の部屋に入る。何でもいい、旅行先に関する手掛かりはないか。
ドレッサーの引き出しを開けていく。細々とした化粧品が並んでいる。その中に何かを包み込んだハンカチが入っていた。何だろう? 取り出してみると、竹串がぽろり、と落ちた。なんでこんなゴミが? 海里は訝る。でも整理整頓は得意な朱里なので、ゴミを紛らせているわけではないだろう。そう思い、とりあえず元に戻すと、次にいつも使っているパソコンデスクの引き出しを片っ端から開けていった。
自分で作った曲のスコア、メタル雑誌、お気に入りのファッションブランドのセールの招待状、その中に一冊のファイルが目についた。
開くとそこにきちんと一枚一枚整理されて綴じられていたのは、病院の明細書であった。
こんなに病院に通っていただろうか? と海里は不思議に思い、書類を凝視する。
ーー項目・遺伝子検査
検査? 日付は四カ月前。ちょうど上京して来てすぐの頃であった。病院名はーー××ジェンダークリニック。
ジェンダー? 性別?
海里は呆然としながら、はっとなってさらに明細を捲っていった。
ーーカウンセリング
ーー手術前検査
ーーMTR検査
そして最後に出てきたのが、手術に当たっての注事項。承諾書には手術予定日が記されている。それは、ちょうど二週間前だった。手術内容は睾丸切除、膣形成術。
海里は一気に脱力してその場にしゃがみ込んだ。
頭が真っ白になる。何も、考えられなくなる。全てが遠く、遠く、小さくなる。
一つも、知らなかった。一緒に住んでいながら、こんなにも多くの病院に通い、そしてーー、さすがにもう解せざるを得ない。朱里が、性別適合手術を受けに行ったことなど。
どうして? なぜ? 何も言わずに? 相談もせずに?
無事なのだろうか? 手術を受け、その後朱里はどうしている?
海里は異様なほどの胸の痛みを感じた。
その時スマホが鳴った。朱里からのメッセージだった。息苦しくも画面を見ると、
ーーかえるのもうすこしさきになる
そうあった。
海里は即座に電話を鳴らした。もちろん朱里は返答できない。でもそんなことはどうでもよかった。祈るように鳴らし続ける。電話はやや間があって、取られた。無音ではあったが、この向こうに朱里がいると思うと、海里は安堵のあまり涙ぐんだ。
「朱里?」そう問う海里の声は震えていた。「朱里? 聞こえるか?」
朱里がいる。海里は感じた。
「……お前、旅行なんかじゃなかったんだな」
朱里の呼吸音が聞こえたような気がした。
「お前、大丈夫か? 体、……手術したんだな? 大丈夫か? 生きて、るんだな?」
もちろん返答はなかった。ただただ無音のまま電話だけがつながっていた。
朱里はスマホをこつ、こつ、と小さくおそらくは爪先で叩いた。
そうだった。これは昔二人で決めたイエスの合図。海里の目から遂に涙が零れ落ちた。
「迎えに行く。迎えに行くから。いいな?」
再び、こつ、こつと小さな音が鳴った。




