10
――8月頭に旅行に行きたいの
バンド練習の後に、朱里がスマホを見せてそう神妙そうに告白してきた時、大地も大河もルアンも、別に違和感はなかった。
「じゃあ、練習は休みにすべ」大地はあっけらかんと答える。「ちいと早い盆休みだべ」
「もうだいぶ曲も仕上がってきてるしな、ちいとゆっくりするのもおめにはだいじだっぺ」ルアンもそう言って笑った。「精根尽きすぎると、本番までもたねえかんな。何せヴァッケン行くんだからよお!」
朱里はほっと安堵で胸を撫で下ろす。
「梨手伝わねえどな! な、大河」
大河は苦笑する。夏場は実家の梨畑の収穫期である。一年の中でも一番の繁忙期と言っても過言ではない。
「俺も手伝うど」ルアンが続ける。「ぶっかいた(注:傷のついた)梨、またたんまり食わせてくれよな!」
「おお、マジか! また来てくれんのが! 父ちゃん喜ぶべ! 去年もルアンいでうぢは大助かりだったかんなあ」大地はそう言って笑った。
三人の笑顔を見ながら、朱里は安堵の奥に微量の寂寥を覚える。
「じゃあ、次の練習は盆明けからでいいが?」
大地が問い、三人は頷く。
「ほしたらいよいよメタルバトル・ジャパンだな。楽しみだべ」ルアンはそう言って前のめりになる。
「秋はヴァッケンだべ」大地が噛み占めるように言った。
「パスポート取っとがねど、行けねど?」と大河は笑みを称えながら言った。「朱里はもう持ってんだよな? 前に母ちゃんとハワイさ行ってだもんな」
朱里は小さく頷く。
「ハワイかー、ヴァッケン終わったらハワイでライブもいいんでねえのが? 早くあっちこっぢ行けるようになりてえな」ルアンがうっとりしながら言う。
「おめはベトナムだべ? ベトナムでライブやっで、母ちゃんごどライブ呼んでやったらいがべよ」と大地。
「ほらいいな!」ルアンはますます満面の笑みを浮かべて頷く。
その隣で朱里は俯いた。
これで何の問題もなく手術を受けられる、そう思うと緊張感とも焦燥感ともつかない、妙な、いよいよという感じが胸に迫ってくるのであった。
誰にも言えない、人生の決断。命をかけた、戦い。
朱里は震える右手を左手でそっと抑えつけた。
八月はあっという間にやってきた。
朱里は二週間分の下着やパジャマ、それから退院をする日に着ようと決めたお気に入りの水色のワンピースを、丁寧にスーツケースに詰め込んでいく。手術の準備は随分前から始めていた。手術が決まったその日から。
一緒に住んでいる海里に知られないように、スーツケースはクローゼットにしまい込み、開くのは必ず海里が不在の時とした。
初めて生理用品を買った。
――しばらくは下血をするので、パンツタイプのものがよいですよ。十個くらい持ってきてください。
そう看護師から事前説明を受け、朱里は初めてドラッグストアに行き、緊張でいっぱいになりながら生理用品を手に取った。レジに持っていく手が震える。男がこんなものを買って、おかしいんじゃあないか、そんな目で見られたらどうしようと恐怖に慄きながら……。
しかしレジの女性は慣れた手つきで生理用品を紙袋に包み、ありがとうございましたと、何でもない顔つきで言って手渡した。朱里はほっとする。と同時に、そうか、ちゃんと周りからわからないように紙袋に包んでくれるのか、と女性ならではの新たな発見を得た。
それから吸い飲み。おそらく数日は起き上がれないでしょうから、あると便利ですよ。看護師は言った。そうか、起きられなくなるのか、朱里の中で次第に覚悟が決まっていく。
緊急連絡先――。書類に記された欄にはそうあった。ペンを持つ手が震える。
「こちらは、万が一手術中に容体が急変した時のための、連絡先となります。ご家族のどなたかの連絡先をお願いします」
どうしても必要ですか? 朱里はメモに書いて見せた。
看護師は頷く。
「絶対に安全な手術はありません。これはどんな手術でも同様です。医師からリスクについての説明は受けられましたよね?」
朱里は俯いた。そしてーー逡巡の末、海里の名を書いた。続柄、兄。
海里ならきっとわかってくれる。でも連絡するような事態は、絶対に避けなければならない。
そうして、いよいよ出立の日。
楽しんでこいよ、ゆっくり体も休めて、そんなことを言ってくる海里の目を見ることはさすがにできなかった。
朱里は目をそらしたまま、うん、と頷いて家を出た。
病院は都内の外れにある、緑の多い総合病院だった。樹々は青く、空気も澄んでいてどこか下妻の風景を思わせる。朱里は家で何も知らずに暮らしているであろう、下妻の父母の姿を思った。そしてその近くの梨畑で大騒ぎしながら奮闘しているはずの、大地とルアンと大河の姿を想起した。
――必ずここから元気な姿で出てくるから。女の朱里として、出てくるから。
スーツケースを握る手がじんわりと汗ばんだ。
貯金の全額をはたいて決めた個室からは、どこまでも広がる青空が見えた。眼下には並木道。部屋も広く、落ち着いた調度品はどこぞのホテルを思わせた。
手術の内容に加え、喋れないことでこれ以上奇異な目で見られたくない、その思いで決めた個室であったが、朱里は単純に自分の選択は間違ってなかった、と思えた。
でも、ーーいやに静かである。
海里がいない。大地が、ルアンが、大河がいない。それがこんな静寂を齎してくるとは思わなかった。
自分の周りにはいつも家族が、仲間がいてくれたのだという事実が今更ながら朱里の胸を温かくする。
でもその人たちに、自分は嘘をついた。だから、誰も何も知らない。
本当だったら、自分の無事をどこかで祈ってもらいたかった。頑張れ、と言ってもらいたかった。力強く、手を握ってもほしかった。でもそれは到底無理なことだった。
自分が受ける手術は性転換手術なのであって、それは誰の理解も得られない。得られる、わけがない。医師は言った。死亡のリスクもある、と。そんな手術を応援してくれるわけがない。
自分だって怖いのだ。今にも逃げ出してしまいそうな思いを、必死に押し留めているのだ。本当にいいのか、という念が押しとどめても押しとどめても頭を擡げて来るのだ。逃げ出せれば、何もなかったことになる。リスクはなくなる。わかっている。でもそれもできない。できる、わけがない。
男として、男の体で生きることはもうとっくに限界だった。耐え難い、まさに生き地獄だった。女になれないのなら、生涯自分は幸せになれない。どうして産まれてしまったのか、そんな思いを抱きながら死んでいくに決まっている。だから女になる以外に自分の人生を肯定する術はない。これが自分にとってのたった一つの、誤ることのない事実だった。
朱里は病室のソファの上で膝を抱え込んで、ぼうっと青すぎる空を眺める。
――どうして自分は男の体で生まれただろう。何を、間違えてしまったんだろう。手術をしなければ幸福を得られない、そんな体で生まれてしまった理由は一体何なのだろう。神様は一体何を試しているのだろう。
風景が滲みだす。
もし自分が女の子として生まれたらーー、ふと朱里は考える。
海里の後を付いて回って遊んだだろうか? 海里は自分にギターを教えただろうか? 女の子なんだから……、そんなことを言って拒否したかもしれない。何せ田舎の代々続くこの上なく保守的な家柄なのだから。
それよりもーー、普通の女の子として、何の抵抗もなく女の子服を着られて、何の障害もない恋をしていたら、自分に曲は書けただろうか? 否、それ以前にーー朱里ははっとなる。
大地たちとバンドができただろうか? しかもメタルバンドを? それ以前に、大地や大河やルアンが自分の家の離れに入り浸ることはあっただろうか? 彼らと友達に、なれたのだろうか? 朱里の視界がはっきりし始める。
――自分が男の体で生まれたことで、自分は音楽を産み出す環境と、その才を得たのではないか。
そう思い至ると、否応なしに鼓動が高鳴った。
ーー男で生まれたことには意味があった。自分が音楽を作るために。音楽で生きていくために。だから自分はここで死ねない。世界に、自分の音を届ける使命があるのだから。




