5.ローディス家
アルヴェイン家から帰宅したオリヴィアは、自室で着替えを済ませると、鏡の前で髪を整えた。
少し乱れていた髪を直し、ドレスの皺を伸ばす。
そしてもう一度、鏡を見る。
……大丈夫。
髪も服装も、おかしなところはないはずだ。
「オリヴィアお嬢様、お夕食の準備が整いました」
扉の向こうから侍女の声がした。
「ええ、今行くわ」
オリヴィアは鏡の中の自分に小さく頷いてから、部屋を出た。廊下を歩きながら、今日の出来事を思い返していた。
エリーは相変わらず元気だったな…魔道具の話になると、目を輝かせて次から次へと言葉が飛び出してくるのも相変わらずで可愛かったし、ルーカス様の作った魔道具のお話もとても興味深かった。
結局、最後には二人で試させてもらったのだけれど、エリーが張り切って魔力を流しすぎたせいで、魔石が一瞬だけ眩しく光った。そしてそれに驚いたエリーが飛び上がり、それを見たルーカス様が笑い出してしまったのは面白かった。セシリア様まで、あらあら、と楽しそうに笑っていた。
思い出すと、自然に口元が緩んだ。
「……ふふ」
小さく笑ってから、オリヴィアは慌てて口を閉じた。
もうすぐ食堂だ、気持ちを切り替えなくては。
食堂の扉の前で一度立ち止まり、そっと息を整える。
それから、静かに扉を開けた。
「失礼いたします」
室内には、すでに父と母、そして兄が揃っていた。
「遅いぞ、オリヴィア」
父、ヴィクトル・ローディスが不機嫌そうに言った。
「申し訳ありません、お父様」
オリヴィアはすぐに頭を下げた。
「まったく。家族を待たせるとは何事だ」
「申し訳ありません」
壁際の時計は、まだ夕食の時間を指していなかった。
けれど、それを口にすることはなかった。
「早く座りなさい」
母のベアトリスに促され、オリヴィアは自分の席についた。侍女たちが料理を運んでくる。今夜は肉料理だった。
「それで?」
食事が始まって間もなく、ベアトリスが口を開いた。
「今日はアルヴェイン家にお邪魔していたのでしょう?」
「はい、お母様」
「失礼なことはしなかったでしょうね?」
「はい。皆様、とてもよくしてくださいました」
「そう。あなたは気が利かないところがあるから、心配だったのよ」
「申し訳ありません」
ベアトリスは小さくため息をついた。
「何でも謝ればいいというものではないでしょう?」
「…はい」
オリヴィアは黙ってナイフを動かした。
肉を小さく切り分け口に運ぶ。今日の肉は、少し硬い。
「それで、何をして過ごしたの?」
「お茶をご一緒して、それからルーカス様が作られた魔道具を見せていただきました」
「魔道具?」
兄のダミアンが顔を上げた。
「アルヴェイン家の嫡男が作ったのか?」
「はい。魔力を安定させるための補助具だそうです」
「ふうん」
ダミアンは興味を失ったように、グラスに手を伸ばした。
「それから……」
オリヴィアは少し迷った。
今日の出来事をどこまで話せばいいのだろう。
聞かれたことには答えなければならない。
けれど、余計なことを話す必要もない。
「エリシア様が、学園での魔法実技についてお話しされて……」
「魔法実技?」
ベアトリスが眉を上げた。
「あなた、まさか自分から成績を自慢したのではないでしょうね?」
「いいえ。エリシア様が、私の魔力制御についてお話しくださったのです」
「それで?」
「ルーカス様とセシリア様にも、お褒めいただきました」
「まあ」
ベアトリスは呆れたように言った。
「あなた、まさかそれを真に受けたの?」
「……いいえ」
「社交辞令というものがあるでしょう。アルヴェイン家の方々はお優しいから、あなたにも気を遣ってくださったのよ」
「はい」
「ちゃんと謙遜したでしょうね?」
「はい。大したことではないとお伝えしました」
「それならいいけれど」
ベアトリスは満足したように頷いた。
「まったく、あちらのご厚意に甘えて、調子に乗るようなことだけはやめてちょうだい」
「はい、お母様」
「女が魔法なんか得意になったところで、何になるんだよ」
ダミアンが面白くなさそうに言った。
「どうせ将来は嫁に行くんだろう?そんなものに夢中になって全く、馬鹿みたいだな」
「ふん」
ヴィクトルが鼻で笑って見下すような目を向けてきた。
「まったくだ。少しばかり魔法が使えるからといって、勘違いされても困る」
「……はい」
「そもそも、お前は昔から可愛げがない。女なら女らしく、もっと愛想よくしていればいいものを」
「申し訳ありません」
「ほら、またそれだ」
ヴィクトルは顔をしかめた。
「何を言っても申し訳ありません、申し訳ありませんと。少しはまともな返事ができないのか」
「……はい」
「まったく」
父はそれ以上何も言わず、食事に戻った。
オリヴィアも静かにフォークを動かした。
こういうときは、何も言わない方がいいのは学んできた。言い返せば口答えになって余計酷いことになる。
かと言って黙っていれば、愛想が悪いと言われる。
だから、できるだけ短く返事をして、相手の話が終わるのを待つ。それはいつものことだった。
「そういえば、ダミアン」
ベアトリスが息子に向き直った。
「この間お話ししていたお友達とのお出かけはどうだったの?」
「ああ、楽しかったよ」
ダミアンは機嫌よく答えた。
「今度また誘われているんだ。少し金が必要になるけど」
「まあ、そうなの?いくらくらい?」
「まだわからないけど、前と同じくらいかな」
「それなら、お父様に相談なさい」
「そうするよ」
母はにこやかに微笑んで言った。
先ほどまでとは、まるで違う声色だった。
オリヴィアは黙って食事を続けた。
ダミアンの交友関係について、詳しく聞いたことはない。ただ、時折、父が兄を叱りつけている声が聞こえることはあった。金の使い方がどうとか、借りたものは返せとか。けれど、しばらくすると何事もなかったように元に戻っている。どうせ今日もそうなのだろう。
「オリヴィア」
突然、母に名前を呼ばれた。
「はい」
「あなた、さっきから何をぼんやりしているの?」
「……申し訳ありません」
「またそれね」
ベアトリスは嫌そうに眉を寄せた。
「せっかく家族で食事をしているのに、そんな顔をされると気分が悪いわ」
「はい」
「もう少し楽しそうにできないの?」
「……はい」
オリヴィアは口元を少し持ち上げた。
すると、母はますます不機嫌そうな顔をした。
「何、その顔。馬鹿にしているの?」
「いいえ、そのようなことは……」
「だったら普通にしていなさい」
「……はい」
オリヴィアは表情を戻した。
普通…普通とは、どんな顔だっただろう。
考えてもよくわからなかったので、目の前の料理に視線を落とし、そのあとはなるべく顔を上げずに食事を続けた。
———
夕食を終えたオリヴィアは、自室へ戻ろうとしていた。
廊下の角を曲がったところで、向こうからダミアンが歩いてくるのが見えた。
「……お兄様」
オリヴィアは足を止め、道を譲った。
「ああ」
ダミアンは軽く返事をすると、そのまま通り過ぎようとしたが、思い出したように立ち止まった。
「そういや、お前」
「はい」
「アルヴェイン家には、よく行くんだよな?」
「……はい」
「伯爵家だもんな。ずいぶんいい暮らしをしてるんだろうな」
「皆様、とてもよくしてくださいます」
「へえ」
ダミアンは薄く笑った。
「いいご身分だな。お前は」
「……」
「せいぜい嫌われないようにしろよ。せっかくの伯爵家との縁なんだから」
「はい」
「お前なんかと仲良くしてくれるんだ。ありがたく思えよ」
「……はい」
「ふん…」
ダミアンは満足したように鼻を鳴らし、歩いていった。オリヴィアはその背中が見えなくなるまで、廊下の端に立っていた。足音が遠ざかって、ようやく少しだけ肩の力が抜けた。
昔から、兄と二人きりになるのは苦手だった。
理由は考えないようにしている。だって原因を思い出したところで、良いことなど何もないのだから。
———
部屋に戻ると、オリヴィアは侍女に手伝ってもらい、夜着に着替えた。
「ほかに何かご用はございますか?」
「いいえ。ありがとう。もう休んでちょうだい」
「かしこまりました。おやすみなさいませ」
侍女が退出すると、部屋はいっそう静かになった。
オリヴィアは寝台の端に腰を下ろしてアルヴェイン家でのことを思い出す。
今日は楽しかった。…エリーとおしゃべりをして、お菓子を食べて、魔道具を見せてもらった。ルーカス様は、魔法についてたくさん教えてくださった。
セシリア様も、とても優しかった。
思い出すと、胸の奥がほんのり温かくなる。
けれど、その温かさは、いつも長くは続かなかった。
なぜだかわからないけれど、エリーの家に遊びに行った日は、帰ってくると決まって、何とも言えない気持ちになる。
エリーの笑顔を思い出す。
…いつも明るくて、楽しそうで、私の話を嬉しそうに聞いてくれる。
……そうだわ、エリーは私にとって寒い日のお日様みたいな人なのだ。一緒にいると、ぽかぽかと温かくて、自然と笑顔になれる。
でも、それはエリーだけではなくセシリア様も、ルーカス様も、オスカー様も。
アルヴェイン家の人たちは、みんなそうだ。
あの家にいると、まるで日当たりのいい場所で日向ぼっこをしているような気持ちになる。
…ずっと、そこにいたくなる。
あの家の人たちは、みんな自然に笑っている。
エリーが話せば、お母様もお兄様も楽しそうに聞いている。失敗しても笑い話になって、上手にできれば褒めてもらえる。
エリーは、お母様に遠慮なく話しかけるし、お兄様に簡単にお願い事をする。そして、二人ともそれを当たり前のように受け止めている。
あの家では、それが普通なのだ。
……いいな。
そう思ってしまった。
オリヴィアは膝の上で両手を重ねた。
エリーは何も悪くない。むしろ、いつも優しくしてくれる。今日だって、自分のことのように喜んでくれた。
『でも、オリエのことが大好きだから、オリエが困ることはしたくないの!』
あの言葉を思い出すと、嬉しくなる。
嬉しいのに、同時に胸が苦しくなる。
エリーはきっと、あんなふうに大切にされて育ってきたのだろう。だから、あんなに明るく笑えるのだ。
何かを失敗しても、次は頑張ろうと思える。
自分の好きなものを、好きだと言える。
……私とは、違う。
オリヴィアはそっと息を吐いた。
エリーが羨ましい。そう思う自分が、ひどく嫌だった。あんなに優しい友人に対して、そんなことを思うなんて…自分はなんて、つまらない人間なのだろう。
きっと、だからなのだ。だから、自分は家族に好かれない。エリーのように明るくもなければ、可愛らしくもない。何をしても気が利かず、上手に笑うことさえできない。そんな自分が、あの家の人たちと同じように大切にされたいなどと思うのは、身の程知らずなのかもしれない。
「……嫌な子」
小さく呟いた。
誰に聞かせるつもりもない言葉だった。
オリヴィアは立ち上がると窓辺へ歩いた。
窓から見る夜の庭園は静かだった。
月明かりに照らされた木々が、風に揺れている。
もし、この家を出られたら…ふと、そんなことを考えた。けれど、すぐに首を振った。
出て、どうするの?
どこへ行くの?
自分に何ができるというのだろう。
学園を卒業すれば、いずれ家が決めた相手のもとへ嫁ぐことになるだろう。それまでは、この家で暮らす。
ずっと、そういうものだと思ってきたし、今さら他の生き方など考えつきもしない。
それに、もし出ていこうとしたらお父様は、きっと怒るだろう。お母様も、許してはくださらない。
お兄様は……。そこまで考えて、オリヴィアは思考を止めた。
やめよう。
考えても仕方のないことだ。
明日も、いつもどおりに過ごせばいい。
余計なことは言わず、言われたことをして、できるだけ目立たないように。
そうしていれば、一日は終わる。
今日だってそうだった。
オリヴィアは窓から離れ、寝台に横になった。
目を閉じると、昼間の光景が浮かんできた。
窓から差し込む柔らかな日差し、テーブルに並んだ焼き菓子、嬉しそうに話すエリーにそして、果物のタルト。
……美味しかったな。
果物の酸味がちょうどよくて、甘すぎなくて。
セシリア様は、料理長に感想を伝えると言ってくださった。自分の何気ない言葉を、あんなに嬉しそうに聞いてくださるなんて。
また、胸の奥が少しだけ温かくなった。
それと同時に、どうしようもなく惨めな気持ちにもなった。オリヴィアは寝返りを打った。
……でも、私はあの家の人間ではない。
そんな当たり前のことを考えて、オリヴィアは掛け布を少しだけ引き上げた。
明日になれば、またエリーに会える。
それだけは、楽しみだった。
けれど今夜は、なかなか眠れそうになかった。




