3.きちんとしたお母様
それから数日が経った。
あの日以来、私はオリエの様子が気になるようになった。とはいっても、何か特別なことをしているわけでもなく、一緒に授業を受けて、昼食を食べて、くだらないことで笑い合う、そんないつもと同じ毎日の中、以前なら気にも留めなかったようなことが、少しだけ目につくようになった。
例えば、オリエが誰かに褒められたとき、彼女は決まって「そんなことありませんわ」と答える。
謙遜すること自体は、貴族の令嬢として別に珍しくない。でも、オリエの場合は、褒められたことを喜ぶより先に、相手が本気で言っているのか確かめようとしているように見えるのだ。いや、もはや褒められることを怖がっているようにさえ見えることがあった。
……まあ、それも私の気のせいかもしれないけれど。
そんなことを考えていた、ある日の放課後
「エリー、今日は少し早く帰らなくてはいけないの」
いつものように一緒に帰ろうとした私に、オリエがそう告げた。
「そうなの?何か用事?」
「ええ。お母様が学園まで迎えにいらっしゃるの」
「まあ、ベアトリス様が?」
「ええ」
オリエは微笑んだ。
けれど、なぜだろう、その笑顔がいつもより少し硬く見えた。
「それなら、私もご挨拶していこうかしら。しばらくお会いしていないもの」
「……え?」
オリエが顔を上げた。
「あら、駄目だった?」
「ううん、そんなことはないわ!」
彼女は慌てたように首を振った。
「少し忙しそうだから、その…」
「あら、そうなのね。では、軽くご挨拶だけにしておくわ」
「…ええ」
オリエは小さく頷いた。
———
学園の正門近くには、迎えの馬車が何台も並んでいて、その中の一台のそばに、上品な薄紫色のドレスを着た女性が立っていた。
ベアトリス・ローディス子爵夫人
オリエのお母様だ。
年齢を感じさせない整った顔立ちに、柔らかな微笑み。いつお会いしても、きちんとした身なりをしている。
「あら、オリヴィアったらずいぶん遅かったわね」
「申し訳ありません、お母様」
オリエがすぐに頭を下げた。
「あなたは本当に鈍臭くて気が利かないから」
「その…エリーとお話ししていて……」
「まあ、アルヴェイン伯爵家のお嬢様と?」
ベアトリス様は私に気づくと、ぱっと表情を明るくした。
「エリシア様!お久しぶりでございます」
「ごきげんよう、ベアトリス様。突然お声がけして申し訳ありません」
「とんでもございません。いつも娘と仲良くしてくださって、本当にありがとうございます」
「こちらこそ、オリヴィア様にはいつもお世話になっておりますわ」
「まあ、そんな。うちのオリヴィアが、エリシア様のお役に立てているのなら嬉しいことです」
ベアトリス様は嬉しそうに微笑んで、隣に立つオリエを見た。
「あなた、きちんとエリシア様のお相手をしているのでしょうね?」
「はい、お母様」
「この子ったら、昔から気が利かないところがあるものですから。何か失礼なことをしていなければよいのですけれど」
「あら、そんなことありませんわ!」
私はその言い方に少し驚いてしまった。
「オリヴィア様にはいつも助けてもらっております。先日の魔法実技でも、私にわかりやすく教えてくれたんですのよ」
「まあ、そうでしたの」
ベアトリス様は少し驚いたように目を丸くした。
「オリヴィア、あなたが?」
「……はい」
「ふうん、珍しいこともあるものね」
そう言って、ベアトリス様は笑った。
私もつられて微笑みかけたけれど、妙に引っかかった。……珍しい?オリエは魔法が得意で、少なくとも、私よりずっとずっと上手だ。
ベアトリス様にはオリエが誰かに教える事ができるということがそれほど意外なのだろうか。
「本当に上手なんですのよ。先生のお手本とほとんど変わらないくらいでしたわ」
「まあまあ。エリシア様はお優しいのですね」
ベアトリス様はにこやかに言った。
「この子は褒めるとすぐ調子に乗りますから、あまり甘やかさないでくださいませ」
「……え?」
思わず、間の抜けた声が出た。
ベアトリス様は変わらず微笑んでいる。
「冗談ですわ。そんなに驚かないでくださいな」
「あ……ええ」
冗談…そう言われてしまえば、それ以上何も言えなかった。ただ、オリエは口こそ笑顔を作っていたが全く笑っていなかった。俯き加減に立ち、両手を体の前で揃えている。
「オリヴィア」
「はい」
「背筋を伸ばしなさい。みっともないでしょう」
「申し訳ありません」
オリエはすぐに姿勢を正した。
「それから、髪が少し乱れているわ」
ベアトリス様はそう言って、オリエの耳元に手を伸ばした。髪を整えてあげる…形だけ見れば優しい母親の仕草だったが、オリエの肩が、ほんのわずかに揺れた。私はついその様子を見つめてしまった。
「まったく。朝はきちんとしていたのに」
「……申し訳ありません」
「謝る前に、次から気をつけなさいね」
「はい、お母様」
ベアトリス様は満足したように頷くと、再び私に向き直った。
「それでは、エリシア様。そろそろ失礼いたしますわ」
「ええ。お引き留めして申し訳ありませんでした」
「いいえ。またぜひ遊びにいらしてくださいませ」
「ありがとうございます」
私は軽く頭を下げた。
オリエもこちらを向いた。
「エリー、また明日」
「ええ、また明日ね!」
私はいつものように手を振った。
オリエも小さく手を振り返したその瞬間。
「オリヴィア」
ベアトリス様が名前を呼んだ。
オリエはすぐに手を下ろした。
「……はい、お母様」
「行きますよ」
「はい」
二人は馬車へと乗り込んだ。
扉が閉まり、馬車がゆっくりと走り出す。
私はその姿が見えなくなるまで、正門のそばに立っていた。
———
「……何ともいえない違和感ね」
帰りの馬車の中で、私は小さく呟いていた。
ベアトリス様は、いつもどおり感じのいい方だった。
私には丁寧に接してくださったし、笑顔も絶やさなかった。オリエに対しても、別に暴言を言っていたわけではない。
『この子は褒めるとすぐ調子に乗りますから』
暴言ではないかもしれないけれど…これは…。
私は眉を寄せた。あれは、本当に冗談だったのだろうか。少なくとも、オリエは笑っていなかった。
『背筋を伸ばしなさい。みっともないでしょう』
『朝はきちんとしていたのに』
言葉だけ見れば母親が娘に言ってもおかしくない言葉だった。そもそも貴族の令嬢なのだから、身だしなみに厳しくなるのもわかる。けれどオリエは、ベアトリス様に対して緊張していたように見えたし、過度に謝っているように見えた。別に何かを壊したわけでも、誰かに迷惑をかけたわけでもないのに。
…それに、髪に手を伸ばされたときの、あの反応。
まるで、何かを警戒しているような。
「……ううん」
私は首を振った。
たった一度のやり取りで、人の家庭をどうこう言うのはよくないわ。それに、私が見たのはほんの数分だけだ。何か事情があったのかもしれない。
そう言い聞かせるようにして馬車の窓から空を眺めていた。
———
屋敷に戻ると、母のセシリアが居間でお茶を飲んでいた。
「あら、エリー、お帰りなさい」
「ただいま戻りました、お母様」
「今日はオリヴィア嬢と一緒ではなかったの?」
「ええ。今日はベアトリス様がお迎えにいらしていたの」
「まあ、そうなのね」
母は穏やかに頷いた。
「先日久しぶりにお会いしたけれど、相変わらずお綺麗な方だったわ」
「そうね。いつもきちんとしていらっしゃるものね」
私は母の向かいに座った。
侍女がお茶を注いでくれる。いつもなら、ここで今日の授業の話をするところだ。
魔法理論で新しく習ったことや実技で失敗したこと。
お兄様に試してもらいたい魔道具のアイデア。
話したいことはたくさんある。
けれど、今日は別のことが気になっていた。
「……ねえ、お母様」
「なあに?」
「変なことを聞くようだけれど…私が何か上手にできたとき、お母様はどう思う?」
母は少し驚いたように目を瞬かせた。
「どうしたの、急に」
「ちょっと…気になる事があって」
「そうねえ……」
母は考えるように首を傾げた。
「嬉しいわね。エリーが頑張ってできるようになったのなら、なおさら」
「……調子に乗るとは思わない?」
「まあ!」
母は目を丸くしたあと、楽しそうに笑った。
「どんどん調子に乗ってしまえばいいじゃない!」
「えっ」
「でも、それがどうしたの?」
「……どうしたのって」
「嬉しくてはしゃぐこともあるのは当たり前だわ。あまりに周りが見えなくなっていたら多少は注意するけれど、何かができるようになって喜ぶことの何が悪いのかしら?」
私は母を見つめた。
「……そうよね」
「ええ」
母は微笑んだあと真面目な顔になって言った。
「…何かあったの?」
私は言うかどうするか少し迷った。
ベアトリス様のことを話すべきだろうか。
けれど、まだ何もわかっていない。
私が勝手に気にしすぎているだけかもしれないし、そもそも他の家のことを何か言っても良いものだろうか…。
「……ううん。ちょっと考え事をしていただけ」
「そう?」
「考えがまとまったら…相談するかもしれません」
「わかったわ。」
そう言うと母はそれ以上追及しなかった。
ただ、私の前に置かれた焼き菓子の皿を、少し近くへ寄せてくれた。
「考え事をするときは、甘いものも必要でしょう?」
「ふふっ。ありがとう、お母様」
私は焼き菓子を一つ手に取った。
さくりとした食感と、優しい甘さが口の中に広がる。
いつもの、安心する味。
……オリエは、家でどんなふうに過ごしているのだろう。私はこれまで、そんなことを深く考えたことがなかった。幼い頃から知っている親友なのに、彼女が家に帰ったあと、どんな顔をしているのか。
何を話して、何を考えているのか、私は、ほとんど知らないのかもしれない。
窓の外では、夕日が庭を赤く染めていた。
私はもう一口、焼き菓子をかじった。
けれど、さっきまで感じていた甘さが、少しだけ薄くなった気がした。




