7
次の約束の日、レイラが工房へ着いたのはいつもより少し早かった。
扉を開けても、マルタは奥の作業台に張りついたまま、こちらを振り向きもしない。
「……いらっしゃいませ」
「今の間は何なんですか」
「忙しいんです」
「一応客ですが、こちらも」
「客なら予約時間を守ってください。大分早いです」
「あまり早く来ても文句を言うんですね」
苦笑しつつ中へ入ると、作業台の上に見慣れないものが並んでいた。
透明な板。
硝子のようでいて、光を受けると青白く揺らめく。
「綺麗…」
「魔鉱石です」
マルタはようやく顔を上げた。
「舞踏会用の本番素材。硝子より軽く、割れにくく、熱を加えると少しだけしなります」
「……靴ってこんなので作れるんですか?」
「普通は作りません。面倒なので」
「そうですよね」
「でも、貴婦人はこういうのが好きでしょう?」
「こういうの?」
「光る。珍しい。儚げ。華やか。繊細。」
淡々と並べる口調に妙な棘が混じる。
「……嫌味?」
「華美なだけで履き心地を度外視するのはどうかと」
不機嫌そうな顔をしつつ、指先だけは妙に生き生きしている。
細い刃物で魔鉱石の縁を少しずつ削り、布で磨き、木型へ沿わせて形を見ている。
その横には見慣れた試作靴と、レイラの足型を書き込んだ型紙。
「最初の試作は革で足の癖を見ました。踵の浮き、親指の圧迫、歩幅、重心の乗り方」
聞いてもいないのにマルタは説明し始めた。
「それが分かったから、ようやく本番に入れるんです」
「へえ」
「へえ、じゃありません。ここからが一番面倒なんですよ」
「そうなんですね」
マルタは鼻を鳴らした。
「そこに立ってるなら、その板を押さえてください」
「急ですね」
「冷めると固まります」
言われるまま、レイラは木型の横へ回る。
ほんのり熱を持った透明板をそっと押さえると、マルタが素早く形を合わせていく。
「動かさないで」
「分かってますよ」
「いや分かってなさそうなので」
「失礼!」
ぴたりと木型に沿ったところで、マルタが冷却水をさっとかけた。
青白い透明板が硬質な音を立てる。
「……本当に靴になるんですね」
「なるようにしてるんです」
次は細い銀糸を差し出され、次は留め具、次は透明石。
気づけばまた当然のように手伝わされていた。
「僕、客ですよね。ここで働かされてないですか?」
「助手です」
「いつ正式採用されましたっけ」
「今から」
「勝手に?」
文句を言いつつも、手は止めない。
魔鉱石の板を磨く布を受け取り、銀糸の絡まりを解き、透明石を小皿へ並べる。
単純作業のはずなのに、マルタの横でやっていると妙に時間が過ぎるのが早かった。
「その透革取ってください」
透革、と言われて見回すとすぐ見つけた。棚の上、乱雑に積まれた上に革らしきもの。
手に取ってみると驚くほど柔らかく、持っている手が透けて見える。
「これも使うんですか?」
「内張りです」
「内張り?」
「魔鉱石では足のあたりが悪いでしょう」
マルタは当たり前のように言う。
「見えない部分こそ履き心地を左右します。魔鉱石は綺麗ですが、そのままだと硬い。だから内側にだけ極薄の革を張る」
レイラは透革を見つめた。
外からは見えない。
けれどないと痛い。
「……見えないのに、必要なんだ」
「必要です」
即答だった。
「見た目だけ整えても、履けなければ靴じゃない」
何でもない職人の説明のはずなのに、その言葉が妙に胸に残る。
レイラはしばらく黙っていた。
見た目だけ整えても、意味がない。
どこかの家の誰かにも聞かせてやりたい台詞だ。
「どうしました」
「いや……何でも」
顔を逸らすと、マルタは少し首を傾げたものの追及はしなかった。
昼近くになる頃には、透明な甲部分がだいぶ靴らしい曲線を持ち始めていた。
「疲れた……」
マルタが珍しく机に突っ伏す。
「昼前ですよ」
「細工物は目が死ぬんです」
「死ぬ」
「半分くらい」
そんなやり取りをしていると、ぐう、と間抜けな音が鳴った。
レイラが目を瞬く。
マルタは無表情のまま視線を逸らした。
「……昼にしましょう」
「今の、あなた?」
「聞こえませんでした」
「聞こえましたけど」
「昼にしましょう」
強引に話を切られ、レイラは思わず吹き出した。
「何ですそれ」
「うるさいです」
奥から持ってきたのはパンと野菜のスープ。
飾り気のない昼食だ。
「ここで食べるんですか」
「帰るんですか」
その問いに、レイラは少しだけ黙った。
帰る。
頭に浮かぶのは夫人の顔と、息の詰まる屋敷の廊下だ。
「……帰りたくない」
ぽつりと漏らすと、マルタの手が止まった。
ほんの一瞬だけ、空気が静かになる。
「……そうですか」
それだけ言って、木の器をひとつ差し出してくる。
深く聞かないのがありがたかった。
二人で向かい合って食べる昼食は、相変わらず妙に静かだ。
だが気まずくはない。
スープを飲みながら、レイラは作業台の上の透明な靴を見た。
まだ完成には遠い。
けれど少しずつ形になっている。
それが何だか不思議だった。
自分のためのものが、ここで少しずつ作られていく。
そんな経験は初めてで、胸の奥がくすぐったくなる。
「何見てるんです」
マルタの声に、レイラは慌てて器へ目を戻した。
「別に」
「その顔、別にじゃないですね」
「うるさい」
小さく笑われた気がして、レイラはますます落ち着かなくなる。
なのに、悪い気はしなかった。




