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次に工房を訪れた時、マルタは扉を開けた瞬間に眉をひそめた。
「顔色が悪いですね」
挨拶より先にそれか、とレイラは思う。
「こんにちはが先じゃないですか?」
「こんにちは。顔色が悪いですね」
「言い直しただけじゃないですか」
マルタは真顔のまま身を引いた。
「入ってください」
相変わらず愛想がない。
けれどその無愛想さに、今日は妙にほっとした。
夫人の部屋で布地を当てられ、宝石を当てられ、死人だの何だのと言われたあとの身には、この革と木屑の匂いがする工房がやけに息をしやすい場所に思える。
それが何となく癪で、レイラはわざとぶっきらぼうに言った。
「今日は最終調整ですか?」
「その前段階です。舞踏会当日に履くものに近づけます」
「近づける?」
「当たり前でしょう。いきなり完成品を履かせて失敗したら困る」
「あなた、失敗とかするんですね」
「…………しますよ。人間なので」
とても悔しそうなマルタに、レイラは思わず吹き出した。
「何です」
「いや……何でもないです」
笑ったついでに肩の力まで抜けた気がする。
椅子へ腰掛け、靴を履き替える。
紐を締めながら、マルタの指先がふと止まった。
「……寝てませんか?」
「少し」
「少しじゃ分かりません」
「最近そればっかりですね」
「便利なので」
便利って何ですか、と言い返しながらも、レイラは視線を逸らした。
眠れていないのは事実だ。
舞踏会の支度が始まってから、夫人もエリザベスも妙に機嫌がいい。
それが一番気味が悪い。
マルタは何も追及せず、立ち上がった。
「歩いてください」
工房の中を何度か往復する。
「……前よりいいです」
「でしょうね。私が作ってますから」
「自信家ですね」
「職人ですので」
またそれだ。
レイは半ば呆れながら歩き続けたが、ふと思い出して口を開く。
「そういえば、ドレスの色が決まりました」
マルタが顔を上げる。
「は?」
「舞踏会の。あなたも気にするだろうと思って」
「まあ、靴の色合わせは必要ですが……」
「淡い銀に少し青が混ざったような色です。月光みたいな」
マルタは少し考え込む。
「……では飾りは透明石か薄い銀糸ですね」
「もうそこまで考えられるんですね」
「当然です。服と靴が喧嘩したら台無しでしょう」
ぶつぶつ言いながら棚からいくつか装飾見本を持ってくる姿は、やはり楽しそうに見える。
レイラはその横顔をぼんやり眺めた。
この人は本当に靴のことしか考えていない。
なのに、なぜだかそれが少し羨ましかった。
「……あなたは、好きなことだけ考えていられていいですね」
ぽろりと零れる。
マルタは手を止めた。
「好きなことだけではありませんよ。食べていくための仕事です」
「でも、嫌そうじゃない」
「嫌ならやりません」
あっさり言い切られて、レイラは黙る。
嫌ならやらない。
そんな単純なことが、この家ではずいぶん遠い。
「……そうですか」
それ以上言葉が続かず、レイラは再び歩き出した。
数往復したところで、少し暑くなる。
今日は春先にしては妙に気温が高い。
「暑い……」
思わず襟元を緩めると、マルタがこちらを見た。
次の瞬間、その視線がぴたりと胸元で止まる。
「……何ですか」
「あなたのそれ、どうなってるんですか」
「それ?」
「胸です」
レイラは盛大にむせた。
「ごほっ、げほっ……は!?」
マルタは至って真面目な顔で近づいてくる。
「本物にしか見えません」
「見なくていいです!」
「いや気になるでしょう。あの厚み、何を入れてるんです。綿ですか?魔物素材ですか?」
「魔物素材って何ですか!」
「耐久性があるなら興味あります」
「そこですか!?」
マルタはしゃがみ込み、さらに覗き込もうとする。
レイラは慌てて胸元を押さえた。
「ちょっと、近い近い!」
「脱いでくれません?」
「なっ、この靴馬鹿!」
「構造確認したいだけです」
「嫌に決まってるだろ!」
「けちですね」
「けちで結構!」
ぜいぜい息を切らして睨みつけると、マルタは不満そうに唇を尖らせた。そして、にいっと笑う。
「素はそんな感じなんですね。中身までおしとやかなのかと思ってました。そんな大声だせるなら最初からだせばいいのに」
言われてから自分が焦りのあまり素で対応していたことに気づいた。ここには監視の目もないし、気が抜けているのかもしれない。
一つため息を深くついて、頭をがしがしかいた。ここで取り繕ってももう意味がない。
「忘れてください」
「無理です」
「即答しないでもらえます?」
がっくり肩を落とす姿が、昨日までの作り物めいた令嬢と同一人物とは思えない。
そのあまりの落差に、マルタは妙に可笑しくなった。
「母の前では私、と言ってるんです」
ややあって、レイラが諦めたように手を下ろした。
「……昔は僕だったんだけど」
ぽつりと落ちた言葉に、マルタは笑みを引っ込める。
「いつから」
「さあ。気づいたら」
レイラは作業台の上の木型をぼんやり見つめる。
「女の服を着せられて、私と呼ばされて、そのうちそれ以外の言い方をしなくなった」
軽い口調のつもりなのだろう。
だが全然軽くない。
マルタは無意識に眉を寄せた。
「……なるほど」
「引くでしょう」
「少し」
「正直ですね」
「職人なので」
「まだそれ使うんですか」
呆れた声に、さっきまでの重さが少しだけ薄れる。
ややして、マルタが、ふと低く言う。
「……苦しくないんですか」
「え?」
「締め付けてるでしょう、それ」
レイラは一瞬きょとんとして、それから胸元へ目を落とした。
晒しに詰め物、形を整えるための布。
毎朝使用人が手際よく巻き付けるから、深く考えたこともない。
「……慣れた」
短い返事に、マルタの眉がきつく寄る。
また何か余計なことを言いそうな顔をして、結局何も言わなかった。
ただ、靴紐を結び直す指先だけが少し荒い。
帰る頃には日が傾いていた。
扉へ向かうと、背後から声が飛ぶ。
「転ばないでくださいよ」
レイラが振り返る。
「何です急に」
「靴の確認が終わってませんから」
「はいはい」
「……あと」
珍しく言い淀む。
「……気をつけて帰ってください」
レイラは目を瞬いた。
マルタはすぐに顔を背ける。
「使用人服でうろついてるとただの下働きに見えますから」
「今さらです」
レイラが思わず笑うと、マルタはますます不機嫌そうになった。
「うるさいです。早く帰ってください」
追い立てられるように外へ出る。
夕風が少しぬるい。
数歩歩いてから、レイラはは無意識に胸元を押さえた。
「胸です」
「脱いでくれません?」
思い出した途端、顔が熱くなる。
「……何なんだ、あの人は」
ぶつぶつ文句を言いながら歩く足取りは、不思議と軽かった。




