5
部屋へ戻ると、レイラは扉を閉めてそのまま床へ座り込んだ。
広い屋敷の端に押し込められた小部屋は、元は物置だったらしい。
小さな寝台と箪笥がひとつ。窓は狭く、夕方にはもう薄暗い。
今日も疲れた、と思うより先に、足先の感覚がいつもと違うことに気づいた。
そっと靴を脱ぐ。
マルタの試作靴。
まだ硬さはあるが、履いて歩いたあとの鈍い痛みが少ない。
指先を動かしてみても、爪が圧迫されるような不快さがない。
「……本当に、変な靴屋だ」
靴職人なのだから変なことはないのだが、他に言いようが見つからない。
靴など履ければ同じだと思っていた。
痛いのも、擦れるのも、歩きにくいのも当たり前だと。
この家へ来てから与えられるものに、心地よさを求めたことなど一度もない。
なのにたかが靴ひとつで、こんなにも違う。
足の痛みが少ないだけで、胸の奥が妙にゆるむのが腹立たしかった。
「……変なの」
誰に聞かせるでもなく呟き、靴を丁寧に寝台の下へ置く。
丁寧に、という行為が自分でも少し可笑しかった。
普段なら脱ぎ散らかして終わりだ。どうせ誰も見ていない。
けれどあの職人が細い指で紐を結び直していた姿が、なぜか頭に残っている。
─踵はどうです。痛みますか。
─少し。
─少しじゃ分かりません。
─石を踏むよりかは痛くないです。
─それは比べる対象が悪くありません?
思い出して、ふっと息が漏れた。
今日は時間が早いかった。
行く前は面倒で仕方なかったのに、行ってしまえばいつの間にか帰る時間になっている。
無愛想で口うるさい職人と、どうでもいいやりとりをしているだけなのに。
何がそんなに気楽なのか、自分でも分からない。
ぼんやりと鏡を見る。
肩まで伸びた金髪が、少し乱れていた。
櫛を手に取り、髪へ通す。
さらり、と滑る感触に、遠い記憶がふと蘇る。
『姿勢をなおして』
幼い頃の自分は、椅子の上でむっとしていた。
『じっとして、レイ──』
『だって痛い』
『暴れるから引っかかるのよ』
母はそう言いながらも手を緩めない。
長い指で髪を梳かし、結び、乱れを整える。
『身なりは自分を守る鎧ですよ』
『鎧?』
『ええ。誰が見ていなくても、自分で自分を粗末にしてはいけません』
鏡越しに微笑む母は、いつも綺麗だった。
優しいのに甘くはない。
礼儀に厳しく、字が乱れれば書き直し、食事の姿勢が悪ければすぐ注意した。
それでも、あの家には温度があった。
─こんなふうに、扉を叩く音に肩を跳ねさせることもなかった。
「レイラ」
現実の声に、櫛を握る手が止まる。レイラなんてお飾りの名前に慣れたのはいつだっただろうか。昔は何と呼ばれてたのかなんて、もう覚えていない。
「奥様がお呼びよ。早くいらっしゃい」
侍女の苛立った声。
「……今行きます」
櫛を置き、立ち上がる。
呼ばれて行かないという選択肢は、ずっと昔に失った。
最初は何度か、行きたくないと足を止めたこともある。
納得できないと口答えしたことも、一度や二度ではない。
そのたびに返ってきたのは平手打ちと、食事を抜かれる夜と、閉じ込められる暗い納戸だった。
自分が黙らないせいで侍女が叱られ、下働きが殴られるのも見た。
逆らっても何も変わらない。
むしろ余計な痛みが増えるだけ。
逃げられないと覚えたものは、逃げることをやめる。
自分はもう、試してみることすらしない。
夫人の部屋へ入ると、甘ったるい香油の匂いが鼻についた。
室内には色とりどりの布地が広げられ、宝石箱がいくつも並んでいる。
エリザベスが楽しそうにドレスを摘み、夫人は長椅子に腰掛けていた。
「あら、来たわね」
にこりと笑う。
その笑みが嫌いだ。
叱る時よりも、こうして優しい顔をする時の方がろくなことがない。
「舞踏会の支度を始めるわよ」
レイラは無言で立ち尽くした。
夫人は侍女に命じ、布地を次々当てさせる。
「青は駄目ね、顔が負けるわ。白……いいえ、淡い金の方が映えるかしら」
「まあお母様、本当にそっくり」
「ええ。8年も隠しておいた甲斐があったわ」
ひやりと背筋が冷える。
夫人はレイラの顎を持ち上げた。
「外では余計なことを言わないこと。あなたは黙って微笑んでいればいいの」
エリザベスがくすくす笑う。
「死人が喋ると目立つものね」
死人。
その言葉に、レイラは一瞬だけ目を伏せた。
昔から何度も聞かされた言葉だ。
意味など考えないようにしていた。
考えても仕方ないから。
けれど今日は妙に胸に残る。
「返事は?」
「……はい、お母様」
夫人は満足そうに頷いた。
布地が肩に掛けられ、髪に触れられ、飾りを当てられる。
人形になった気分だった。
─次の調整は、明後日だったか。
不意にそんなことを思う。
マルタはまた踵がどうだの指がどうだのうるさく聞くのだろう。
面倒だ。
面倒なのに、少しだけ息がしやすくなる気がした。
「ぼんやりしないの」
夫人の声に我に返る。
「申し訳ありません」
俯いて返事をしながら、レイラは自分でもよく分からない違和感を胸の奥へ押し込めた。
この部屋は息苦しい。
なのに思い浮かぶのは、革と木屑の匂いがするあの薄暗い工房ばかりだった。




