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ガラスの靴をご所望ですか?  作者: 夢幻
誰がためのガラスの靴

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5/12

5

 部屋へ戻ると、レイラは扉を閉めてそのまま床へ座り込んだ。


 広い屋敷の端に押し込められた小部屋は、元は物置だったらしい。

 小さな寝台と箪笥がひとつ。窓は狭く、夕方にはもう薄暗い。


 今日も疲れた、と思うより先に、足先の感覚がいつもと違うことに気づいた。


 そっと靴を脱ぐ。


 マルタの試作靴。


 まだ硬さはあるが、履いて歩いたあとの鈍い痛みが少ない。

 指先を動かしてみても、爪が圧迫されるような不快さがない。


「……本当に、変な靴屋だ」


 靴職人なのだから変なことはないのだが、他に言いようが見つからない。


 靴など履ければ同じだと思っていた。

 痛いのも、擦れるのも、歩きにくいのも当たり前だと。

 この家へ来てから与えられるものに、心地よさを求めたことなど一度もない。


 なのにたかが靴ひとつで、こんなにも違う。


 足の痛みが少ないだけで、胸の奥が妙にゆるむのが腹立たしかった。


「……変なの」


 誰に聞かせるでもなく呟き、靴を丁寧に寝台の下へ置く。


 丁寧に、という行為が自分でも少し可笑しかった。

 普段なら脱ぎ散らかして終わりだ。どうせ誰も見ていない。


 けれどあの職人が細い指で紐を結び直していた姿が、なぜか頭に残っている。


 ─踵はどうです。痛みますか。

 ─少し。

 ─少しじゃ分かりません。

 ─石を踏むよりかは痛くないです。

 ─それは比べる対象が悪くありません?


 思い出して、ふっと息が漏れた。


 今日は時間が早いかった。

 行く前は面倒で仕方なかったのに、行ってしまえばいつの間にか帰る時間になっている。

 無愛想で口うるさい職人と、どうでもいいやりとりをしているだけなのに。


 何がそんなに気楽なのか、自分でも分からない。


 ぼんやりと鏡を見る。


 肩まで伸びた金髪が、少し乱れていた。


 櫛を手に取り、髪へ通す。


 さらり、と滑る感触に、遠い記憶がふと蘇る。


『姿勢をなおして』


 幼い頃の自分は、椅子の上でむっとしていた。


『じっとして、レイ──』

『だって痛い』

『暴れるから引っかかるのよ』


 母はそう言いながらも手を緩めない。

 長い指で髪を梳かし、結び、乱れを整える。


『身なりは自分を守る鎧ですよ』

『鎧?』

『ええ。誰が見ていなくても、自分で自分を粗末にしてはいけません』


 鏡越しに微笑む母は、いつも綺麗だった。


 優しいのに甘くはない。

 礼儀に厳しく、字が乱れれば書き直し、食事の姿勢が悪ければすぐ注意した。


 それでも、あの家には温度があった。


 ─こんなふうに、扉を叩く音に肩を跳ねさせることもなかった。


「レイラ」


 現実の声に、櫛を握る手が止まる。レイラなんてお飾りの名前に慣れたのはいつだっただろうか。昔は何と呼ばれてたのかなんて、もう覚えていない。


「奥様がお呼びよ。早くいらっしゃい」


 侍女の苛立った声。


「……今行きます」


 櫛を置き、立ち上がる。

 呼ばれて行かないという選択肢は、ずっと昔に失った。


 最初は何度か、行きたくないと足を止めたこともある。

 納得できないと口答えしたことも、一度や二度ではない。


 そのたびに返ってきたのは平手打ちと、食事を抜かれる夜と、閉じ込められる暗い納戸だった。

 自分が黙らないせいで侍女が叱られ、下働きが殴られるのも見た。


 逆らっても何も変わらない。

 むしろ余計な痛みが増えるだけ。

 逃げられないと覚えたものは、逃げることをやめる。

 自分はもう、試してみることすらしない。


 夫人の部屋へ入ると、甘ったるい香油の匂いが鼻についた。


 室内には色とりどりの布地が広げられ、宝石箱がいくつも並んでいる。

 エリザベスが楽しそうにドレスを摘み、夫人は長椅子に腰掛けていた。


「あら、来たわね」


 にこりと笑う。


 その笑みが嫌いだ。

 叱る時よりも、こうして優しい顔をする時の方がろくなことがない。


「舞踏会の支度を始めるわよ」


 レイラは無言で立ち尽くした。


 夫人は侍女に命じ、布地を次々当てさせる。


「青は駄目ね、顔が負けるわ。白……いいえ、淡い金の方が映えるかしら」


「まあお母様、本当にそっくり」


「ええ。8年も隠しておいた甲斐があったわ」


 ひやりと背筋が冷える。


 夫人はレイラの顎を持ち上げた。


「外では余計なことを言わないこと。あなたは黙って微笑んでいればいいの」


 エリザベスがくすくす笑う。


「死人が喋ると目立つものね」


 死人。


 その言葉に、レイラは一瞬だけ目を伏せた。


 昔から何度も聞かされた言葉だ。

 意味など考えないようにしていた。

 考えても仕方ないから。


 けれど今日は妙に胸に残る。


「返事は?」


「……はい、お母様」


 夫人は満足そうに頷いた。


 布地が肩に掛けられ、髪に触れられ、飾りを当てられる。


 人形になった気分だった。


 ─次の調整は、明後日だったか。


 不意にそんなことを思う。


 マルタはまた踵がどうだの指がどうだのうるさく聞くのだろう。

 面倒だ。

 面倒なのに、少しだけ息がしやすくなる気がした。


「ぼんやりしないの」


 夫人の声に我に返る。


「申し訳ありません」


 俯いて返事をしながら、レイラは自分でもよく分からない違和感を胸の奥へ押し込めた。


 この部屋は息苦しい。


 なのに思い浮かぶのは、革と木屑の匂いがするあの薄暗い工房ばかりだった。


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