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レイラが帰ったあとの工房は、妙に静かだった。
先ほどまで響いていた足音も、返事もない。
試作靴の確認に使った椅子は少しだけ斜めにずれており、卓には茶器が残っている。
マルタは木型を棚へ戻しかけて、ふとその椅子を見た。
「……静かですね」
誰に言うでもなく呟き、すぐに眉をひそめる。
何を馬鹿なことを、と自分で自分を切り捨てるように首を振った。
静かなのは当たり前だ。工房は本来こういうものだし、あの少年がいると妙に間が埋まるだけである。
─うるさいわけでもないのに。
そこまで考えて、また眉間に皺が寄る。
いけない。仕事をしよう。
マルタは革包丁を取り上げ、試作靴の踵に手を入れた。
レイの足は細いくせに踵だけ妙に擦れている。歩き方に無駄な力が入っているのだ。次はそこを少し柔らかく─
からん、と扉の鈴が鳴った。
「やあ」
聞き慣れた声に、マルタは露骨に嫌そうな顔をした。
「……また来たんですか、兄上」
「可愛い妹が忙しそうにしていると聞けば、様子見くらいするだろう」
「暇なんですね」
「辛辣だなあ」
ひらりと手を振って入ってきたのは、長身の青年だった。
淡い灰青の上着に金の留め具。いかにも貴族らしい身なりだが、本人はそんな格好のまま平然と革屑だらけの工房を歩いてくる。
レオン・アルノー。
マルタの実兄にして、社交界の噂話を無駄に拾ってくる男である。
「お茶ならありません」
「出せとも言ってないよ。……へえ」
レオンの視線が卓の上に止まった。
使いかけの茶器が二つ並んでいる。
「珍しい。お客?」
「仕事です」
「ふうん。例のグランヴィル伯爵家の依頼か」
マルタは無言で踵を削る手を動かした。
レオンは勝手に近くの椅子へ腰掛ける。
「舞踏会用の靴だったよね。グランヴィル夫人もなかなか見栄っ張りだ。娘を飾り立てるのに余念がない」
「そうですね」
「エリザベス嬢と君が仲良くなるとはね」
その言葉に、マルタの手が止まった。
「……いえ」
「ん?」
「採寸に来たのは、レイラという子です」
レオンが瞬きをする。
「レイラ?」
「ええ。見事な金髪の。レイラと名乗っていましたが」
数秒、工房の空気が止まった。
レオンの口元から笑みが消える。
「待って。グランヴィル家に金髪の娘なんていたか?」
「いたから言ってるんですが」
「いや、正妻の娘はエリザベス一人のはずだ」
マルタは眉をひそめた。
「では妾腹か何かでは」
「……妾腹」
レオンが低く繰り返す。
その顔色が僅かに変わったのを見て、マルタは革包丁を置いた。
「何です」
レオンはすぐには答えなかった。
考え込むように顎へ指を当て、それからゆっくり口を開く。
「グランヴィル伯には、確かに愛妾がいたはずだ」
「やはり」
「だが、その子は─」
そこで一度言葉を切る。
「8年前、伯爵と共に病死したのではなかったか」
「……は?」
「少なくとも社交界ではそう思われている。愛妾はさらにその前に亡くなっている。だから今、あの家にいる適齢の子どもはエリザベス嬢だけのはずだ」
マルタは言葉を失った。
存在しない。
その単語が、やけに重く耳に残る。
脳裏に浮かぶのは、薄汚れた庭で枝葉を抱えていた裸足の姿。
泥に沈む白い足。
小石を踏んでも顔色ひとつ変えず、淡々と「この家では普通のことです」と言った声。
あれが、存在しない?
「……死んだことにして、屋敷に置いていると?」
「そういうことになるな」
レオンの声音も珍しく硬い。
「正直、趣味が悪いどころの話じゃない」
「ではなぜ今さら舞踏会など」
「正式に娘として出す気はないだろうよ。遠縁だの親類だの、どうとでも誤魔化せる」
レオンはそこで息を吐いた。
「だが、社交界に8年隠した子を今さら飾って連れ出す理由なんて、ろくなものじゃない」
マルタは無意識に拳を握っていた。
爪が掌に食い込む。
レイラの足を思い出す。
赤く腫れた甲、擦り切れた踵、潰れかけた爪。
あの家でどんな扱いを受けていれば、ああなる。
「兄上」
「うん?」
「グランヴィル夫人は、何を考えていると思います」
レオンは苦く笑った。
「悪意を予想するのは趣味じゃないが……嫌な予感しかしないね」
工房に雨の気配もないのに、妙な冷えが落ちた気がした。
マルタは卓の上の試作靴へ目を向ける。
先ほどまでここで、あの少年は「少し歩きやすい」と言っていた。
ほんの少しだけ肩の力を抜いていた。
存在しないことにされた人間が。
レオンが立ち上がる。
「……必要なら手を貸すよ」
「何にです」
「まだ分からない。でもお前、その顔をしてる時はろくでもないことを考えてる」
「失礼ですね」
レオンは肩をすくめ、ひらひらと手を振って出ていった。
扉が閉まり、再び工房は静かになる。
マルタはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて試作靴を手に取った。
細い紐を指先で撫でる。
「……あなた、何者なんですか」
問いに答える者はいない。




