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「工房の場所くらい、もう分かるでしょう」
朝食の片付けも終わらぬうちに、グランヴィル夫人は紅茶を啜りながら言った。
レイラは立ったまま小さく頷く。
「……はい」
「なら次からは一人で行きなさい。たかが靴の調整に、いちいち馬車なんて出していられません」
言い方は軽いが、そこに拒否権などない。
「それと」
夫人はカップを置き、扇の先をレイへ向けた。
「余計なことを喋らないこと。顔をじろじろ見られないこと。グランヴィル家の娘だと悟られるような真似をしたら承知しませんよ」
「……はい、お母様」
横で焼き菓子をつまんでいた義姉のエリザベスが、くすりと笑う。
「せいぜい靴職人に愛想よくしてらっしゃい。あなたにできる取り柄なんて、そのくらいでしょう」
レイは視線を伏せた。
「……はい」
返事をして、部屋を下がる。
背後で夫人と義姉の笑い声が重なったが、振り返らなかった。
◇◇◇
門を出た瞬間、レイラは足を止めた。
誰もいない。
横で急かす使用人も、後ろから監視する女中もいない。
それが妙に落ち着かなかった。
(……本当に一人か)
いつもなら「早くしなさい」「寄り道するな」と声が飛ぶ。今日はそれがない。
ないだけで、どう歩けばいいのか一瞬分からなくなる。
戸惑いながらも歩き出す。
朝の町はすでに賑やかだった。
焼きたてのパンの匂いが流れ、店先では野菜を並べる声が響き、子供たちが路地を駆け抜けていく。
見慣れた景色のはずなのに、少し違って見えた。
立ち止まっても叱る者がいない。
パン屋の前でふと足が止まり、甘い香りに鼻をくすぐられて、レイラははっと我に返る。
(……何してるんだ)
慌てて歩き出す。遅いと怒られる、と思って。
だが数歩進んでから気づいた。今日は誰にも時間を決められていない。遅いと怒鳴る声もない。
そう思うと、胸の奥が妙にそわそわした。
急がなくていい。
それだけのことが、ひどく不思議だった。
◇◇◇
工房の扉を押し開ける。
からん、と鈴が鳴った。
革の匂いと、木槌の乾いた音。
作業台に向かったままのマルタが、顔も上げずに言う。
「遅いです」
「す、すみませ─」
「嘘です。予定より早い」
「……え」
思わず間の抜けた声が出た。
マルタはそこでようやく顔を上げる。いつもの無愛想な顔だ。だが口元がほんの少しだけ上がっている気がして、レイラは瞬きをした。
「冗談です」
「あなた冗談言うんですか……」
「たまに」
心臓に悪いと思ったが、言い返す前にマルタの視線が扉の方へ向く。
「付き添いは」
「いません」
「……一人で?」
「馬車はもったいないそうで」
短く答えると、マルタはしばらく黙った。灰色の瞳がすっと細くなる。
何か言いそうで、結局何も言わずにお茶と木箱を持ってきた。
「座ってください」
「え、はい」
言われるまま椅子に腰掛ける。マルタがその前にしゃがみ込んだ。自然な手つきでレイラの足首を支え、前回の靴を脱がせる。
ひやりとした指先が触れて、レイラは少し肩を揺らした。
「力抜いてください」
「無理言わないでください……」
「無理ではありません」
即答である。
木箱から取り出されたのは、淡い色の試作靴だった。まだ装飾もなく簡素だが、3日前の試作靴より見た目が綺麗だ。
「履いてみます」
そっと足を差し入れられる。
指先が当たらない。
甲も痛くない。
踵も擦れない。
「……立って」
言われるまま立ち上がり、一歩踏み出した。
「……え」
思わず声が漏れる。
もう一歩。
さらに一歩。
痛くない。
どこも。
3日前の靴よりも更に足に合うようになっている。
「何で……」
「調整したからです」
「靴ってこんな違うんですね……」
呆然と呟くと、マルタは少しだけ目を細めた。
「そこ、往復してください」
工房の端から端まで歩く。
最初は恐る恐るだった足が、だんだん自然に前へ出た。
裾を捌く必要もない、普段着のままの軽い足取り。
気づけば歩幅が広くなり、最後の方は半ば小走りになっていた。
こんなふうに足を出しても痛くないのか。
急いでも爪先が潰れないのか。
妙に可笑しくなって、口元が少し緩む。
─そこで、はっと止まった。
マルタがじっとこちらを見ている。
自分が少し浮かれていたことに気づき、途端に気恥ずかしくなった。
「……すみません」
「何がです」
「いや、何か……」
「歩きやすいなら結構」
あっさり返される。
その言い方がいつも通りすぎて、レイラは少しだけ息を吐いた。
胸の奥が、じんわり温かい。
椅子に座り、勧められるがままにお茶を飲んでいると、何やら木板に書き込んでいたマルタが口を開いた。
「三日後、また来てください」
「……また?」
「当然です。一回で終わると思いましたか」
マルタはレイラをちらとも見ずに言う。
「更に調整します。歩き癖を見ないと完成しません」
レイラはしばらく黙った。
それから、小さく聞く。
「……来てもいいんですか」
マルタが顔を上げた。
怪訝そうに眉を寄せる。
「依頼主でしょう」
「……そうですか」
それだけ答えて、レイラは足元を見た。
淡い試作靴の爪先が、朝の光を受けている。
次も来ていい。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。




