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ガラスの靴をご所望ですか?  作者: 夢幻
誰がためのガラスの靴

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2/12

2

三日後、マルタは約束通りグランヴィル家の屋敷を訪れていた。


 城下の貴族街の中でも、グランヴィル家の屋敷はそれなりに大きい部類に入るのだろう。正門の鉄柵には無駄に装飾が施され、玄関前には季節外れの花まで並べられている。だが近くで見れば、塗装はところどころ剥げ、植え込みも妙に伸び放題だ。見栄えだけ整えようとして手が回っていない、そんな印象だった。


「……なんとも落ち着かない家だ」


 小さく呟き、呼び鈴を鳴らす。

 出てきた使用人は愛想もなくマルタを一瞥すると、「こちらへ」とだけ言って屋敷の中を進んだ。


 通されたのは客間ですらない、廊下の端の控え室のような場所だった。窓は小さく薄暗い。置かれた椅子も、貴族が客を招くにはあまりに簡素である。


「ここでお待ちください」


 それだけ言い残して使用人は去っていった。

 ぱたん、と扉が閉まる。


 マルタはしばらく無言で部屋を見回した。


「……依頼したのは向こうだろうに」


 まあいい。貴族相手に礼儀や常識を期待したところで無駄だ。

 試作用の木型を入れた鞄を脇に置き、椅子へ腰掛ける。



 だが十分ほど待っても、誰も来ない。

 ため息をつきかけたその時、開け放たれた小窓の向こうから甲高い声が響いた。


「何をのろのろしているの、レイラ!」


 ぴしゃり、と鞭のような声。

 思わずマルタが窓際へ寄ると、中庭が見渡せた。

 そこには、枝葉の山を前にしゃがみ込むひとりの娘の姿がある。淡い金髪に、くすんだ桃色のドレス。

 工房で見た、あの人形じみた美少女─いや、美少年だった。


 だが今は裾を泥で汚し、細い腕いっぱいに剪定枝を抱えている。しかも足元は裸足だ。白い足の裏が土にまみれ、ところどころ赤く擦れているのがこの距離でもわかった。


「申し訳ありません、お姉様」


 静かな声で謝るレイラの前に、もうひとり若い娘が立っていた。

 栗色の髪をきっちり結い上げ、流行を意識した服装に身を包んでいる。顔立ちは悪くないのだろうが、余裕のないきつさが表情に滲んでいた。


「謝れば済むと思っているの? その程度も持てないなんて、本当に役立たずね」


「……申し訳ありません」


「それしか言えないの」


 姉らしき娘は、吐き捨てるように言って踵を返した。

 残されたレイラは何事もなかったかのようにまた枝を拾い集め始める。


 その動きに、マルタは眉をひそめた。


「なんであれで裸足なんだ」


 庭仕事をさせられていることも意味がわからないが、貴族の娘に裸足とはなおさらだ。いや、娘ですらないのかもしれないが。


 とにかく異様だった。


 工房で見た、感情の薄い美少女。

 今目の前にいるのは、感情を殺して働く使用人だ。


 同一人物とは思えない。


「お待たせしたわね」


 不意に背後から声がして、マルタは振り返った。入ってきたのはグランヴィル夫人だった。


 工房で会った時と同じく香水の匂いを漂わせてはいるものの、取り繕った愛想は欠片もない。面倒そうに扇を揺らしながら、マルタを上から下まで値踏みするように眺める。


「それで? 何を確認するとおっしゃっていたかしら」


 詫びの一言もなし。


 マルタは内心で舌打ちしたいのを堪え、鞄を持ち直した。


「足の状態と、普段の歩き方、履いている靴です。初回の採寸だけでは舞踏会用の靴は作れません」


「面倒ですこと」


 夫人は露骨に顔をしかめる。


「採寸は済んだのでしょう? あとは綺麗に見えるものを作ればよろしいではないの」


「綺麗に見えても歩けなければ意味がありません。舞踏会の最中に転ばれては、困るのは私の評判です」


 少し棘を混ぜて返すと、夫人は不満げに鼻を鳴らした。


「職人の矜持というやつかしら。……まあいいわ」


 ぱちん、と扇を閉じる。


「レイラ!」


 窓の外へ向かって呼びつける声は、先ほど姉から向けられていたものと同じくらい鋭かった。

 中庭で枝を抱えていたレイラがびくりと肩を震わせ、すぐにこちらへ駆けてくる。泥のついた足を慌てて拭い、部屋の入口で深く頭を下げた。


「お呼びでしょうか、お母様」


「靴職人が見たいそうよ。好きに見せなさい」


 まるで荷物でも渡すような言い方だった。


「……はい」


 レイラは一瞬だけ俯き、すぐ無表情に戻る。

 マルタはその顔を見て、胸の奥に微かな苛立ちが刺さるのを感じた。


「普段履いている靴も確認したいのですが」


「ああ、適当にそこらのを使っているでしょう。必要なら使用人に言って出させなさいな」


「夫人はご一緒されないんですか」


 確認のために尋ねると、夫人は心底嫌そうに眉を寄せた。


「私が?」


 何を馬鹿なことを、とでも言いたげな顔。


「靴を見るのでしょう。なら本人がいれば十分ではなくて?」


 それだけ言うと、夫人はもう話は終わりとばかりに踵を返した。


「間に合うようにだけなさい。舞踏会でみっともない真似をされたら困るの」


 ぱたん、と扉が閉まる。


 香水だけが鼻についた。


 しばしの沈黙。


 マルタはゆっくり息を吐き、隣のレイラを見る。


 レイラは視線を床に落としたまま、何の感情も見せない。


「……ずいぶん雑に預けられましたね、あなた」


 思わず漏らすと、レイラがわずかに肩を揺らした。


「母は忙しい方なので」


「そういう問題ですか」


「この家では大体そういう問題にされます」


 さらりと言われ、マルタは返す言葉を失う。

 自虐なのか諦めなのかもわからない、ひどく乾いた口調だった。


「庭で歩いて、ステップを踏んでもらいます」


「承知しました」


「それから普段の靴も」


「使用人に言えば持ってこさせます」


 すらすらと返事をしながら、レイラは部屋の外へ身体を向ける。

 その背筋の伸びた姿だけは、妙に綺麗だった。





 中庭へ出ると、湿った土と青葉の匂いが鼻をついた。


 先ほどまで枝葉を運んでいたせいだろう、石畳の脇には剪定くずが山になっている。庭師に任せるべき仕事を、どうしてこの細腕にやらせているのか。マルタは内心で舌打ちした。


「そこを歩いてください」


 石畳を指さすと、レイラは黙って頷いた。


 泥のついた足を軽く拭い、使用人がもってきた普段履いているという靴に足を押し込む。見ているだけで窮屈そうだった。


 こつ、こつ、と硬い足音が響く。


 数歩で十分だった。


 歩幅が不自然に狭い。右足をわずかにかばっている。着地のたびに肩がこわばるのも見て取れた。


「痛いでしょう」


 後ろから声をかけると、レイラは足を止めずに答える。


「多少は」


「多少、で済む歩き方ではありません」


 マルタは眉を寄せた。


「脱いでください」


 レイラが振り返る。


「靴を、ですか」


「ええ。その状態では癖が見えません」


 一瞬躊躇ったものの、レイラは従って腰を下ろし、窮屈な靴を脱いだ。解放された足先には赤い圧迫痕がくっきり残っている。


「裸足のまま、もう一度」


 今度は素足で石畳を進む。


 もちろん慎重ではあるが、先ほどよりよほど自然な足運びだった。少なくとも、靴に押し込められていた時のような無理はない。


「……本当に裸足の方がましだな」


 呆れて呟くと、レイラが小さく肩を揺らした。


「でしょう?」


 どこか得意げですらある返事に、マルタは顔をしかめる。


「褒めていません」


「残念です」


 平板だった声に、ほんの少しだけ色が差す。


 マルタは腕を組み、その足取りを観察しながら尋ねた。


「いつからそんな靴を履いているんです」


「姉に背丈が追いついた頃からでしょうか」


「追いついた頃?」


「お下がりが使えるからと」


 さらりと言われ、マルタは思わず息を吐いた。


「使えていませんよ」


「ええ」


「ええ、じゃないでしょう」


「母は使えているつもりです」


 何でもないことのように返される。


 怒っているわけでも、恨んでいるわけでもない。ただ事実を述べているだけの口調が、余計にやりきれなかった。


「嫌ではないんですか」


 問いかけると、レイラは少しだけ空を見上げた。


「嫌ですよ」


 即答だった。


 だがそのまま肩をすくめる。


「嫌だと言って靴が大きくなるわけでもありませんし」


 あまりに乾いた言い方に、マルタは返す言葉を失う。


 諦めている。

 この少年は、痛いことにも、おかしいことにも、全部。


「……他にも、そうやって諦めていることが多そうですね」


 ぽつりと漏らすと、レイラが足を止めた。


 振り返った瑠璃色の瞳が、じっとマルタを映す。


「靴職人さんは、靴以外にも興味がおありで?」


「別に」


「先ほどから随分と私を観察しているようですが」


「あなたの足が仕事の障害なんです」


 即答すると、レイラはふっと笑った。


 初めて聞く、ごく小さな笑い声だった。


「なるほど。私はただの障害物というわけだ」


「そういうことになります」


「それは失礼しました」


 皮肉のようでいて、どこか楽しんでいるようにも聞こえる。


 その瞬間だった。


「……っ」


 レイラの表情がわずかに歪む。


 次の一歩を踏み出しかけて、ぴたりと足が止まった。


「どうしました」


「……いえ」


 答えながらも、レイラは右足をわずかに浮かせている。


 誤魔化せると思っているのか。


 マルタは半ば呆れながら歩み寄った。


「見せてください」


「結構です」


「結構ではありません」


「靴の確認は終わったのでは」


「今は裸足の確認中です」


 言いながら、マルタはさっさとしゃがみ込んだ。


 逃げようとした足首を軽く掴むと、レイラが息を呑む。


「ちょっ……」


「動かないでください」


 裏返した足裏に、小さな石片が食い込んでいた。先ほどの剪定枝の下にでも落ちていたのだろう。


「本当に、裸足の方がましとは言いましたが限度がありますね」


「申し訳ありません」


「だから誰に謝ってるんですか」


 呆れながら、指先で石を摘まむ。


 ぴく、と足が震えた。


 細い足首だった。だが頼りない柔らかさではなく、骨ばっていて、妙に軽い。きちんと食べている人間の足ではない、と触れただけでわかる。


 なんとも言えない気分のまま石を取り除き、土を軽く払ってやる。


「はい、終わりです」


 手を離すと、レイラはしばらく呆然とマルタを見下ろしていた。


「……そんな顔をしなくても、石くらい取ります」


「いえ」


 ぽつりと返る。


「取ってもらったことがなかったので」


 マルタは口をつぐんだ。


 軽口のつもりで言ったのに、返ってきたのは想像以上に重い一言だった。


 石が刺さった足を放っておかれるのが、この少年にとっては普通なのか。


 何と返せばいいのかわからず、マルタは無言で立ち上がる。


 ちょうどその時だった。


「レイラ!」


 屋敷の方から甲高い声が飛ぶ。


 さっき言っていた姉だろう。


「いつまでぐずぐずしているの! 母様がお呼びよ!」


 レイラの肩がびくりと揺れた。


 さっきまでほんのわずかに和らいでいた空気が、一瞬で冷える。


「……行かないと」


 また無表情に戻った横顔で、レイラは靴を履こうと身を屈めた。


 その、明らかに足に合わない小さな靴へ。


 マルタは思わずその手元を見下ろす。


 せっかく石を取ったばかりなのに、また痛いものを履くのか。


 ─違う。


 履かされているのだ。


 そう思った瞬間、胸の奥でじわりと熱いものが燻った。


「その靴、少し待ってください」


 履こうとしていたレイラの手が止まる。


「……何ですか」


「普段履いている靴を見せていただく約束でした」


「ああ」


 気のない返事をして、レイラは足元の靴を持ち上げた。


 マルタはそれを受け取り、眉間に深い皺を寄せる。


 改めて見てもひどい。


 革は安物のうえに乾ききって硬く、つま先は内側へ歪んでいる。何より一回り、いや二回りは小さい。無理やり足を押し込んだ跡がくっきり残っていた。


「何年前のですか」


「さあ。数年は経っているかと」


「正気ですかこの家は」


 思わず本音が漏れた。


 レイラが少しだけ目を丸くする。


「あなた、口が悪いんですね」


「靴に関しては」


 吐き捨てるように言い、マルタは靴底を親指で押した。擦り減り方もおかしい。右側だけが妙に削れているのは、痛みを庇って歩いている証拠だ。


「これではまともに歩けるわけがない……」


 独り言のように呟いて、マルタはレイラの足元を見る。


 裸足のまま所在なさげに立つその姿が、ひどくちぐはぐだった。

 顔は華やかな美少女、下は傷だらけの足。


 まるで綺麗な箱に壊れた道具を押し込めたみたいだ、とマルタは思った。


「他には」


「何がです」


「靴です。他に履いているもの」


「ありません」


「……は?」


「これだけです」


 マルタは絶句した。


「舞踏会までこれで過ごして、当日は新しい靴を履く予定だったのでしょう」


 淡々と語る声に、悪びれた様子はない。

 本人にとっては説明するほどのことでもないのだろう。


「慣れてますから」


「慣れればいい問題じゃない」


 思ったより強い声が出た。


 レイラが瞬きをする。


 マルタは自分でも驚くほど苛立っていた。

 依頼主の事情に口を出す気など本来ない。だがこれは事情以前の問題だ。


「足は道具じゃありません。潰れたら終わりです」


「……終わったところで、困る人もいませんし」


 さらりと言われて、言葉が止まる。


 あまりに静かで、冗談にも聞こえない。


 困る人がいない。


 その一言が、ひどく耳に残った。


 マルタは靴を握る手に力を込める。


「少なくとも、私は困ります」


「え?」


「こんな足で舞踏会用の靴を作れと言われたら職人として困ると言ってるんです」


 半分は誤魔化しだった。


 本当に言いたいのはそこではないのに、そこしか言えない。


 レイラはしばらくきょとんとしていたが、やがてふっと口元を緩めた。


「……あなた、変な人ですね」


「よく言われます」


「初対面の男の足を見て怒る靴職人なんて初めて見ました」


「私も初対面の職人相手に裸足で庭仕事させられてる貴族は初めて見ました」


 言い返すと、レイラは今度こそ声を漏らして笑った。


 ほんの短い、小さな笑いだった。


 けれどそれは、工房で見た作り物めいた微笑みよりずっと年相応で─ひどく無防備だった。


 その顔に、マルタは一瞬だけ目を奪われる。


 しまった、と思った時には遅い。


「……何ですか」


 訝しげに問われ、マルタは咳払いした。


「別に」


「今、変な間がありましたけど」


「気のせいです」


 ぶっきらぼうに言って靴を突き返す。


 だが妙に心臓が落ち着かなかった。


「立っていてください」


 マルタは鞄を開け、中から小ぶりの包みを取り出した。


 革の匂いがふわりと広がる。


 レイラが首を傾げた。


「それは?」


「試し履き用です。本来は採寸のあと工房で微調整するつもりでしたが、どうせその靴では話にならない」


 包みを解くと、そこには飾り気のない淡い茶色の室内履きが現れた。踊るための華やかさなど一切ない、実用だけを考えた簡易靴だ。


「……随分地味ですね」


「舞踏会用ではありませんから」


「令嬢には不評そうです」


「ええ、大抵文句を言われます」


 だからこそ、とマルタは心の中で付け足す。

 見た目より履き心地を優先した靴を、喜んで履く客などほとんどいない。


「座って」


 レイラが素直に石の縁へ腰を下ろす。


 マルタはその前にしゃがみ込み、裸足を軽く持ち上げた。


 先ほど石を取った時より、今度はずっと長く触れることになる。


 自分で言い出しておいて何だが、妙に意識してしまうのが腹立たしい。


「力を抜いてください」


「はい」


「指にも」


「難しい注文ですね」


「注文を聞くのが仕事です」


 淡々と返しながら、マルタは足先を靴へ滑らせた。


 するり、と入る。


 無理に押し込む必要もない。革が足の形に沿って、自然に収まる。


 その瞬間、レイラの肩がぴくりと震えた。


「……どうしました」


「いえ」


「何です」


 問い詰めると、レイラは少し戸惑ったように視線を彷徨わせる。


「入るんだな、と」


 あまりにも予想外の返答に、マルタは一瞬言葉を失った。


「靴なんですから入りますよ」


「そうですね」


「……普段、何を履かされていたんですか本当に」


 ぼそりと呟きながら、もう片方も履かせる。


 こちらも問題なく収まった。


 紐を軽く締め、マルタは立つよう促す。


「歩いてみてください」


 レイラはおそるおそる立ち上がった。


 一歩。


 次にもう一歩。


 石畳を踏むたび、先ほどまでのぎこちなさがない。もちろん完全ではないが、足を庇うような不自然な揺れが明らかに減っている。


 数歩進んだところで、レイラが立ち止まった。


 振り返る。


 その顔には、はっきりと困惑が浮かんでいた。


「……痛くない」


 呟きはひどく小さかった。


 だがマルタには十分聞こえた。


「当たり前です。靴は本来そういうものです」


「靴って、痛いものじゃないんですか」


 思わずマルタは絶句した。


 何を言っているんだこの少年は、と本気で思う。


「痛いものを履いているからそう思うんです」


「皆、こんな感じなんですか」


「皆というか普通は」


「……そうなんだ」


 レイラは足元を見下ろしたまま、何度かその場でつま先を動かした。

 まるで信じられないものを確かめるように。


 その仕草が、どうしようもなく幼く見える。


 たかが履きやすい靴ひとつで、そんな顔をするのか。


 胸の奥がちくりと痛んだ。


「気に入ったなら差し上げます」


 口をついて出た言葉に、自分で驚く。


 レイラも目を瞬いた。


「え」


「試作品ですし。どうせこのあと調整も必要なので」


「でも」


「返されても困ります」


 半ば押し付けるように言うと、レイラは黙った。


 それからゆっくりと、靴の上から自分の足を見下ろす。


 細い指先が、まるで壊れ物に触れるみたいに革の先を撫でた。


「……ありがとうございます」


 今度の声は、初めて少しだけ柔らかかった。


「レイラ!」


 甲高い声が中庭に響き渡った。


 二人そろって振り向く。


 グランヴィル夫人が、苛立ちを隠そうともせずこちらへ歩いてきていた。その後ろにはエリザベスもいる。腕を組み、露骨に不機嫌そうな顔だ。


「いつまでぐずぐずしているの。靴を見るだけでそんなに時間がかかるの?」


「足の状態が想像以上に悪かったもので」


 マルタが立ち上がりながら答えると、夫人はレイラの足元に視線を落とした。


「……何、その靴」


「試し履き用です。歩き方を確認するために」


「地味」


 ぴしゃりと切って捨てる。


 マルタのこめかみが引きつった。


「見た目の話ではなく」


「そんなことはわかっていますわよ。でも、こんな冴えないものを履かせてどうするの。舞踏会では誰より目立たせたいのに」


 言いながら、夫人はつかつかとレイラに近づいた。


「脱ぎなさい、それ」


 レイラの肩が小さく揺れる。


 さっきまで少しだけ和らいでいた表情が、すっと消えた。


「でも、お母様」


「脱ぎなさいと言ったのよ」


 有無を言わせぬ声。


 レイラは一瞬だけ足元を見下ろし、それから静かにしゃがみ込んだ。


 細い指が紐にかかる。


 その動作を見た瞬間、マルタの口が先に動いた。


「その必要はありません」


 夫人が眉を吊り上げる。


「何ですって?」


「この靴でなければ、正しい歩き方も足の癖も確認できません。舞踏会用の靴を作るうえで必要です」


 半分は本当、半分は咄嗟の口実だ。


 だが夫人は露骨に不満そうに鼻を鳴らした。


「そんな地味なものを履かせているところを人に見られたら困るのよ。せっかく綺麗にしているのに」


 綺麗にしている。


 その言葉に、マルタは一瞬耳を疑った。


 裸足で庭仕事をさせ、合わない靴で足を潰しておいて、どの口が言うのか。


 横で姉がくすりと笑う。


「母様、レイラにはお似合いですけどね。どうせ部屋に閉じ込めておくんですし」


 レイラの睫毛がぴくりと震えた。


 だが何も言わない。


 言い返さないことに慣れすぎている。


 その様子が、マルタの神経を逆撫でした。


「夫人」


 低く呼ぶと、夫人が不快そうに顔を向けた。


「何ですの」


「私は依頼を受けた以上、舞踏会で問題なく踊れる靴を作ります。そのために必要な確認も調整もする」


 一歩、踏み出す。


「ですが、この状態の足で見た目だけ豪華な靴を履かせても意味がない。むしろ途中で転ぶか、脱げるか、足を傷めるだけです」


「大袈裟ですこと」


「大袈裟ではありません」


 マルタは言い切った。


「舞踏会で恥をかくのは、履く本人だけではないでしょう」


 その一言で、夫人の表情がぴたりと止まる。


 マルタは畳みかけた。


「誰より輝かせたいのでしょう? ならば歩けない令嬢では話にならない」


 夫人は唇を引き結んだ。


 見栄と体裁。

 そこを突かれるのが一番効くと踏んだのだ。


 数秒の沈黙のあと、夫人は忌々しげに扇を開く。


「……わかりましたわ。好きになさい」


 勝った。


 そう思うより先に、横から小さな息を呑む音がした。


 見ると、レイラが信じられないものを見るようにマルタを見上げていた。


 夫人はなおも不満げに何か言いたそうだったが、舞踏会で恥をかくという言葉が効いたのだろう、結局それ以上は追及せず踵を返した。


「エリザベス、行きますわよ」


「はい、母様」


 義姉は去り際にレイラをひと睨みしてから後を追う。


 香水の匂いだけを残して二人の姿が消えると、中庭には急に静けさが戻った。


 風が木々を揺らす音だけがする。


 マルタは小さく息を吐いた。


「……面倒な家ですね」


 半ば独り言のつもりで漏らすと、隣からくすりと笑う気配がした。


 見ると、レイラが口元を押さえている。


「何ですか」


「いえ。あなた、喧嘩っ早いんだなと」


「売られた喧嘩を買っただけです」


「相手は依頼主ですよ」


「依頼主は靴を必要としているあなたでしょう」


 言ってから、しまったと思う。


 妙に踏み込みすぎた。


 誤魔化すように咳払いして鞄を閉じようとした、その時だった。


「どうして」


 レイラの声が背中を止めた。


「……何がです」


「どうして、そこまでしてくれるんですか」


 振り返ると、瑠璃色の瞳がまっすぐこちらを見ていた。


 試すようでも、皮肉でもない。

 本気でわからないという顔。


 マルタは眉を寄せる。


「だから仕事だと言ったでしょう」


「靴を作るだけなら、母の言う通り見た目だけ豪華なものを作れば済みます」


「済みません。私はそういう仕事はしない」


「でも、母に逆らう必要はなかった」


 レイラは一歩近づいた。

 さっき履かせた簡易靴が、石畳を柔らかく鳴らす。


「私のために言い返しましたよね」


「……買いかぶりです」


「違いますか」


 返事に詰まる。


 違うと言い切ればいいのに、うまく言葉が出てこない。

 レイラはじっと見てくる。

 こんな風に真正面から問われると、妙に落ち着かない。


「あなたは」


 ややあって、マルタはぶっきらぼうに言った。


「あなたは、あまりにも平気そうにしているから」


「え?」


「痛い靴も、裸足で働くのも、怒鳴られるのも。全部、当然みたいな顔で受け入れている」


 言いながら、胸の内の苛立ちの正体が少しずつ見えてくる。


「見ていて腹が立つんです」


 レイラが目を瞬いた。


「私に?」


「あなたにも、その家にも」


 きっぱり言い切る。


「もっと嫌がればいいでしょう。痛いなら痛いと言えばいい。おかしいならおかしいと言えばいい」


 沈黙が落ちた。

 レイラはしばらく何も言わなかった。

 やがて、ほんの少し困ったように笑う。


「……言ったところで、誰も聞きませんよ」


 静かな声だった。


 泣き言でも、恨み言でもなく、ただ長年の事実を告げるだけの声音。

 その一言が、妙に重くマルタの胸に落ちる。


 誰も聞かない。


 だから最初から言わないのだ、この少年は。


 マルタは喉の奥がつかえるのを感じた。


「……靴の不具合くらいは言ってください」


「それ以外は?」


「知りません」


 ぶっきらぼうに返す。

 するとレイラは、なぜか少し嬉しそうに笑った。


「はい。では、聞いてもらうことにします。靴職人さん」


 その笑みが、先日工房で見た作り物めいた微笑みとはまるで違って見えて、マルタは理由もなく落ち着かなくなった。


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