30
舞踏会当日、アルノー伯爵家は朝から落ち着かなかった。
エレノアはいつも以上に笑んだまま、踊り出しそうな足取りで使用人たちに指示を飛ばして回る。
ヴァンスは愛飲するコーヒーもそこそこに、支度へと向かっていった。
レオンは最後の詰めとばかりに、マルタとレイナルドに貴族名簿の問いかけをだす。
マルタは使用人たちのマッサージを受けながら、平然と答える。
そして、レイナルドは。緊張のあまり、ひどい形相をしていた。
そんなレイナルドを見て、エレノアはふう、とため息をつく。
「今日はあなたたちにとって大事な夜よ。分かっているわね?」
「はい」
グレーの礼装に身を包み、レイナルドは鏡の中を見ないよう視線を伏せた。
髪は香油をつけて、丁寧に撫で付けられた。足元には、本命と言われた靴。
夜を固めたように静かに輝くそれだけが、妙に現実味を持っていた。
綺麗でこの人らしい、とぼんやり思う。
マルタの作った靴。
その事実だけが、かろうじて息を繋がせる。
「楽しんで」
鏡越しにエレノアが微笑みかけた。
レイナルドは思わず顔を上げる。
「うまくやろうと思わなくて良いの。理由はどうあれ、2人でちゃんと行く初めての夜会でしょう。何とかなるわ、難しいことは考えないで楽しみましょう」
そうだ、あの散々な舞踏会は忘れて。初めての、ちゃんとした夜会。
レイナルドは口元をすこし持ち上げた。
「そう、そういう感じよ!」
エレノアの笑顔が移ったように、気付けばさっきより自然に笑えていた。
◇◇◇
支度を終えたレイナルドは玄関でそわそわとマルタを待っていた。自分がこんな格好をしているのは落ち着かない。
レオンは爆笑し、ヴァンスにまで口の端で微笑まれる始末だ。
だから、階上からマルタとエレノアの声が聞こえてきた時、レイナルドはほっとして見上げ───そのまま固まった。
深い瑠璃色のドレスに金の刺繍が夜空の星のように散らばり、黒髪に挿した金の花飾りが灯りを受けて輝いている。
普段は一切化粧をしない顔に薄く紅が差され、唇がいつもより鮮やかで──視線を逸らしたくても逸らせなかった。
そしてその足元には、マルタが作り上げた金の靴。
彼女が「動きづらい」と言っていたはずの靴が、今はまるで彼女の一部のように自然に光っている。
綺麗だった。今まで見てきた、誰よりも。
レイナルドの視線に気付いたのか、マルタがこちらを見る。
「動きづらいです、これ」
「最初に言うことがそれか、マルグリット」
「全くこの子ときたら、着飾ってもこうなんだから」
「まあまあ、そこが良いんじゃない?ねえ、坊っちゃん」
「…」
「坊っちゃん?」
レオンに肩を叩かれ、レイナルドははっと我に返った。
「あ、いえ、その……」
何を言えばいいのか分からない。
綺麗だ、とは思った。驚くほど似合っているとも。だがそれを口にした瞬間、自分が二度と平静でいられなくなる気がして、レイナルドは思わず視線を逸らした。
そんな彼を見て、レオンがにやりと笑う。
「あーあ、完全に見惚れてる」
「違います!」
「違わないでしょ?」
マルタが不思議そうに瞬きをした。
「見惚れるとこあります…?」
「ありますよ!」
思わず即答してから、レイナルドは固まった。しまった。
エレノアが扇で口元を隠し、ヴァンスがわずかに顔を背ける。肩が揺れているので多分笑っている。マルタはきょとんとしたまま首を傾げた。
「……そうですか?」
「そうですよ!」
「どこが」
「どこがって……」
言えるわけがない。
裾から覗く金の靴が灯りを受けるたび静かに光るところとか。その靴で真っ直ぐ階段を降りてくる姿から目が離せなかったとか。普段と変わらない顔をしているのに、今日はやけに近づきづらいとか。
そんなもの、口にできるわけがない。
レイナルドは苦し紛れに咳払いした。
「……その靴、似合ってます」
「ああ」
マルタはようやく納得したように足元を見た。
「歩きやすくはあります」
「そこなんだ……」
レオンが腹を抱え始める。
エレノアはとうとう吹き出した。
「もう駄目、面白すぎるわこの子たち」
「母上、笑いすぎです」
「あらごめんなさいね、何でもないわ」
にこにこと誤魔化される。
マルタは少し眉を寄せたが、それ以上追及はしなかった。
その代わり、ふとレイナルドの方を見る。
灰色の瞳が、上から下までゆっくり彼を眺めた。
「……あなたも、よく似合っています」
「え」
「その服」
淡々とした声。
けれどマルタの視線は何故かすぐ逸れなかった。
肩幅に合わせて仕立てられた礼装は長い脚を覆い、いつもは下ろしてある前髪は香油で整えられた。顔は見慣れているはずなのに、今日は妙に落ち着かない。思っていたよりずっと似合っていた。
──顔は良いのだから当然か。
そう結論づける。
それなのに何故か、それだけでは済まない気がして、マルタは小さく眉を寄せた。
「……?」
視線を返され、マルタははっとする。
「何でもありません」
「そ、そうですか……?」
マルタの様子が何だか分からないが、また心臓がうるさい。
レイナルドが困ったように視線を泳がせていると、レオンが満面の笑みで手を叩いた。
「はいはい、初々しい空気はその辺にして。そろそろ行かないと本当に遅れるよ」
「誰のせいだと……」
「私かな!」
全く悪びれない。
エレノアが笑いながらマルタの背を押した。
「行ってらっしゃい。楽しんできなさいな」
ヴァンスも静かに頷く。
「胸を張って行け。職人として」
その言葉に、レイナルドは小さく息を呑んだ。もう、硝子の靴の娘ではない。自分は今、工房の一員としてここにいて、隣にはマルタがいる。
「……行きましょう」
差し出された手を見て、レイナルドは一瞬だけ目を見開く。
それから静かにその手を取った。
金の靴が、灯りの下で静かに輝いていた。
◇◇◇
「マルタ靴工房様」
係に工房名を呼び上げられ、入場する。大広間は、燭台の灯りと音楽と色とりどりの衣装で眩しかった。
磨き上げられた床を、マルタとレイナルドは二人で進む。
視線が集まるのが分かった。
「あれが職人?」
「貴族にしか見えないではないか」
「誰だ、余興にしようと言ったのは!」
囁き声を、レイナルドは誇らしげに受け止める。マルタをただの職人と思ってもらっては困る。
遠巻きに囁かれる悪意を切り裂くように、若い令嬢たちが次々と声をかけてきた。
「あの、マルタ様…本日も素敵な靴ですわね」
「注文したいんですけれど、どうすれば良いんですの?」
マルタは仏頂面で答える。
「工房まで来ていただければ、作ります」
そこは笑ったほうがいいのでは、とレイナルドは思った。ほら、何なら引かれているし。
「今ありがたいことに注文が多いので、一週間後に来ていただければ良いかと」
一度貴族のルールは無視して、レイナルドはマルタに声をかけた令嬢に答えた。
「あら、そうなのね」
「どのようなデザインが良いかも考えていただけると、それを履けるように落とし込むお話も出来ますよ」
「まあでは色々考えなくては!教えていただきありがとう」
その後も同じように、レイナルドは仏頂面のマルタのフォローをしていった。
「あなた、すごいですね」
「すごい?」
「夜会なのに、工房の売り込みして回ってますよ」
確かに、何をしているんだろう。何も考えず、工房の時のように立ち回ってしまった。
一息ついた時、周囲がざわめいた。
過剰な宝石と派手な香水、高圧的な笑い声。
「あれはグランヴィル夫人では」
「あら、まだいなくなったという子を探してらっしゃるのかしら」
「ご自分の硝子の靴を作ってもらうのでは?」
辛辣な言葉も混じる中、気にした様子もなく夫人とエリザベスは近づいてきた。視界の隅で、アレクシスが気を向けているのがわかる。
「随分賑わっているわね、お母様」
「社交界も変わったものね。最近は職人まで舞踏会へ来るだなんて」
嫌みを声色にものせ、2人は言う。マルタは全く気にした様子もない。
「招待されましたので」
次の瞬間。
硬い靴先が、マルタの金の靴を強く踏みつけた。
「っ!?」
「あら失礼?」
ちっとも謝る気のない顔で、夫人は言う。
「ああでも職人ですもの、靴なんてどうにでもなりますわよね」
全てが頭から吹っ飛んだ。レイナルドは一歩前に出ると、マルタを背にする。
「…足をどけていただけますか」
「なあに、あなた。怒ってらっしゃるの?」
おほほ、と夫人は扇の奥で笑う。
「どこの若様から知らないけれど、職人に付いていてはお里が知れるわよ」
「彼女の靴は世界一だ。職人の靴を軽んじないでいただきたい」
言い切ったレイナルドを、夫人は扇の隙間からじっと見つめた。その瞳に、単なる不快感ではない、ねっとりとした確信が混じる。
「……その声、その目。見覚えがあるわ」
夫人が一歩踏み出し、レイナルドの顔を覗き込むように近づけた。きつい香水の匂いが鼻を突く。
「行方不明の姪によく似ていること。……ねえ、レイラ?」
心臓が跳ねた。周囲の空気が凍りつく。
夫人は勝ち誇ったように唇を吊り上げた。
「どこかの男と手を取り合って逃げ出したかと思えば、男の格好をして靴屋の真似事なんて。……とんだ詐欺師じゃない」
周囲がざわめく。だが、レイナルドはもう俯かなかった。
震える拳を隠しもせず、けれど真っ直ぐに夫人を見返す。
「あいにくですが、夫人がお探しの令嬢ではありません。マルタ靴工房の助手です」
「なんですって……?」
「靴は作れないですが、それでも。僕は誇りをもって働いています」
レイナルドは、マルタが作ってくれた本命の靴を一度だけ強く踏み締めた。その感触が、何よりも勇気をくれる。
そこへ、するりとレオンが割り込んできた。
「おやおや、人違いも甚だしいですね、夫人。彼は私の父が認めた、大切な客分ですよ?」
「あなた…アルノー家の若様では?」
「ご存知とは光栄です、グランヴィル夫人。妹が何かありましたか?」
「…いもうと?」
「ええ。マルタ工房の職人は、私の妹であるマルグリット・アルノーでして」
「アルノー家の、令嬢?」
周囲もざわつく。令嬢が職人なんて、という声も聞こえた。
「私も誇りをもって仕事をしています。令嬢という色眼鏡はやめていただきたい」
レイナルドの背から、マルタが出てくる。
そう、ただの令嬢でも職人でもない。マルタは、マルタだ。
平然と立つマルタを見て、レイナルドは身体の力を抜いた。そして、いつもの調子を取り戻し、ズボンの裾を上げた。
「ご覧ください、本日の我々の靴も工房で作られた物です」
「おお、男物も出来るのか」
「艶があっていい形だ」
男性陣から感嘆の声が上がる。レイナルドの意図を察したのか、マルタも少しだけ裾をあげた。
それを見て女性陣は色めき立つ。
「なんて、繊細な…!」
「輝いていると思ったのは刺繍だったのね!」
「うちの妹は本当に腕がいいんですよ」
レオンもすかさず声をあげた。そしてさも今名案を思い付いたかのように言う。
「そうだ、ぜひ踊っている時にもご注目ください。また雰囲気が変わりますよ」
「まぁ…!」
「是非拝見したいですな」
レイナルドとマルタは思わず目を見合わせる。─これでは、踊る以外の選択肢がない。
レイナルドはこほん、と息をついて気合いをいれた。特訓を思い出しながら、精一杯言葉を紡ぐ。
「最高の職人の方の腕をお借りしたい。踊っていただけますか」
「ええ、よろこんで」
マルタは今まで見たことのない笑顔を浮かべた。
◇◇◇
大広間の中央へ導き、音楽に合わせて足を運ぶ。レイナルドは自分の手が汗ばんでいることに気づいた。
マルタの手は、意外と小さかった。
いつも工房で革を裁ち、釘を打ち、金槌を振るう手。硬くて、傷だらけで、職人の手。
その手が、今、自分の手に重なっている。
レイナルドは息をそっと吐いた。
「…………緊張してますか?」
マルタが小声で尋ねてくる。いつもより少しだけ声が柔らかい気がした。
「……正直に言うと、死にそうです」
素直に答えると、マルタの肩が小さく震えた。笑ったのだろう。
一歩、二歩。
最初はぎこちなかった。特訓の記憶がよぎり、足がもつれそうになる。だが三歩目で、マルタが自然にリードを譲ってくれた。
彼女の金の靴が、床に落ちる灯りを優しく跳ね返す。
レイナルドは視線を上げた。
瑠璃色のドレスに包まれたマルタが、すぐそこにいる。いつも作業着でしか見ていない肩や首筋が露わで、化粧をした目元はいつもより大人びて見える。
なのに、灰色の瞳だけは変わらない。真っ直ぐで、少し不器用で、でも確かな熱を持っている。胸の奥が、痛いくらいに熱くなった。
少しぎこちないレイナルドに対して、マルタの動きは驚くほど滑らかだった。慣れている。
「流石ですね」
「まあ、一応学んできたので。あなたも踏まなくなりましたね」
「一応、学んできたので…」
特訓の日々を思い出し、少し遠い目になってしまう。そんな様子を見てくすくす笑うマルタ。
「……あなたが、隣にいてくれるのが不思議です」
音楽に紛れるように、レイナルドはぽつりと零した。
「僕みたいな人間が、あなたの隣に立っていていいんだろうかって、今でも思います」
マルタが少しだけ目を細めた。
「またそんなことを」
「本音ですから」
くるり、とターンする。
マルタのドレスの裾がふわりと広がり、レイナルドの指が彼女の腰に触れる。
布越しに伝わる体温が、妙に意識された。
マルタはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……私も、です」
「え?」
「あなたがここにいるのが、まだ少し不思議です」
彼女の声は、音楽にかき消されそうなほど小さかった。
「最初はただ、足の状態が許せなかった。でも今は……あなたが工房にいないと、なんだか落ち着かない」
レイナルドの心臓が、大きく跳ねた。マルタは視線を少し逸らしながら、続けた。
「あなたがいるだけで、工房の空気が変わる。……嫌な感じは、しません」
その言葉が、レイナルドの胸の奥に深く突き刺さった。音楽が情感を帯びて高まっていく。
レイナルドは勇気を振り絞って、マルタの目をまっすぐに見つめた。
「……僕はこういうの、嫌いだと思ってました」
「夜会ですか?」
「ええ。でも」
マルタをホールドする手に力がこもる。
「……好きです」
「…どうしたんです、いきなり」
グランヴィル家から離れたからだろうか。レイナルドは解放感のままに、素直に口にだすことにした。
「あなたが好きだな、と思って」
マルタは目を見開いた。
「マルタ。マルグリット。このまま踊り続けてくれませんか」
一回踊るのは社交辞令。二回踊るのは親しい関係。三回以上踊るのは。
言った後に緊張が押し寄せ、レイナルドの身体が固くなっていく。マルタはふ、と笑った。あまりに柔らかなその表情に目が奪われる。
「いつまで踊り続けますか、レイナルド?」
「靴が、すり減るまで」
「あら。それでは、すり減ったら私が作り直しましょう」
「それはいい」
レイナルドは笑った。
「あなたが作ってくれるなら、何度だって履き潰せる」
マルタが瞬きをする。
「……職人泣かせですね」
「でも、あなたならまた歩ける靴をくれるでしょう?」
その言葉に、マルタは少しだけ目を細めた。
「ええ。何度でも」
音楽が二人を包む。
ダンスってこんな幸せだったのか、とレイナルドは思った。逃げ出した夜会とはもう違う。硝子の靴の娘でもない。誰かに飾られた人形でもない。
今、自分は。自分の足で立っている。
彼女の隣で。




