29
アルノー家の一室は、すっかり臨時工房になっていた。机には革と木型、糸巻き、金具。窓際には裁断途中の革が並び、甘い革油の匂いが部屋へ満ちている。
そんな中、マルタは黙々と手を動かしていた。
工房は今、マルタの姿に変えられた護衛が代わる代わる様子を見ている。注文の受け渡しは怪しまれない程度に最低限。グランヴィル家が迂闊に手を出せないよう、密かな厳戒体制を敷いている。
だがマルタ自身は仕事を止めなかった。
「……」
木型へ革を沿わせる。
レイナルドの、訓練用の靴。踏み込みやすく、走りやすく、多少乱暴に動いても壊れないもの。
最近のレイナルドの動きを思い出しながら、細かな調整を入れる。右足へ逃げる癖。でも以前より踏み込めるようになった。
怖いくせに前へ出る。
「意味が分かりません」
ぽつりと呟いた時だった。
こんこん、と扉が鳴る。
「入るよ~」
レオンだった。後ろにはレイナルドもいる。
「あ、お邪魔でしたか」
「別に」
マルタは淡々と返した。レイナルドは部屋を見回し、少し目を丸くする。
「本当に工房みたいですね……」
「工房です」
「部屋では?」
「今は工房です」
真顔で言うと、レイナルドが少し笑った。
「見事な夫婦漫才の中ごめんね、ちょっと見て欲しいものがある」
「なんですかその言い方…」
眉をひそめ、レオンがひらひらさせている物を受け取った。金で縁取られた厚手の封筒には、丁寧な封蝋がされてある。宛名には、マルタ靴工房殿。
「これ、今日行った護衛─あ、マルグリットの姿になってる子がね、受け取ってきて。馬鹿丁寧に馬車に使者乗せて持ってきたってさ」
「へえ、物好きがいるもんですね」
「ただの物好きならいいんだけどね」
開けてみるよう促され、適当にそこら辺にあった鋏で端を切る。簡潔なメッセージカードが入っていた。文字に目を走らせること数秒、マルタは大きく息をついた。
「何だった?」
「夜会の招待状でした」
「へえ。………え?」
レオンとレイナルドが揃って目を丸くする。なんだか表情が似てきたな、とマルタはふと思った。
◇◇◇
「来週!?」
レオンの声が屋敷に響いた。
「いやいやいや、正気?職人呼びつけるとしても、普通もっと前に連絡するでしょう!?」
応接間の机には、問題の招待状。差出人は、王都でもそれなりに名の知れた侯爵家だった
『話題の工房の方をぜひ夜会へ』
書き方だけは丁寧だ。
レオンが眉をひそめ、声を落とした。
「この侯爵家、最近の流行りが最悪なんだ。自分たちの優越感を確認するために、話題の平民や職人をわざわざ夜会に招いては、作法や言葉遣いの不慣れさを嘲笑って楽しむ……そんな悪趣味な余興が十八番らしい」
「……なるほど、見世物小屋の代わりというわけですか」
マルタの瞳に冷ややかな光が宿る。
「ああ。前回の夜会でも、招待された若手画家が執拗にマナーを貶められて、二度と筆を握れなくなるまで追い込まれたって噂だ。今回も、工房の職人を招いて酒の肴にするつもりだろう。…何より、グランヴィル家が最近出入りしていた家でもある」
レイナルドは背筋が凍る思いがした。単なる嫌味を言われるレベルではない。彼らは、マルタが心血を注いでいる「職人としての誇り」を、娯楽として踏みにじろうとしているのだ。
ヴァンスの眉間には深い皺。
「断ってもいい」
「断りません」
即答したのはマルタだった。空気が少し張る。
「職人として呼ばれています」
「マルグリット」
「勿論、嫌ですが」
嫌なんだ。レイナルドは少しだけ安心した。平然としているように見えて、本当に何も感じていないわけじゃない。
マルタは淡々と続ける。
「ですが、逃げたくありません」
その声は静かだった。
「工房として呼ばれた以上、応じます」
ヴァンスはしばらく娘を見つめ、それから深く息を吐いた。
「……そう言うと思った」
「言うと思ったけどさぁ」
レオンが頭を抱え、レイナルドの顔が曇った。
「本当に行くんですか」
「行きます」
即答だった。レオンはやれやれ、と肩をすくめる。
「見世物として、なんだよ?」
「そうでしょうね。でも、私は自分の仕事を恥じていません」
迷いのない声だった。
レイナルドは唇を噛んだ。強い、この人は本当に強い。嫌味を言われても、笑われても、きっと平然と立つのだろう。
そう思った時。
「坊ちゃん」
不意にレオンがこちらを見た。
「はい?」
「君も行くでしょ?」
「え?」
「夜会」
「当然です」
レイナルドよりも先にマルタが口を開く。
「あなた、私の助手でしょう。しっかり該当しますよ、工房の方に」
思わずにやけそうになるのを、頬を噛んでたえる。工房の一員として認められたことが何よりも嬉しい。
だが。
「僕、護衛とかできませんよ」
「うん、別に期待してない」
「ひどい」
即答だった。レオンは笑いながら続ける。
「護衛は私と…まあ、アレクシスも呼べたら呼ぼう」
「アレクシス様も?」
「坊ちゃんの訓練担当だしねぇ」
レイナルドは少し複雑な顔になる。最近、アレクシスは容赦がない。だが不思議と嫌ではなかった。
レオンはそんなレイナルドを見て、ふっと笑みを薄めた。
「でもね、坊ちゃん」
「……?」
「君にしか出来ない役目がある」
部屋が少し静かになる。
「役目……?」
「マルグリットの心を守ること」
レイナルドが固まった。
「……は?」
「だから」
レオンは穏やかに繰り返す。
「マルグリットの心を守るの」
「そんなに弱いつもりはありませんが」
「え、いや、そうですよね」
「強いよ?」
レオンはあっさり頷く。
「でも傷つかないわけじゃない」
「……」
レイナルドは言葉を失った。マルタはふい、と顔を背ける。
レオンはソファへ浅く腰掛けながら続ける。
「たぶん当日も、平然としてるように見えると思う」
ちら、と兄の視線がマルタへ向く。
「嫌味言われても、品定めされても、面白がられても」
マルタは無言だった。
「でも昔から平気な顔して無理するんだよねぇ」
「兄上」
「事実でしょ?」
マルタが少し眉を寄せるが、否定しない。レイナルドは胸がざわついた。
そうだ。この人はいつも平然としている。市場で破落戸に絡まれた時ですら。だから忘れそうになる。傷つかないわけじゃないのに。
「だから坊ちゃん」
レオンの声が柔らかくなる。
「君から見て辛そうだったら連れて逃げていい」
「え」
静かな声だった。
「君はマルグリットを優先して」
レイナルドは目を見開く。
そんな役目を、守られてばかりだった自分が。
「……僕で、いいんですか」
思わず零れた声に、レオンはきょとんとした。
「何言ってるの」
そして笑う。
「マルグリットのことをよく見ている君だから任せるんだよ」
その瞬間。かたん、と小さな音がした。
見ると、マルタが珍しく紅茶をこぼしていた。
「……兄上」
耳が少し赤い。レオンはにっこり笑う。
「おや、珍しい」
「うるさいです」
マルタは無表情のまま片付ける。だがまただ耳だけ赤い。レイナルドの心臓が、また大きく鳴った。
少し甘酸っぱい空気を切り裂くように、レオンは仰々しく頭を抱えた。
「ま、それはそれとして。来週はないよ来週は!準備期間って知ってる!?」
「知りません」
「知って」
エレノアが優雅に紅茶を置いた。
「つまり急ぎで全部用意すればいいのね?」
「母上、怖い」
「仕立て屋呼ぶわよ」
そこからは戦争だった。
◇◇◇
「まず礼装!」
「はい!」
「ドレス!」
「はい!」
「宝飾!」
「はい!」
「靴!」
そこでレオンがにやりと笑う。
「それはうちの工房の本領だねぇ?」
マルタは少し嫌そうな顔をした。
「……私の靴まで必要ですか」
「必要」
レオン即答。
「お前、どうせ履き癖ついてるし普段使いのでいいやとか思ってるでしょ」
「駄目ですか」
「駄目」
エレノアまで頷く。
「夜会は戦場よマルグリット」
「戦いたくないんですが」
「向こうが戦う気満々なの」
理不尽だった。
その横で、採寸用のメジャーを持った仕立て屋がきらきらした目をしている。
「まあぁ、お二人とも素材が良いので楽しみですわ!」
「素材」
「やめてください帰りたい」
レイナルドが遠い目になる。だが仕立て屋は逃がさない。
「まずレイナルド様はこちら!」
広げられたのは灰色の布。銀鼠、薄墨、青みがかった灰。
「この辺りですと瑠璃色の瞳が映えますねぇ」
「……」
レイナルドは固まった。映える映えないといったことは未だ慣れない。
すると横からマルタが布を一枚取る。
「これで」
深い灰色。夜明け前みたいな色だった。
「えっ、即決」
「似合います」
「そんな簡単に」
「あと黒靴と合うので」
「あ」
レイナルドが止まる。
本命の靴。あの日、マルタが作ってくれた黒い靴。あれを履くのか、と急に実感が湧いてきた。
その間にも、今度はマルタ側が捕獲される。
「マルグリット様はこちらを!」
「……」
「こちらの瑠璃色なんていかがです?」
広げられた布が光を受ける。夜空みたいな深い青。そこへ金糸を重ねると、星みたいにきらめいた。
レイナルドは思わず息を呑んだ。絶対似合う。
だが当の本人は真顔だった。
「黒でよくないですか」
「よくない」
レオンが即答する。
「何故です」
「華が足りない」
「必要ですか」
「必要!」
エレノアも参戦する。
「せっかく黒髪が綺麗なんだから、暗色だけじゃもったいないわ」
「でも汚れが」
「夜会で工房仕事はしないの!」
総ツッコミだった。マルタは本気で不思議そうにしている。
レイナルドはちょっと笑いそうになった。
「……似合うと思います」
ぽつりと言うと、マルタがこちらを見る。
「何がです」
「その色」
「……」
数秒沈黙。マルタは布へ視線を戻した。
「そうですか」
耳が少し赤い。
その横で、レオンが満面の笑みになった。
「よし採用」
「待ってください」
「あと金刺繍ね!」
「何故です」
「映えるから」
「だから何故そんなに映えを求めるんですか」
レオンはにこにこしたまま答える。
「光、入れたいなぁって」
「?」
意味が分からず、マルタは首を傾げた。レイナルドも気づいていない。
灰色の礼装に、黒い靴。
瑠璃色のドレスに、金糸。
全部、相手の髪と瞳の色だということに。
その後は宝飾屋まで呼ばれた。
「こちら金細工の髪飾りなど」
「重そうです」
「軽量化しております!」
「何故そんな必死なんですか」
「職人魂です!」
職人同士の妙な会話が始まる。
レイナルドはその様子を見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。
怖さが消えたわけじゃない。
夜会も、不安も、グランヴィル家も。全部まだ怖い。
けれど。
忙しなく動くアルノー家の人々を見ていると、不思議と一人じゃない気がした。




