25
注文が増えれば、材料が足りなくなるもので。2人は久しぶりに市場に繰り出していた。
春野菜を積んだ荷に、焼きたてのパンの匂い。行き交う人々の喧騒。
レイナルドは革紐の束を抱えながら、隣を歩くマルタをちらりと見た。
「今日は早く済みましたね」
「必要なものが全部あったので」
マルタは紙袋を確認しながら答える。
欠品していた鋲も糸も買えた。これで工房へ戻れると思っていた。
─少なくとも、さっきまでは。
レイナルドはふと足を止めた。
「……?」
「どうしました」
「いや……」
視線を巡らせる。
妙な感じがした。誰かに見られているような。レイナルドの背筋がぞわ、と粟立つ。
グランヴィル家にいた頃に廊下の向こうから向けられる監視の目。逃げようとした時、背後から腕を掴まれた感触。
無意識に呼吸が浅くなる。
「大丈夫ですか?」
マルタが不思議そうに首を傾げる。レイナルドは慌てて首を振った。
「……何でもありません」
気のせいかもしれない。そう思いたかった。
だが。
市場を抜け、工房への近道に入った瞬間。
「おい」
低い声が響いた。レイナルドの肩がびくりと跳ねる。路地の先に男が二人立っていた。少し酒臭く、服は薄汚れている。
どう見てもまともではない。
「最近羽振り良いらしいなぁ、靴屋」
にやにや笑いながら近づいてくる。マルタは眉一つ動かさなかった。
「通してください」
「怖えなあ」
「おじょーちゃん相手に夢売ってるんだって?」
「硝子の靴だっけ?」
その言葉に、レイナルドの血の気が引いた。男たちは気づかないまま続ける。
「最近噂なんだよなぁ」
「その靴履けば見初められるって?」
「景気良いそうじゃねえか」
ただの嫌がらせだと、分かってる。
けれど“硝子の靴”という単語だけで心臓が嫌な音を立てる。
見つかった。
その錯覚が頭を過り、息が苦しい。
「……行きましょう」
レイナルドは反射的にマルタの腕を引いた。だが男が道を塞ぐ。
「待てよ」
にやり、と笑う。
「少しくらい愛想良くしてくれてもいいだろ?」
男の手が伸びた。マルタの腕へ。
その瞬間。
身体が勝手に動いていた。
「触るな!」
ばし、と腕を払う。男が目を見開いた。レイナルドはマルタの前へ出る。
喉が震えるし、足も竦みそうだった。
殴られたらどうしよう。掴まれたら。もしグランヴィル家の人間だったら?
頭の中はぐちゃぐちゃなのに、それでも身体だけは前に出ていた。
「……下がってください」
「でも」
「いいから」
声に全然余裕がない。それでもレイナルドは男たちを睨み返した。
「嫌がってるでしょう」
「は?」
「通してください」
男たちが顔を見合わせる。予想外だったのだろう。線の細い青年が、こんな風に前へ出るとは。
「何だお前」
「女の護衛気取りか?」
笑われても、レイナルドは退かなかった。
手は震えても、マルタを後ろへやるように立つ。
男の一人が苛立ったように舌打ちした。
「調子乗んなよ」
一歩近づいてきて、レイナルドの背筋が凍る。
怖い。本当に怖い。それでも逃げられなかった。
その時。
「へえ」
場違いなほど穏やかな声が響いた。
「うちの妹に何か用?」
男たちが振り返る。路地の入口にレオンが立っていた。
にこにこ笑っているが目だけが笑っていない。
「兄上」
「いやぁ、迎えに来て正解だったかな」
ゆっくり近づいてくるレオンに、男たちの顔色が変わった。服装も立ち姿も、明らかにそこらの男ではない。レオンは笑顔のまま男たちを見た。
「それで?」
「……っ、いや、別に」
「ただ話してただけで」
「そう」
にっこり。
「ならもう帰っていいよ」
声は優しい。なのに妙に逆らいづらい。男たちは舌打ちしながら去っていった。
足音が遠ざかる。
そこでようやくレイナルドの足から力が抜けた。
「……っ」
くら、と視界が揺れる。
「レイナルド」
マルタが腕を支えた。
「大丈夫ですか」
「だ、大丈夫……」
全然大丈夫じゃない。
手が震えているし、呼吸も浅い。
レオンがそんな二人を見て、ふっと目を細めた。
「……へえ」
「何ですか」
「いや?」
レオンはにやにや笑う。
「ちゃんと男の顔するじゃない」
レイナルドの耳が熱くなる。
「そんなんじゃ……」
「してたよ」
レオンはあっさり言った。
「怖かったくせにね」
図星だった。レイナルドは唇を噛む。
本当に怖かったし、今もまだ心臓がうるさい。だが。
ちら、と隣を見る。マルタは珍しく静かだった。灰色の目がじっとこちらを見ている。
「……何ですか」
思わず聞くと、マルタは数秒黙ったあと、珍しく小声で言った。
「ありがとうございます、守ってくれて」
守れてよかった、そう思ったところでレイナルドの意識はなくなった。




