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午後の工房は久しぶりに静かだった。
午前中に押し寄せていた客波がようやく途切れ、レイナルドは積み上がった木箱を整理しながら小さく息を吐く。
「……今日は多かったですね」
「最近ずっとです」
マルタは机に向かったまま答えた。革を裁つ手は相変わらず迷いがない。
「恋の叶う工房、でしたっけ」
「やめてください」
「でも広まってますよ」
「不本意です」
本当に嫌そうだった。
レイナルドは少し笑う。
最近、こういう何気ないやり取りが増えた。 工房で隣に立つことも自然になった。道具の場所も覚えたし、マルタの短い指示も大体分かる。
──ここにいるのが当たり前みたいだ。
そう思った瞬間。
扉のベルが鳴った。
「いらっしゃ──」
顔を上げたマルタの声が止まる。珍しい。
レイナルドもつられて入口を見た。
入ってきた男は、すらりと背が高かった。
濃紺の上質な外套に銀縁の眼鏡をかけていて、年齢は二十代くらいだろうか。整った顔立ちだが、柔らかさより理知的な印象が強い。
男は工房を見回し、それから静かに口を開いた。
「……相変わらずだな、マルグリット」
マルタが数秒沈黙する。
「お久しぶりです」
声音は平坦だった。だが微妙に空気が違う。
レイナルドは思わず二人を見比べた。
「知り合い、ですか」
すると男の視線がこちらへ向き、翠の瞳に射貫かれる。久しぶりの感覚。一瞬で“値踏み”されたと分かった。
「失礼」
男は軽く一礼した。
「アレクシス・デュノワだ」
デュノワ。どこか聞き覚えのある家名だと考えているうちに、ふと舞踏会を思い出す。
『デュノワ家三男坊という設定です』
レイナルドが固まっていると、マルタが淡々と補足する。
「兄の友人の方です」
「元婚約者、と言って欲しいな」
「…………は?」
間抜けな声が出た。
元、婚約者?いや待ってほしい。そんな話は初耳だ。
アレクシスは小さく肩をすくめた。
「随分驚かれたな」
「そ、それは……」
人付き合いがあることに驚いた?元とはいえ婚約者がいたと思わなかった?
ぐるぐる考えていると、並ぶと妙にしっくりくる二人が目に入る。どちらも姿勢が綺麗で、落ち着いていて、余計なことを喋らない。貴族同士として完成されている感じがした。
レイナルドは無意識に自分の袖を握る。
何だろう、この感じ。
胸の奥が落ち着かない。
「今日は何の用ですか」
マルタが単刀直入に聞く。アレクシスは工房の棚へ視線を巡らせた。
「最近繁盛していると聞いた」
「ええ」
「噂にもなっている」
「不本意です」
「だろうな」
少しだけ口元が緩む。笑った顔は意外と優しかった。
だが次の言葉は、やはり貴族的だった。
「だがこの規模では限界もあるだろう」
「……」
「流通も素材も、人脈も」
アレクシスは静かに続ける。
「私のところへ来れば、もっと良い革も職人も用意できる」
レイナルドの手が止まった。
それはつまり、よりを戻したい、ということでは。
マルタは無表情だった。
「お断りします」
即答。
レイナルドと対照的に、アレクシスは驚かない。
「だと思った」
「なら何故来たんです」
「確認だ」
静かな視線がマルタへ向く。
「君が後悔していないか」
一瞬だけ、工房が静かになった。
マルタは淡々と答える。
「していません」
「そうか」
本当にそれだけだった。怒りも未練も責める気配もない。ただ価値観が違った。それだけなのだと分かる。
けれど。
レイナルドの胸は妙にざわついていた。
だってこの男は、マルタの隣に立てる。貴族としても、立場としても、ちゃんとしている。それに比べて自分は何だ。居候で半端者。元“硝子の靴の娘”。
「ところで」
アレクシスの視線が再びこちらへ向く。
「そちらは?」
レイナルドの喉が詰まった。自分は何だ。何と名乗ればいい。
助手?居候?客?
言葉が出ない。
すると。
「私の助手です」
マルタが当然のように言った。レイナルドが顔を上げる。
「工房を手伝ってもらっています」
「……そうか」
アレクシスは数秒レイナルドを見た。
「随分近くに置いているな」
空気が止まる。レイナルドの顔が一気に熱くなった。
「えっ」
だがマルタは首を傾げる。
「効率が良いので」
「……なるほど」
絶対納得していない顔だった。だがそれ以上は言わなかった。アレクシスは小さく息を吐く。
「君は昔からそうだな」
「何がです」
「自覚が薄い」
「?」
意味が分からない、という顔をするマルタに、アレクシスは苦笑した。
そして踵を返す。
「邪魔した」
「ええ」
「……マルグリット」
扉の前で、アレクシスは一度だけ振り返った。
「君が望んでいるなら、それでいい」
その声音は静かだった。未練というより、確認を終えた人間の声だった。
ベルが鳴って、扉が閉まる。
工房に沈黙が落ちた。
「……随分ちゃんとした方でしたね」
ぽつりとレイナルドが言う。
マルタは革を整えながら頷いた。
「真面目な人ですよ」
「……そうでしょうね」
「優秀ですし」
「でしょうね……」
返事が沈む。マルタがちらりと顔を上げた。
「何ですか」
「え?」
「顔」
「顔?」
「暗いです」
そんなに分かりやすかったのか。
レイナルドは慌てて視線を逸らした。
「別に……」
「別にではない顔です」
「最近そればっかりですね」
「最近分かりやすいので」
逃げ道がない。レイナルドは観念したように息を吐いた。
「……お似合いだったので」
言ってしまった瞬間、しまったと思った。
マルタが瞬く。
「誰と」
「誰とって……先ほどの方と」
「そうですか?」
「そうでしょう」
だって、釣り合っている。少なくとも自分よりずっと。
胸の奥がまた重くなる。
するとマルタは少し考えるように黙り、それから平然と言った。
「二人とも暗いからじゃないですか、色味が」
「そういうことでは…」
「私はあなたの方が話しやすいです」
「……え」
さらり。本当にさらりと言う。
レイナルドの心臓はどくん、と大きく跳ねた。
マルタはそんなこと気づきもしない顔で、次の革を手に取った。
「あと」
「……はい」
「あなたの方が、工房に馴染んでます」
その言葉が、思っていた以上に嬉しくて。
レイナルドはしばらく返事ができなかった。




