20
翌朝、レイナルドは寝不足だった。理由は明白である。
昨夜、部屋に戻ってからも何度も何度もマルタの赤い耳と、最後の小さな笑みが脳裏に蘇ったせいだ。
「……何で思い出すんだ……」
鏡の前でひとり呻く。顔を洗ってもすっきりしない。むしろ寝不足で目の下が少し重い。
ただでさえこの家に来てから情報量が多いのに、今はそこへ意味の分からない胸のざわつきまで加わっている。
落ち着かないにも程があった。
深いため息をつき、レイナルドは食堂へ向かった。
◇◇◇
食堂へ入った瞬間、レイナルドは踵を返したくなった。
「おはようございます、レイナルドさん!」
朝から妙に元気なエレノア。
「おはよう、坊ちゃん」
にこにこしているレオン。
「……おはよう」
珍しく新聞を置いているヴァンス。
嫌な予感しかしない。
「お、おはようございます……」
恐る恐る席につく。
マルタはまだ来ていないらしい。少しだけほっとしてしまい、自分で自分に困惑した。
するとエレノアが早速楽しげに口を開く。
「昨日は随分仲良くお買い物していたんですって?」
「っ!?」
危うく紅茶を噴きそうになった。
「誰情報ですか!?」
「いろんな人」
「情報網が怖い!」
レオンがくすくす笑う。
「いやあ、でも当然だよね」
「何がですか……」
「君たち、そろそろ色んなことを考えた方がいいんじゃない?」
レイナルドの動きが止まる。
「……は?」
「そうだな」
ヴァンスがこちらをしっかり見つめて相槌をうつ。
やめてほしい。その重々しい相槌は本当にやめてほしい。
「いや待ってください、何の話ですか」
レイナルドが引きつった顔で問うと、エレノアがきょとんと瞬いた。
「あら?だって貴方たちずっと二人きりでしょう?」
「ぶっ」
今度こそ咽せた。
「硝子の靴を作っている頃からずーっとよねえ?」
「え、いや、あの、それは仕事で……!」
「密室で」
「工房です!」
「二人で」
「靴作ってたんです!!」
「そのあと舞踏会で踊って」
「うっ」
「帰りは夜の馬車で」
「ううっ」
「そのまま同居」
積み上げられるとひどい。レイナルドは真っ赤になって机へ突っ伏した。
「不可抗力です!」
「そうだったとしても、だ」
レオンが涼しい顔で紅茶を飲む。
「君たち、ずっと二人きりだったでしょう」
「だから仕事ですってば!」
「へえ」
「その“へえ”やめてください!」
絶対面白がっている。
エレノアなんてもう完全に微笑ましいものを見る目だ。ヴァンスは相変わらず無表情だが、止める気配がない時点で同類である。
「いやでも」
レオンが頬杖をつく。
「世間的には普通に勘ぐっちゃうよね」
「勘ぐらないでください!」
「私に言われてもなぁ」
レイナルドは思わず頭を抱えた。確かにずっと一緒にいた。工房でも、舞踏会でも、逃亡でも、その後も。
でもそれはそういう意味ではなく。
……なく?
そこで昨夜のマルタの顔が脳裏に浮かんでしまい、レイナルドは勢いよく首を振った。
駄目だ。思い出すな。余計混乱する。
その時。
「朝から騒がしいですね」
静かな声と共に食堂の扉が開いた。レイナルドの肩がびくりと揺れる。
入ってきたマルタはいつも通りだった。淡々とした顔。きっちりまとめた髪。平然とした足取り。
昨夜を思い出しているのはどうやらレイナルドだけらしく、その事実に少しだけ勝手に傷つく。
「おはようございます」
「お、おはようございます……」
何故かぎこちなくなる。
マルタは不思議そうに瞬きをしたあと、席についた。
「何の話ですか」
「責任問題」
レオンが即答する。マルタの動きが止まった。
「……は?」
「君たちそろそろ婚約でもおかしくないよねって話」
沈黙。
レイナルドの顔が一気に熱くなる。
「ちょ、ちょっとレオン様」
「何」
「何じゃありません!」
マルタの耳がみるみる赤くなっていく。
それを見た瞬間、レイナルドの心臓がどくんと跳ねた。
昨日も思った。
この人、こんな顔するんだ、と。
普段あんなに平然としているくせに、耳だけ赤くなるのがずるい。見てはいけない気がするのに、目が離せない。
「……別に、そういう話では」
珍しく歯切れ悪くマルタが言う。
その声まで少し変で、レイナルドはますます落ち着かなくなった。
レオンがにやにやしている。
「え、違うの?」
「違うとかではなく」
「嫌なの?」
「そういう話をしてるんじゃないです」
「ふうん」
絶対楽しんでいる。
レイナルドはいたたまれなくなって口を開いた。
「あ、あの!」
全員の視線が集まる。やめてほしい。
「僕は、その……」
何を言えばいい。頭の中がぐちゃぐちゃだった。
婚約。責任。マルタ。
自分なんかが、という思考が真っ先に浮かぶ,だが同時に、嫌だとも思えなかった。むしろ少し嬉しいと思ってしまった自分がいて、それが一番混乱する。
「……僕は、嬉しいですけど」
言ってから、自分で固まった。何を言っているんだ。だがもう止まらない。
「でも、あなたは……」
自然と視線がマルタへ向く。
「迷惑じゃ、ないんですか」
食堂が静まった。マルタが目を見開いている。
その顔を見て、レイナルドは急激に後悔した。
違う。こんな空気にしたいわけじゃない。困らせたいわけじゃないのに。
「……っ、すみません、変なことを」
逃げるように立ち上がる。
「ちょっと空気吸ってきます!」
「あ、坊ちゃん」
レオンの声も振り切って、レイナルドはそのまま食堂を飛び出した。
◇◇◇
食堂の扉が閉まる。
数秒の沈黙のあと、レオンがとうとう吹き出した。
「いやあ、面白い」
「兄上うるさいです」
マルタは即答したが、耳の熱が引かない。
エレノアはそんな娘を見て、ふふ、と肩を揺らした。
「若いわねえ」
「茶化さないでください」
「茶化してないわよ?」
にこにこしている。 絶対楽しんでいる。
マルタは紅茶へ口をつけた。落ち着こうとしたのに、妙に熱くて飲みにくい。
ヴァンスがぼそりと言う。
「……分かりやすい」
「父上まで何なんですか」
「別に」
全然別にではない。レオンなんて完全に面白がっている顔だ。
マルタは深々と息を吐いた。
落ち着かない。レイナルドに婚約だの責任だの向けられた時より、その後の言葉の方が妙に残っている。
『僕は嬉しいですけど、あなたは……』
自分のことより先に、こちらを気にするみたいな声。普通そこは自分の保身ではないのか。責任だ何だと言われたら、困るとか、嫌だとか、まずそういう話になるものではないのか。
なのにあの人は、真っ先にこちらを見た。その顔を思い出すと、また耳が熱くなる。
「……」
マルタは無言でカップを置いた。何なんだろう、これは。
放っておけないとは思っていた。最初から妙に危なっかしくて、無理をして、平気な顔で傷だらけの足を隠す人だったから。
だから助けた。
……助けた?
舞踏会の夜を思い出す。石段へ靴を投げ捨てた姿。裸足のまま逃げようとした背中。
腹が立った。
どうしてそこまで雑に扱うのか、と。
どうして誰も止めなかったのか、と。
気づけば手を掴んでいた。逃がさないように。
「……」
そこで思考が止まる。逃がしたくなかった?何故?マルタは真剣に考え込んだ。
数秒後。
「……まさか」
「何その顔」
「私、虐げられている人を助けるのが好きなんでしょうか」
ぶふっ、とレオンが盛大に吹き出した。エレノアが顔を覆って震えている。ヴァンスは新聞を下ろし、静かに娘を見た。
「違うと思うが」
「違います?」
「多分な」
マルタは眉を寄せた。
では何なのか。分からない。本当に分からない。ただ一つだけ分かるのは。
今さらグランヴィル家へ返す気は、全くないということだった。




