18
翌朝。
レイナルドは朝から妙にそわそわしていた。
理由は分かっている。
今日はエスコートの実地訓練とやらで、マルタとともに街へ出ることになっているからだ。
訓練と言われても不安しかない。
何せ昨日まで廊下で歩かされ、音楽室で踊らされ、椅子の座り方まで矯正されたのだ。これ以上何をさせるつもりなのか。
食堂で紅茶を飲みながら沈んでいると、エレノアが上機嫌で現れた。
「まあ、二人とも支度は済んだの?」
「済みました」
マルタが淡々と答える。
レイナルドも一応頷いた。
今日は濃紺の上着に明るい灰色のベスト、黒の細身のズボンという、いかにも貴族の若者らしい格好をさせられている。鏡を見るたび未だに落ち着かない。
エレノアはそんな二人を見比べ、満足そうに手を叩いた。
「うんうん、いいじゃない。見違えたわ」
「……そうですか」
「これならどこに行っても大丈夫ね」
「ありがとうございます…」
「あら、本当よ?」
にこにこと笑うエレノアに、褒められている気が全くしない。
その横でマルタは平然とパンを齧っている。助け舟は期待できそうにない。
エレノアはレイナルドの襟元をぐいと整えながら、ふふ、と声を潜めた。
「社交界の奥様方が見たら放っておかないでしょうねえ」
「母上」
マルタが即座に止める。
「余計なことを吹き込まないでください」
「はいはい」
軽く受け流される。
そこへヴァンスが無言で一通の封筒を差し出した。
「え」
レイナルドが受け取ると、中には数枚の紹介状らしきものが入っていた。
「馴染みの店に話は通してある」
「……話?」
「アルノー家の客人としてだ」
短い説明に、レイナルドはぱちぱちと瞬く。
「うちの名で入る。遠慮するな」
「は、はあ……」
遠慮するなと言われても遠慮しかない。
エレノアがにっこり笑った。
「堂々としてなさいな。変におどおどしてると、こちらが連れて歩く甲斐がないでしょう?」
「連れて歩く甲斐って」
「冗談よぉ」
多分冗談ではない。
レイナルドが焦っていると、後ろでレオンが肩を震わせていた。
「いいねえ、楽しい空気だ」
「兄上、黙ってください」
「はーい」
誰も止まらない。
レイナルドは朝からどっと疲れを感じながら席を立った。
嫌な予感しかしない。
◇◇◇
王都の街は今日も賑わっていた。
石畳を行き交う馬車、人、人、人。
呼び込みの声、店先に並ぶ花や果物、焼き菓子の匂い。
その雑踏の中で、マルタは迷いなく歩いていく。
「遅いです」
「待ってください、人多いんですって」
「そういう時こそ前を歩く」
振り返りもせず言われる。
レイナルドは慌てて歩幅を広げた。昨日の特訓を思い出し、肩を開いて、目線を上げる。道の真ん中を歩く意識。……難しい。
「で、今日は何をするんですか」
「買い出しと、注文靴の確認と、ついでに実地訓練」
「ついでが重い!」
思わず声が裏返った。
マルタはそんなことお構いなしに、すっと右手を差し出してくる。
「人が多いので」
「……え」
「女性を安全に通す時は?」
「…………手を貸す」
「正解」
淡々と促され、レイナルドはぎこちなくその手を取った。
マルタの指先は相変わらず少し硬い。職人の手だ。
だがそこに意識を向ける余裕もなく、レイナルドは周囲の視線が気になってたまらなかった。
「変じゃないですか」
「変です」
「変なんだ!?」
「肘が引けてます」
「どうしろと」
「自然に」
「その自然が分からないんですが」
容赦がない。
何とか手を支えながら人混みを抜ける。
だが一軒目の帽子店に着いた瞬間、店員の女性がぱっと顔を輝かせた。
「まあ、アルノー伯爵家からのお客様ですね」
レイナルドが固まる。
「……え」
「奥様から伺っております。例の青年の方ですね」
例の青年。
何だその不穏な呼ばれ方は。
隣でマルタが平然と帽子を見始める。
「兄上か母上ですね」
「いやいやいや待ってください何を伺ってるんですか!?」
「知りません」
「知らないで済ませます!?」
店員はにこにこしているだけで何も教えてくれない。だが明らかに「何か」は聞いている顔だった。
帽子店を出たあとも同じだった。
手袋店。
文具店。
馴染みの菓子店。
どこへ行っても、
「まあ、アルノー家の」 「お話は聞いております」 「どうぞごゆっくり」
この反応。
レイナルドは店を出るたびに青ざめていった。
「……何を話したんでしょうエレノア様」
「母上はお茶会でよく喋ります」
「嫌な情報ありがとうございます!」
「でも多分悪いようには言ってません」
「そこが余計怖いんですけど」
悪意がないのが一番怖い。
レイナルドが頭を抱えていると、マルタは小さく首を傾げた。
「何がそんなに嫌なんですか」
「嫌というか…怖いんですよ」
「?」
「僕が知らないところで僕の話が広がってるの怖いでしょう普通!」
「そうですか」
そうですか、で済ませないでほしい。
だがマルタは本当に不思議そうな顔をしただけだった。
助けていただいている身の上ではあるが、この家の人間は全員ちょっとおかしい。
そうこうするうちに、最後の目的地らしい仕立て店へ入る。
上質な布がずらりと並ぶ店内で、恰幅のいい店主が恭しく頭を下げた。
「お待ちしておりました、マルグリット様、レイナルド様」
名前まで知られている。もう駄目だ。
レイナルドは遠い目になった。
「こちら、レイナルド様に似合いそうな春物をいくつか」
「ありがとうございます…」
店主はレイナルドの様子を気にしているのかいないのか、にこやかに布地を広げている。
若草、ラベンダー、ライトグレーに、ブラック。
レイナルドはそっとマルタに尋ねた。
「春物って、こういう色も使うんですか?」
「あまりそういうイメージはないですね。もう少し明るめでは」
「やっぱり?」
囁きあう二人に何を思ったのか、店主はより笑みを深くしてラピスラズリの布地をだした。
「こちら、刺繍も承っておりまして。この色に銀糸で刺繍をしても映えるかと」
このように、と見本でだされた刺繍は確かに美しかった。が、見ているとなんとなく連想する人がいる。
隣を見ると、マルタは平然と布地を指先で確かめていた。
「この色で」
「ちょっと待ってください」
「似合いそうなので」
「今それどこれでは…」
「合いませんか?」
マルタが布を持ち上げる。
深い青紫。銀糸を入れれば夜空のように光を弾くだろう。
そして何より、その色は。
レイナルドは思わずマルタの瞳を見た。
灰色。だが光の加減によって、時折ほんのり青みを帯びる。
この色によく似ている。
マルタはそんな視線に気づきもせず、引き続き真剣な顔で布地を確かめていた。
そういうことでは、と言いたいのに、店主が「お似合いになりますとも」と満面の笑みで畳みかけてきて、レイナルドは完全に言葉を失った。
何だこれ。何なんだ本当に。
けれど。
そんなふうに思いながらも、隣で当然のように自分の上着を選ぶマルタを見ていると、胸の奥が少しだけ妙に落ち着かない熱を持つ。
逃げたいのか、嬉しいのか、自分でも判別がつかなかった。
ただ一つ確かなのは──
多分もう、遅いのかもしれないということだった。




