16
レイナルドは朝食の席についた瞬間から嫌な予感がしていた。
伯爵夫妻は朝から出掛けているという。そんな中、向かいに座るレオン妙に爽やかな笑顔を浮かべていたからである。こういう時のこの男は大抵ろくでもないのは分かってきた。
「さて」
案の定、食後の紅茶を置いたところでレオンがぱん、と手を打った。
「坊ちゃん再教育の時間だ」
レイナルドの手が止まる。
「……本当にやるんですか」
「当然」
にこやかに即答された。
「昨日市場で何て言われたか忘れた?」
思い出したくもない記憶が蘇る。
──女々しい兄ちゃん。
レイナルドはそっと顔を覆った。
「忘れたいです……」
「忘れさせません」
横からマルタが無情に言う。
「目立ってました」
「二人して容赦ないですね!?」
「だって本当に目立っていたんだもの」
レオンは肩をすくめて立ち上がった。
「グランヴィル家がまだ硝子の靴の娘を探している以上、あの癖は早急に消さないといけない。ほら、立って」
「嫌な予感しかしないんですが」
「正解」
正解しても困る。
だが逃げられる空気でもなく、レイナルドは渋々席を立った。
◇◇◇
「まずは歩き方」
レオンが腕を組む前、広い廊下の端に立たされる。
「向こうまで歩いてみて」
「歩くだけですよね?」
「歩くだけだよ」
それなら何とかなるだろうと、レイナルドは普通に歩き出した。
三歩で止められた。
「駄目」
「早い!」
「歩幅が狭い。つま先から出てる。肩が閉じてる。あと腰が引けてる」
隣でマルタまで頷いた。
「昨日も思いましたが、足運びが完全に女です」
「えっ」
レイナルドは反射的に自分の足元を見た。
「そんなに……?」
「そんなに」
「そんなに」
兄妹揃って即答した。
少し傷つく。
「8年染みついたものはそう簡単には抜けないよ」
レオンは面白そうに腕を組む。
「グランヴィル家が探してるのは硝子の靴の娘。髪を切っただけじゃ安心できない。少なくとも見た目も動きも『青年』にしないと」
正論すぎて言い返せない。
レイナルドは渋々背筋を伸ばした。観念して歩き出す。
だがまた数歩進んだところで、レオンが即座に手を叩いた。
「はい駄目ー」
「早い!」
「さっきも言ったけど肩がすぼんでて、肘が身体に寄りすぎ。目線が低い」
「そんな一気に言われても!」
「あとなんか遠慮して歩いてる」
「歩き方に遠慮とかありますか!?」
「あるよ。君は『通ってもいいですか』って歩き方してる」
意味が分からない。
しかしマルタまで腕を組んでじっと観察している。
「確かに」
「確かにじゃない」
「道の真ん中を歩く意識で」
「急に偉そうにしろってことですか」
「貴族の男は大体偉そうです」
「偏見」
「事実です」
偏見ではなかったらしい。
何度か往復させられるうちに、レイナルドはだんだん自棄になってきた。
肩を開き、歩幅を広げ、なるべく堂々と。
するとレオンがにんまりする。
「お、少しマシ」
「少し……」
「まだ『男になりたて』感あるけど」
「褒めてないですよね?」
「勿論」
ぐったりしたところで、次は椅子が運ばれてきた。
嫌な予感しかしない。
「座り方」
「まだあるんですか」
「あるに決まってるだろう」
レオンは優雅に椅子へ腰掛けてみせる。
「男は膝を閉じすぎない。背もたれに変に縮こまらない」
レイナルドも真似をする。が。
「窮屈そう」
マルタが目を細めて言う。
「借りてきた猫みたい」
レオンがにやつきながら言う。
「……」
やめたい。
本気でやめたい。
「次、物を取る所作」
「まだ!?」
「次、使用人への指示」
「えぇ……」
「次、エスコート」
「もう勘弁してください!」
悲鳴は誰にも届かなかった。
そして午後。
とうとう音楽室へ連行される。
「何でこんな本格的なんですか」
「ダンスは貴族の基本だからね」
レオンは軽やかに肩をすくめた。
中央ではマルタが待っている。
今日は珍しく簡素なドレス姿で、いかにも練習用という感じだ。
「男側を覚えてください」
「女側しか知らないんですけど……」
「知ってるだけマシです」
確かにゼロよりはマシかもしれないが、問題はそこではない。
手を取る位置。腰へ回す距離。踏み出す足。
全部がぎこちない。
「近いです」
「これ以上離れたら踊れません!」
「では遠いです」
「どっち」
「リードしてください」
「無理です!」
音楽もないのに開始三十秒で足がもつれた。
マルタの靴先を思いきり踏む。
「痛っ」
「す、すみません!」
「謝る前に立て直してください」
「できませんよ!」
レオンが壁際で腹を抱えて笑っている。
「これはひどい」
「笑ってないで助けてください!」
「いやあ期待以上だ」
期待しないでほしい。
レイナルドはマルタと再び組み直す。
右、左、ターン。
頭では分かる。だが身体が勝手に“受ける側”の動きをしようとする。導くより先に導かれようとしてしまうのだ。
何度目かの失敗のあと、レイナルドはついにその場にへたり込んだ。
「……無理」
「無理ではありません」
マルタが息一つ乱さず見下ろしてくる。
「8年分です。今日で何とかなるとは思ってません」
「慰めになってない……」
レイナルドは膝を抱えた。
男に戻ったつもりでいた。髪を切って、服を変えて、名前を呼ばれて。
それで終わりだと思いたかった。
でも違う。
歩き方も、座り方も、手の差し出し方も、踊り方も。身体の隅々にレイラが染みついている。
レイナルドは顔を伏せた。
「……僕、全然戻れてないんだな」
ぽつりと落ちた声に、部屋が少し静かになる。
レオンも笑うのをやめた。
マルタはしばらく黙り、それからレイナルドの前にしゃがみこんだ。
「戻る必要あります?」
「え」
「昔の少年に、という意味なら」
灰色の目がまっすぐこちらを見る。
「別にあの頃のままになる必要はないでしょう」
レイナルドは瞬く。
「でも……」
「あなたはあなたです」
簡単に言う。
まるでそれで十分だとでもいうみたいに。
「男の所作は練習すれば身につきます。踊りもそのうち覚えます」
そしてマルタはすっと手を差し出した。
「立ってください」
反射的にその手を取る。
引かれて立ち上がると、マルタは当然のようにもう一度距離を詰めた。
「もう一回」
「まだやるんですか……」
「当たり前です」
「鬼……」
「はい一歩目」
半泣きで足を出す。やっぱりぎこちない。
ぎこちないが、今度は転ばなかった。
レイナルドが慎重に踏み出すたび、マルタが淡々と修正を入れる。
「右」
「はい」
「近い」
「はい」
「今踏みました」
「すみません!」
壁際で見ていたレオンが、くくっと喉を鳴らした。
「うん、まあ酷いけどゼロではなくなってきたね」
「酷いは余計です……」
「安心して。今日で歩行、所作、ダンス。で、明日は─」
嫌な予感がしてレイナルドは顔を上げる。
「……明日は?」
レオンはにっこり笑った。
「社交界の青年らしい会話と、女性へのエスコート実践かな」
沈黙。
「…………帰りたい」
「帰る場所は?」
「ないですけど!」
「じゃあ頑張ろう」
爽やかに切り捨てられた。
レイナルドが絶望している横で、マルタは平然と頷く。
「必要ですね」
「あなたまで!?」
「舞踏会でぼろを出されても困ります」
「舞踏会!?」
何でそこまで話が飛ぶのか。
目を白黒させるレイナルドへ、レオンは楽しそうに片眉を上げた。
「せっかく硝子の靴の娘が消えたんだ。次はちゃんと、別人として社交界に立ってもらわないと」
「……は?」
「面白くなってきたでしょう?」
全然よく分からない。分からないのに、兄妹はすでに何か企んでいる顔をしている。
嫌な予感しかしない。
それでも。
差し出されたマルタの手を、レイナルドはまだ離せずにいた。




