14
翌朝。
男物の簡素な上着に袖を通し、短くなった髪を手櫛で整えながら、レイナルドはまだ鏡の前で落ち着かずにいた。
何度見ても見慣れない。
だが昨日ほどの違和感はない。少なくとも、長い髪が頬に張り付く鬱陶しさは消えた。
扉の向こうから、マルタの平坦な声が飛ぶ。
「まだですか」
「今行きます!」
返事をして部屋を出ると、廊下でマルタが腕を組んで待っていた。
「お待たせしました」
「女の格好より早く済むでしょうに。行きますよ」
「すこし、心の準備を……」
「不要です」
「雑ですね!」
抗議も虚しく、そのまま玄関へ、そして馬車へ押し込まれる。
御者が鞭を鳴らし、馬車は王都の通りへ滑り出した。
窓の外を流れる街並みに、レイナルドは落ち着かなく視線をさまよわせる。
王都ではグランヴィル家が自分を探している。 硝子の靴の娘として噂になっているのに、のこのこ町へ出るなど危険ではないのか。
少し不安に思いつつマルタに目をやった。
「で、どこへ行くんです」
「着けば分かります」
「その台詞好きですね……」
マルタは答えず、向かいの席で腕を組んだままだ。
相変わらず説明が足りない。
だが不思議と、昨日より息苦しさはなかった。 屋敷の中でじっとしているより、こうして街の景色が流れていく方がまだ気が紛れる。
やがて馬車がゆるやかに止まる。
「降りますよ」
促されるまま外へ出た瞬間、レイナルドは目を丸くした。
「……え」
見覚えのある木の看板。そこは見慣れた靴工房の前だった。
「工房……」
「そうです」
マルタが当然のように鍵を取り出す。
レイナルドはぽかんと看板を見上げた。
昨日まで通っていた、狭くて少し薄暗い、革と糸の匂いが染みついた場所。貴族の大屋敷よりよほど見慣れていて、よほど落ち着く。
胸の奥から、ふっと力が抜けた。
「……なんだ」
「何です」
「いや……」
安心した、とは何となく癪で言えない。
その代わりレイナルドは小さく肩を落とした。
「もっと変なところ連れていかれるかと思いました」
「変なところとは」
「貴族の家とか?」
「うちは貴族です」
「そこなんだよなあ……」
まだ納得していない顔のままぼやくと、マルタがほんの少しだけ口元を緩めた。
「今日はここで働いてください」
「え?」
「助手に採用したでしょう」
さらりと言われて、レイナルドは言葉に詰まる。
マルタは何でもないことのように扉を開ける。
「私は仕事があります。あなたには手伝ってもらわないと」
見慣れた木の作業台。革の匂い。窓際に並ぶ道具。数日前まで通っていたはずなのに、やけに懐かしい。
「……ただいま」
無意識に呟くと、マルタがちらりとこちらを見た。
「何か言いましたか」
「別に」
誤魔化して中へ入る。
工房の空気は相変わらずで、妙に胸が落ち着いた。アルノー家の豪奢な客間より、よほど息がしやすい。
「で、僕は何をすれば」
「その革を押さえてください」
「はい」
即答で仕事が振られる。あまりに自然で、少し笑ってしまった。
「何です」
「いや、坊ちゃま扱いされないなと思って」
「ここでは邪魔か役立つかの二択です」
「ひどいな」
だが嫌ではない。
革を押さえ、糸を渡し、棚の上の箱を取り、木型を運ぶ。スカートを気にしなくていいだけで動きやすさが段違いだった。
高い棚の道具をひょいと取って渡すと、マルタが手を止める。
「……そこ届くんですね」
「届きますよ」
「今までそんな身長ありました?」
「ヒール履いてたからもっとあったはずですけど、ドレスだったのであまり大きく動かなかったんですよ」
「へえ。便利」
「今まで何だと思ってたんです」
「足手まとい」
「ひどい」
けれど口元が緩む。こんなやり取りが、やけに心地いい。
昼近くには、いつものように作業台の上にパンとスープが広げられた。
「工房で食べるんですね」
「当たり前です」
向かいに座り、湯気の立つスープを啜る。
静かな昼だ。外から市場の喧騒が遠く聞こえるだけ。
レイナルドはパンをちぎりながらぽつりと言った。
「……何か、変な感じです」
「何が」
「ここに普通に座ってるの」
マルタが小さく首をかしげる。
「前も座ってたでしょう」
「そうですけど……前と違う」
うまく説明できない。でも、ここにいていい気がしてしまうのが不思議だった。
マルタは少しだけ黙り、それからスープ皿を置いた。
「慣れますよ」
「そんな簡単に」
「私も最初はこの工房に慣れませんでした」
「え」
「伯爵家よりよほど狭くて寒かったので」
さらっととんでもないことを言う。
「比較対象がでかいな……」
「でも今はここが一番落ち着きます」
平坦な声なのに、どこか柔らかい。
レイナルドが何か返そうとした、その時だった。
だん、だん、だん!
工房の扉が乱暴に叩かれた。
二人ともびくりと顔を上げる。次いで、聞き覚えのある甲高い声が外から響いた。
「開けなさい!いるのでしょう!」
レイナルドの手からパンが落ちた。
「──っ」
全身の血の気が引く。
この声は。
「お母様……」
昼の静けさを叩き割るように、再度工房の扉が激しく鳴る。
「開けなさい!」
聞き慣れた甲高い声に、レイナルドの全身が硬直する。
「……っ」
マルタは一瞬だけ眉を寄せ、それからすぐ立ち上がる。
「奥へ」
「え」
「早く」
低く言われて、レイナルドは弾かれたように動いた。
作業場の横には、革や芯材を置くための小さな物置部屋がある。普段は半開きのその扉を、マルタが素早く開けた。
「ここにいてください。声を出さない」
「で、でも」
「早く」
有無を言わせぬ口調に押し込まれる。
レイナルドが中へ入ると、マルタは扉をしめた。外の様子は見えないが、声は十分聞こえる。
その直後、今まで以上の勢いで扉が軋んだ。
「聞こえないの!?開けなさいと言っているのよ!」
マルタは何事もない顔で表の扉へ向かった。
からん、とベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
レイナルドは恐怖で叫びだしたいほどなのに、マルタは営業用の声だ。妙に腹が立つほど落ち着いている。
入口に立っていたのはグランヴィル夫人とエリザベスだった。二人とも外出用の帽子と手袋をつけているが、顔色は険しい。後ろに護衛の男が一人控えていた。
夫人は工房へ足を踏み入れるなり、辺りを睨み回した。
「あなた、よくもやってくれたわね」
「何か不具合でも」
マルタは作業台の前で立ったまま首をかしげる。
「不具合?」
夫人の声が裏返る。
「不具合ですって!?あんな靴を納めておいて!」
レイナルドは物置の中で息を止めた。
靴。
やはりその話だ。
「どの点でしょう」
「どの点も何もありません!」
夫人が扇をばんと閉じる。
「舞踏会であれだけ人目を集める靴にしておきながら、足の傷が透けて見えるなんてどういうつもり!?」
胸の奥がどくりと鳴った。
レイナルドは思わず自分の足先を見下ろす。 黒革の靴の中に隠れた、傷だらけの足。
物置の薄暗がりで、指先がじわりと冷えた。
表では、マルタが瞬き一つせず答える。
「確認ですが」
「何よ」
「ご依頼は“目立つ靴”でしたよね」
「……ええ、そうよ」
「王宮の舞踏会で誰より目を引くものを、と」
「言ったわ」
「印象に残るものを、と」
「そうよ。それが何」
マルタは淡々と頷く。
「その通りに作りました」
一拍、空気が止まる。
夫人の顔が引きつった。
「問題はそこじゃないと言っているの!」
「ではどこです」
「傷よ!」
甲高い声が工房中に響く。
「足があんな……あんな見苦しい状態だと分かっていたなら、隠すのが職人でしょう!」
物置の中で、レイナルドの肩がぴくりと震えた。
見苦しい。
聞き慣れた言葉なのに、今日は妙に深く刺さる。
マルタはほんの少しだけ目を細めた。
「隠せと言われていません」
「言わなくても分かるでしょう!」
「分かりません」
きっぱり。
「私は足に合わせて靴を作ります」
静かな声が、工房の木壁にまっすぐ当たる。
「足そのものをなかったことにはできません」
夫人が息を呑んだ。
エリザベスが不安げに母を見る。
「しかも」
マルタはさらに続けた。
「完成時、現物確認はしていただきました」
夫人の扇がぴたりと止まる。
「……」
「納品前に実際に履いていただき、問題ないとおっしゃった」
「それは……」
「修正のご要望もありませんでした」
逃がさない言い方だった。
「違いますか」
沈黙。
夫人の唇がわななく。
物置の中で、レイナルドは扉にそっと手をついた。
そうだ。夫人はあの時、何も言わなかった。
自分の足に傷が浮いているのを見ても、ただ綺麗だと笑っていた。
靴が綺麗で目立つなら、それでよかったのだ。
「……あなた」
夫人が低く吐き出す。
「私に責任があるとでも言いたいの」
「言っていません」
マルタは即答した。
「注文通り作り、確認通り納めたと言っているだけです」
淡々としているのに、少しも退かない。
「ですが」
一呼吸置く。
「履く人間の足を見ず、靴だけ見ていたのは私ではありません」
レイナルドは息を止めた。
夫人もエリザベスも言葉を失う。
その沈黙が、何より雄弁だった。
工房の外を荷車が通り、がらがらと遠い音がする。なのにこの工房の中だけ、しんと静まり返っていた。
やがて夫人は扇を強く握りしめ、きっと踵を返す。
「……もういいわ」
「お母様?」
「こんな職人に何を言っても無駄よ」
吐き捨てる声は震えていた。怒りか、悔しさか、それとも別の何かかは分からない。
エリザベスが慌てて続く。
去り際、夫人は一度だけ振り返った。
「覚えていなさい」
「ご贔屓ありがとうございました」
マルタはさらりと頭を下げる。嫌味と営業が混ざった完璧な一礼だった。
ばたん、と扉が閉まる。
足音が遠ざかり、ようやく工房に静寂が戻った。
しばらくして、物置の扉がゆっくり開く。レイナルドが顔を出したが、ひどく青い。
「……聞こえましたか」
「全部」
声が少しかすれている。
マルタは何でもない顔で作業台へ戻った。
「そうですか」
「そうですかじゃないでしょ」
レイナルドはふらふらと出てきて椅子に腰を落とした。
「今の……」
うまく言葉にならない。
怒鳴り込んできた夫人よりも。それに平然と返したマルタよりも。
自分の足を見ても何も感じていなかった夫人の事実が、胸のどこかを鈍くえぐっていた。
マルタは革包丁を手に取りながら、ぼそりと言う。
「クレーム処理です」
「そんな軽いものじゃない……」
「軽くしないとやってられません」
その言い方に、レイナルドは顔を上げた。
マルタは作業台を見たまま続ける。
「私の靴に文句を言われるのは構いません」
一拍。
「でも、作った物を見ずに飾りとしてしか扱わない人間は嫌いです」
静かな声だった。
レイナルドはしばらく何も言えなかった。やがて小さく息を吐く。
「……あなた、怒ってたんだ」
「当たり前でしょう」
そこで初めて、マルタは少しだけ眉をひそめた。
「誰の足に合わせて何日削ったと思ってるんです」
その言葉が妙に可笑しくて、でも胸が熱くて。
レイナルドは俯いたまま、かすかに笑った。
◇◇◇
レイナルドの方をちら、と見てマルタは内心舌打ちした。
──家だと萎縮するようだから工房に連れ出したのに。
これでは逆効果だ。
何か他の、気が紛れるものはないだろうか。
しばし考え、マルタは作業台の上を見回した。
未処理の革。
削りかけの木型。
留め具の山。
……あるではないか。山ほど。
「ちょっと」
返事がない。
「レイナルド」
びくりと肩が跳ねて、ようやく青い顔がこちらを向く。
「は、はい」
「そこに立っていても邪魔です」
「え」
「留め具の仕分けをしてください。大きさ順に」
「……今?」
「今です」
問答無用で真鍮の留め具が入った箱を押しつける。
レイナルドは呆気に取られた顔でそれを受け取った。
「いや、でも……」
「暇でしょう」
「暇とかそういう問題じゃ」
「私が問題です。さっきので予定が潰れて苛立ってるので、黙って手を動かしてください」
理不尽だ。
あまりに理不尽で、レイナルドはぽかんとした。
だがマルタは本気で言っているらしく、もう革包丁を手にいつもの調子で作業を始めている。かつ、かつ、と小気味よい音が工房に響いた。
その音を聞いていると、不思議と先ほどまで耳にこびりついていた夫人の怒声が少し遠のく。
「……横暴だなあ」
「今さらですか」
「今さらか」
気の抜けた返事をしながら、レイナルドは箱の中身を机に広げた。
小さな金具がじゃらりと転がる。大中小。微妙に形も違う。以前なら面倒だと思っただろう。
だが指先でひとつずつ拾い分けていると、呼吸が少しずつ整っていく。
無心で並べる。また並べる。
しばらくして、レイナルドはぽつりと呟いた。
「……聞こえてました」
「何が」
「さっきの」
マルタの手が一瞬だけ止まり、すぐにまた動く。
「でしょうね」
「怒鳴り声、久しぶりに聞いたら」
喉がひりつく。
「情けないくらい、身体が勝手に縮こまって」
留め具を摘んだ指先に力がこもる。
「もう逃げたのに。もうあの家にいないのに」
まだ怖い。
その言葉を飲み込むように、レイナルドは唇を噛んだ。
すると向こうから、呆れた声が飛んできた。
「当たり前でしょう」
「……え」
「8年染みついたものが一日で消えるわけないです」
さらりと言って、マルタは革を裁断する。
「むしろ消えたら気味が悪い」
レイナルドは瞬きをした。
もっと、情けないとか、しっかりしろとか、言われると思っていたのに。
「怖がってもいいんです」
かつ、と革包丁の音。
「ただ」
マルタは顔を上げた。
灰色の目がまっすぐレイナルドを見る。
「もう、戻らなくていい」
その一言が胸の真ん中に落ちた。静かで、でもやけに重い。
戻らなくていい。
誰にも今まで言われなかった言葉だ。
戻るのが当然で、従うのが当然で、耐えるのが当然だったから。
レイナルドは箱の上で手を止めたまま、しばらく動けなかった。
こんこん、と工房の扉が叩かれる。
「っ!?」
レイナルドの肩が跳ね上がり、目を見開いた。
「落ち着いてください」
「落ち着けるか!」
マルタが呆れて立ち上がり、扉を開ける。
そこに立っていたのは、にこにこ顔だった。
「やあ」
「兄上」
レオン・アルノーがひらりと手を振る。
レイナルドは目に見えてほっと息を吐いた。
「……なんだ」
「なんだとはご挨拶だなあ。私は平和を運んできたのに」
「平和……?」
「うん」
レオンはにっこり笑って言った。
「お父様とお母様がお呼びだよ」
数秒の沈黙。
レイナルドの顔からすうっと血の気が引いた。
「……平和?」
「アルノー家的にはね」
「僕的には全然平和じゃないんですが!?」
「大丈夫大丈夫、食べたりしないよ」
「その慰め文句初めて聞きましたけど怖いです!」
椅子から半ば立ち上がりかけて、また座る。逃げたいが逃げられない。
伯爵家の両親。つまりマルタの父母。つまり、本物の貴族。しかも娘が正体不明の男を拾ってきた件である。
会うしかないのだろうが、会いたくない。
「兄上」
マルタが低く呼ぶ。
「脅かさないでください」
「脅かしてないよ、事実を伝えただけだ」
「事実が一番怖いんです」
レイナルドが真顔で言うと、レオンは楽しそうに肩を揺らした。
「まあ安心して。叱られるのは主にマルグリットだから」
「それも嫌なんですけど!?」
叫んでから、レイナルドははっとマルタを見る。
マルタは無表情だったが、ほんの少しだけ眉間に皺が寄っていた。
やはり、平気ではないのだ。
当たり前だ。自分を連れ込んだせいで家族会議になるのだから。
レイナルドはごくりと唾を飲み込んだ。
「……行けば、いいんですよね」
「ええ」
マルタが短く答える。
「多分死にはしません」
「多分ってつけるのやめてもらえます?」
レオンが声を立てて笑う。
「よし、決まり。では二人とも、観念して応接間へ」
工房の外を示される。
立ち上がったレイナルドは、工房の中を見返した。マルタの革は途中で切りかけのまま。自分がしていた仕分けもまだ半分。
さっきまで少し落ち着いていた胸が、また嫌な速度で脈打ち始める。
マルタが横に並ぶ。
「行きますよ」
「……はい」
小さく返事をして、レイナルドは工房を出た。
向かう先の屋敷がどうか遠ざかりますようにと願いながら。




