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ガラスの靴をご所望ですか?  作者: 夢幻
ガラスの靴はもういらない

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13/30

13

 「君の話だよ」


 あまりにあっさり言われて、レイナルドはしばらく口を開けたまま固まった。


「……は?」


「だから、君が故グランヴィル伯爵の正式な跡取り」


「いやいやいや」


 思わず首を振る。


「何を言ってるんですか。僕は妾の子で、父上が亡くなってからはただの厄介者で」


「厄介者扱いされていたのは知ってる」


 レオンはバターを塗る手を止めずに言った。


「だが書類は別だ。君の母君は下級とはいえ貴族出身、認知も済んでいる。娘しかいない本妻側より、男児である君に継承権が立つ形になっていたらしい」


「…そんなこと、いわれても」


「ま、私も調べたばかりだからね」


 にこにこしていて信用ならない。


 レイナルドは額を押さえた。昨夜から情報量が多すぎる。逃げ出したと思ったら伯爵家に連れ込まれ、靴職人は伯爵令嬢で、今度は自分が本来跡取りだと言われている。


「意味が分からない……」


「分からなくていいよ、今すぐ領地経営しろと言うわけじゃない」


 レオンはひらひら手を振った。


「ただ、グランヴィル夫人が君を好き放題できていたのは、書類の存在を表に出さず握り潰していたからだろうね。表立って騒がれると少々まずい」


 そこでふと、先ほどの話が繋がる。


 王都中を探し回る硝子の靴の娘。足の傷への視線。グランヴィル家への噂。


 レイナルドはゆっくり息を呑んだ。


「……だから必死に僕を探してる」


「おそらくね。娘が攫われた、で済ませたいんだろう。本来の相続人が逃げ出した、などと知られるよりは」


 ぞわりと背筋が冷えた。


 逃げた先まで追ってくるかもしれない。あの夫人の甲高い悲鳴が耳の奥で蘇る。


 戻りたくない。だが見つかりたくもない。


 無意識に肩を抱いたレイナルドへ、レオンは軽い口調のまま続けた。


「安心していい。ここは簡単には嗅ぎつけられないし、しばらく匿う」


「しばらく……」


「ただし」


 レオンの視線が、レイナルドの髪へ落ちた。


「そのままでは少々目立つ」


 レイナルドは瞬く。

 肩を過ぎる金髪。昨夜解いたまま、まだゆるく背に流れている。


「昨日の舞踏会で印象づいているだろうからね。硝子の靴に長い金髪の娘。王都でその姿を見かけたら一発で終わりかもね」


 レイナルドの指がそっと髪先に触れた。


 さらりとした感触。


 8年。


 切らせてもらえなかった髪だ。夫人が気に入り、女らしく見えるからと伸ばされ、毎朝結われ、飾られた髪。


 鬱陶しくて仕方なかったはずなのに、そう言われると急に胸の奥がざわつく。


「……切る、ってことですか」


「その方が安全だろうね」


 レオンが言うより先に、隣で紅茶を飲んでいたマルタが立ち上がった。


「鋏、持ってきます」


「早いな!?」


「必要でしょう」


 平然と食堂を出ていく。


 レイナルドは呆然とその背を見送り、それからレオンを振り返った。


「ちょっと待ってください心の準備とか」


「している間に見つかっても困るし」


「雑すぎません!?」


「うちの妹はそういうところある」


 自慢げに頷かれても困る。


 だが数分後、本当に鋏と白布を抱えて戻ってきたマルタは容赦がなかった。


「中庭へ」


「本当に今すぐ!?」


「食堂で髪撒き散らすわけにいかないでしょう」


「そういう問題じゃ」


「行きますよ」


 にこやかに手を振るレオンを背に、レイナルドはマルタに引っ張られていった。





     ◇◇◇





 春の中庭は明るかった。


 石造りの回廊に囲まれた一角に、小さな噴水と丸いテーブルが置かれている。そこへ椅子を据えられ、レイナルドは半ば処刑台に座る気分で身を固くした。


「……本当に切るんですか」


「だからそう言ってます」


 マルタが白布を肩へかける。

 ぱさり、と視界の端に白が落ちた。


「少しは躊躇とかないんですか」


「見つかりたいならやめますか?」


「それは……」


 言葉に詰まる。

 見つかりたくない。グランヴィル家へ連れ戻されるなど冗談ではない。

 だが、髪を切ると口にした瞬間、何か後戻りできない気がした。


 レイラでいた8年が、ここで終わる。


 嫌だったはずだ。毎朝結われるたびに鬱陶しくて、鏡を見るたび腹が立って、女物の飾りなど全部捨てたかった。


 なのに。


 指先に絡めた髪は、長い年月の重さを持っていた。


 レイナルドは小さく息を吐く。


「……お願いします」


 マルタが一瞬だけ手を止め、それから静かに頷いた。


「はい」


 しゃきり、と鋏が鳴る。


 最初のひと束が切り落とされた。


 肩がびくりと震えた。


 金の髪が膝へ落ちる。たったそれだけなのに、胸のどこかがひりつく。


 母に似ていると乳母が褒めた髪。夫人が執拗に梳かせた髪。エリザベスが面白半分に編み込んだ髪。鬱陶しくて、嫌で、でも切ることも許されなかった髪。


 次の束が落ちる。また次が落ちる。


 鋏の音だけが規則正しく響いた。


 レイナルドは膝の上に積もる金糸を見つめる。不思議と涙は出なかった。


 喪失というより、剥がされていく感覚だった。  長年貼りついた何かが、一枚ずつ落ちていく。


「下を向かないでください」


「……命令が多いな」


「切りにくいので」


 いつもの調子に少しだけ息が抜ける。


 顔を上げると、マルタは真剣そのものの顔で鋏を動かしていた。職人の目だ。


 情けでも慰めでもなく、必要だからやるという顔。


 その淡々さが、ありがたかった。

 哀れまされたら多分耐えられなかった。


 しゃ、と最後に襟足が整えられる。


「……終わりました」


「え」


 思ったより早かった。


 マルタが手鏡を差し出す。

 恐る恐る覗き込んで、レイナルドは目を瞬かせた。


 短く整えられた金髪。耳が見え、首筋が軽い。  女装のために柔らかく流されていた輪郭が露わになって、思った以上に顔つきがはっきりして見える。


 知らない顔、ではない。

 だが、先ほどまでの自分とも違う。昔の少年に戻ったわけでもない。

 男の服を着た時と似た感情が込み上げる。


「……変だ」


 ぽつりと零すと、マルタが眉をひそめた。


「どこが」


「いや、何か……落ち着かない」


「当たり前でしょう。首が急に軽いんですから」


「そういう意味じゃ」


 言いかけて、うまく続かない。


 マルタはしばらくこちらを見ていたが、やがて小さく肩をすくめた。


「似合ってますよ」


 レイナルドが顔を上げる。


「ようやく普通です」


「褒めてるのかそれ」


「褒めてます」


 真顔だ。

 レイナルドは数秒黙り、それからふっと息を吐いた。


「……そっか」


 髪がない首筋を指で撫でる。

 風が当たる。妙にくすぐったい。


 膝に積もった金髪を見下ろしていると、後ろからレオンの呑気な声が飛んだ。


「おお、さっぱりしたねえ」


「見世物じゃありません」


「マルタが散髪なんて珍しいからつい」


「兄上うるさいです」


 兄妹のやり取りに少しだけ笑ってしまう。

 その瞬間、胸のつかえがほんの少し軽くなった。


 全部解決したわけではない。グランヴィル家のことも、相続のことも、何ひとつ片付いていない。


 それでも。

 昨日までのままでは、もういない。


 レイナルドは足元を見た。

 黒革の靴が陽を受けて鈍く光っている。


 そのつま先をこつ、と石畳へ鳴らした。


「……で」


「はい」


「このあと僕は何をすればいいんです」


 本気で分からなかった。

 髪を切った。男の服も着た。

 けれど、それでどこへ向かえばいいのかは全く見えない。


 グランヴィル家へは戻れないし、戻りたくもない。だからといって、ここで急に伯爵家の客人として優雅に暮らせるほど図太くもなかった。


 立っている場所だけ変わって、肝心の自分は宙ぶらりんのままだ。


 問いかけると、マルタはレイナルドをじっと見て、それから小さく息を吐いた。


「……とりあえず」


「とりあえず?」


「今日はもう考えなくていいです」


「え」


 予想外の返答に間の抜けた声が出る。

 マルタは鋏を布で拭きながら続けた。


「切った直後に全部どうにかなるわけないでしょう」


「それは、まあ……」


「家の中で難しい顔していても余計煮詰まるだけです」


 さらっと言われて、レイナルドは口をつぐんだ。図星だった。

 レオンが面白そうに頷く。


「確かに今にも頭から湯気出しそうだもんねえ」


「出ませんよ」


「出てます」

「出てるよ」


 兄妹揃って即答される。

 レイナルドは少し眉を寄せたが、否定しきれない。昨夜からずっと情報に振り回されっぱなしで、正直何も考えたくなかった。

 マルタはそんなレイナルドを一瞥してから、白布を畳んだ。


「兄上」


「ん?」


「うるさいので図書室借ります」


「え、僕が原因?」


「はい」


 即答である。

 レオンが何か言う前に、マルタはレイナルドの袖を引いた。


「行きますよ」


「え、ちょ」


 半ば引きずられるように中庭を出る。

 回廊を抜け、二階へ上がり、重い扉の前で止まった。

 中へ入ると、壁一面に本棚が並んでいた。高い窓から午後の光が差し込み、紙と革の匂いが静かに満ちている。


「……図書室」


「そうです」


 マルタは近くのソファにレイナルドを導いた。


「座ってください」


「いや、何でここに」


「部屋へ戻しても難しい顔で煮詰まるだけでしょう」


 図星である。

 レイナルドは渋々腰を下ろした。マルタはそれを見届け、数冊の本を持ってきたかと思うと向かいに座って広げ始めた。

 しばらく沈黙が落ちる。窓の外で鳥が鳴いた。こんなに静かなのに、不思議と居心地は悪くなかった。マルタが何も急かさないからだろう。

 レイナルドは短くなった髪先を触りながら、小さく息を吐いた。


「……本当に、何をしたらいいか分からない」


 ぽつりと零す。


「レイラはもうしなくてもよくなった。でも、だからって急に別の人間になれるわけでもないし」


 情けない言葉だと思ったが、マルタは笑わなかった。


「別の人間になる必要あります?」


「え」


「あなたはあなたでしょう」


 昨日も聞いた気がするような、簡単な言い方。だが今は少しだけ胸に落ちた。

 マルタは本をめくりながら続ける。


「さっきも言いましたが、とりあえず今日はもう考えなくていいです」


「……そんな簡単に」


「簡単じゃないから一日で片付けるなと言ってるんです」


 レイナルドは思わず黙る。

 マルタはそこでようやくこちらを見た。


「明日、外へ出ます」


「外?」


「ええ」


「どこへ」


「来れば分かります」


「またそれ」


 少しだけ呆れた声が出る。

 マルタは平然としていた。


「家の中に閉じこもっていても余計息が詰まるでしょう」


 図星だった。

 レイナルドはソファに背を預け、天井を見上げる。


 明日、外へ出る。

 何が待っているかは分からない。


 けれど、こうして一人で放っておかれるよりは少し安心した。


「……分かりました」


 答えると、マルタは小さく頷いた。

 窓から入る春の風が、短くなった髪をくすぐった。






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