12
馬車が止まった。
「着きました」
「やっと…」
見慣れた町中の工房を想像していたレイナルドは、窓の外を覗いて固まった。
工房ではない。
夜の中でもはっきり分かるほど立派な石造りの屋敷が、門の向こうにどんと構えている。整えられた庭木、広い前庭、玄関を照らすいくつもの灯り。
「え」
「降りますよ」
「いや待って、ここは」
「私の家です」
「家!?」
思わずマルタを振り返る。
「家って、何でこんな……」
言いかけて絶句した。
こんな、などという規模ではない。どう見ても裕福な商家どころではない、れっきとした貴族の屋敷だ。
混乱しているうちに馬車の扉が開き、マルタから押される形で降りてしまう。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「待ちません。兄上が起きてるうちに入ります」
「兄上?」
さらに意味が分からない。
ずんずん進むマルタの後を追って玄関へ向かうと、ちょうど扉が内側から開いた。
磨き込まれた床。吹き抜けの高い天井。壁にかけられた絵画。
そして、数人の使用人が音もなく進み出て一礼した。
「お帰りなさいませ、マルグリットお嬢様」
「湯の準備は整っております」
「客室もご用意しております」
「……え?」
レイナルドはぽかんと口を開けた。
お嬢様?
誰が?
ゆっくりと隣を見る。
マルタは何事もなかったように頷いた。
「ありがとう」
「どういうことですか!!」
思わず叫ぶ。
「お嬢様!?」
「そう呼ばれてますね」
「そう呼ばれてますねじゃなくて!」
頭が追いつかない。
靴職人。工房。口の悪い女。
そこまでは知っていた。
だが今目の前で使用人に恭しく迎えられている姿は、どう見てもそこらの職人ではない。
その時、玄関ホールに軽い拍手が響いた。
「いやあ、予想以上に派手に連れてきたねえ」
見上げると、二階へ続く大階段の途中に、一人の青年が立っていた。
柔らかな茶髪を後ろへ流し、寝間着に上着を羽織っただけの気楽な格好なのに、妙に絵になる。にこにこと楽しげにこちらを見下ろしていた。
青年はゆったりと階段を下りてくる。
「おかえり、マルグリット」
「ただいま戻りました、兄上」
「マルグリット?兄上?」
思わず口を開いたレイナルドを見て、青年はぱちりと瞬いた。
「おや。随分派手に攫ってきたねえ」
「攫ってはいません。連れてきました」
「派手には否定しないんだ」
青年はくすりと笑い、レイナルドへ軽く一礼した。
「どうも。レオン・アルノーです。妹がいつもお世話になっております」
「い、妹」
レイナルドはゆっくりマルタを見る。
マルタは無表情のまま頷いた。
「兄です」
「兄」
「はい」
「……いや待って」
頭が全く追いつかない。
まずマルタの家が大きい。兄がいる。しかもこの男、どことなく舞踏会で見た社交界の青年たちに似た空気を纏っている。
嫌な予感が背筋を走った。
「何者なんですか…」
「話すと長いので明日にしてください」
「今聞きたいんですけど…」
「彼、限界です兄上」
レイナルドのささやかな主張に応えず、マルタが平然と言う。
「見れば分かるでしょう」
「うん、顔色ひどいね」
レオンは楽しそうに頷いたあと、にこやかに手を振った。
「大丈夫、ここは安全だから。グランヴィル家の人間は今夜ここまで来られない」
「……!」
その名が出た瞬間、レイナルドの身体が強張った。
だが問い返すより早く、使用人たちがわらわら現れてしまう。
「え、あ、ちょ」
「お風呂はこちらでございます」
「お召し物を」
「お部屋は整っております」
「待っ……」
完全に流される。
振り返れば、マルタはもうこちらを見ていなかった。
「詳しい話は明日です」
「明日って」
「寝てください。ひどい顔です」
「誰のせいだと……!」
言い返す前に使用人に押し切られ、レイナルドはそのまま奥へ連れて行かれた。
情報が多すぎて、もう何が何だか分からなかった。
◇◇◇
柔らかな寝具に身体が沈んでいる。
その感覚がまずおかしかった。
レイナルドはぼんやりと目を開け、見知らぬ天井をしばらく眺めた。白い漆喰に繊細な装飾。厚いカーテンの隙間から朝の光が細く差し込んでいる。
「……どこだ、ここ」
掠れた声が漏れた瞬間、昨夜の記憶がどっと押し寄せた。
舞踏会。 夫人の悲鳴。 石段へ投げ捨てた透明な靴。 マルタの手。 夜の馬車。 黒革の靴。
「……逃げた」
飛び起きる。
ふかふかの布団が跳ね、レイナルドは慌てて周囲を見回した。
広い客間だった。磨かれた家具、厚い絨毯、花まで飾られている。いつもの簡素な寝台とは似ても似つかない。
家じゃない。
その事実に今さら気づいて、心臓が嫌な音を立てた。
「え」
昨夜は疲れ果てていたのだろう。玄関から部屋へ通された記憶も曖昧だ。
ここどこだ。
グランヴィル家ではない。王城でもない。工房でもない。
混乱しているうちに、こんこんと扉が叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのは年配の女性使用人だった。 上品なエプロンドレス姿で、恭しく一礼する。
「お目覚めでございますか、坊っちゃま。お湯の支度が整っております」
「……ぼ、坊ちゃま?」
「はい」
何の疑問もなく返される。
レイナルドは数回瞬きをした。
「ええと……僕ですか」
「他にどなたが」
当然の顔をされてしまう。
坊ちゃま。その呼び名が耳の奥で妙にむず痒い。何年ぶりにそんな扱いを受けただろう。
「こちらへどうぞ」
促されるまま隣室へ行くと、湯気の立つ大きな浴槽が待っていた。
「……え」
「どうぞごゆっくり」
「いや待ってください自分でやります!」
慌てて叫ぶと、使用人はくすりと笑って下がった。
扉が閉まり、静寂が戻る。
レイナルドは呆然と浴室を見回した。
「何なんだ、本当に……」
昨夜までは泥だらけで馬車に転がり込んでいたのに、朝起きたらどこかの上流階級の客扱いで風呂を勧められている。
現実味がない。
だが汗と土埃にまみれているのも事実で、恐る恐る湯に浸かると、全身から力が抜けた。
「はぁ……」
温かい。
肩まで沈むと、昨日まで張りつめていたものが少しずつ溶けていく気がした。
髪を解き、顔を洗う。 頬についた化粧の名残が落ちていく。白粉も紅も流れて、湯に消える。
レイラが剥がれていくみたいだ、とぼんやり思った。
浴室を出ると、寝台の上に新しい衣服が整えられていた。
白いシャツに濃紺のベスト、黒のズボン。短い上着。
どう見ても男物だった。
「……」
レイナルドはしばらくそれを見下ろした。
手に取る。布地は上等で、しっかりしている。
ズボンなんて何年履いていないだろう。足を通してみると、妙に落ち着かない。裾の感覚が違う。腰回りが軽い。ベストの前を留める手もどこかぎこちない。
鏡の前に立つ。
そこにいたのは、見慣れない青年だった。
濡れた長い金髪を下ろし、化粧のない顔で、男物の服を着ている。 少し痩せてはいるが、確かに男だ。
「……僕?」
思わず声が漏れる。
レイラではない。けれど、完全に昔のレイナルドとも違う。
8年という時間が、思った以上に長かったのだとその顔が告げていた。
扉の外から再び声がした。
「坊ちゃま、朝食のご用意ができております」
坊ちゃま。
まだ慣れないその呼びかけに、レイナルドは変な顔のまま返事をした。
「……は、はい」
◇◇◇
通された食堂は無駄に広かった。
長いテーブルの片側で、マルタが平然とパンを齧っている。
「……いた」
その姿を見た瞬間、なぜかほっとする。
いつもの作業着ではなく上品な家着だが、無愛想さは変わらない。
「おはようございます」
「お、おはよう……」
何だろう、この人を見ると急に現実味が出る。
マルタはこちらを向いたかと思うと小首をかしげた。
「あなた、化粧落とすと結構男ですね」
「まぁ男なので…」
「動きは女ですが」
「うるさいな」
軽口を叩きつつ、レイナルドがおっかなびっくり席へ着こうとしたところで、後ろ側から陽気な声が飛んだ。
「おはよう、レイナルドくん!よく眠れたかい?」
昨夜玄関先で会った胡散臭い青年─レオン・アルノーがにこにこしながら現れる。
「ようこそアルノー伯爵家へ」
伯爵家。
改めて言われて、レイナルドは頭を抱えたくなった。
「……やっぱり夢じゃないんですね」
「残念ながら現実だよ」
「靴職人が伯爵令嬢って…飲み込めてないんですが」
「そうですか?」
マルタが無表情で紅茶を飲む。
「それはそうでしょう!」
思わず叫ぶと、レオンが楽しそうに笑った。
「ははは、いい反応だ。実に新鮮」
「兄上うるさいです」
「それより、君が気にしているだろう報告をしようか」
レオンはバターを塗ったパンをひらひら振った。
「昨夜から王都じゅう、硝子の靴の娘探しで大騒ぎだ」
レイナルドの動きが止まる。
「……は?」
「王宮の石段に靴が落ちていただろう? グランヴィル夫人がそれを抱えて、『娘が高位貴族に攫われた』と半泣きで触れ回っている」
「うわぁ……」
思わず顔を覆う。
恥ずかしい。ものすごく恥ずかしい。
「王都の貴族たちは面白がっているよ。どこの王子様ごっこだってね」
レオンは肩をすくめる。
「まあ、それだけじゃないが」
「……どういう意味ですか」
「マルタの靴がよく出来すぎていた」
「え?」
今度はマルタが少し顔をしかめた。
「兄上、言い方」
「いや事実だろう。あの靴、傷がよく見えるよう調整したんだろう?」
レイナルドがはっと息を止める。
マルタは視線を逸らした。
「……少し」
「しかも昨夜、君の足元を見た人間は多い。傷だらけだったそうじゃないか」
レイナルドは息を呑んだ。
「……」
「『あのグランヴィル家の娘はずいぶん酷使されている』と噂になり始めてる。夫人は今ごろ外へ出るたび視線が痛いだろうねえ」
淡々と言われ、胸の奥がざわついた。
あの家が噂される。自分のせいで。
「僕……」
「心配しなくていい」
レオンが軽い声のまま遮る。
「君は今、被害者側だ。攫われた可哀想な娘、もしくは逃げ出した哀れな娘。どちらにしても社交界はグランヴィル家を責める流れになる」
「でも」
「でもも何もない。昨夜のあれだけで十分外聞は悪い」
にこにこしているのに言葉が容赦ない。
レイナルドは言葉を失った。
戻らなければ、とどこかで思っていた。だが戻って何になるのかと問われれば答えられない。
黙り込んだその足先を、こつ、と何かが軽く蹴った。
見ると、机の下でマルタの靴先が触れている。
「せっかく作ったのに」
「え?」
視線を上げると、マルタはパンを千切りながら言った。
「その靴、歩くための靴なんですが」
黒革のつま先を見る。
昨夜履かせてもらった、本命の一足。
「また戻るつもりですか」
平坦な声だった。
責めているわけでも、怒っているわけでもない。ただの確認だ。
けれど、レイナルドは答えられない。
戻りたくない。戻らない未来も分からない。
揺れる沈黙を、レオンがあっさり壊した。
「まあ、その辺も含めて一つ面白い話がある」
嫌な予感しかしない言い方だ。
レオンは紅茶を一口飲み、楽しげに片眉を上げる。
「グランヴィル家のことは一通り調べさせてもらった」
レイナルドの肩がぴくりと揺れる。
「君を連れ出す以上、身元確認は必要だからね」
「……」
「結論から言うと、少々面白いことになっていた」
面白いで済ませるな、と言いたかったが声が出ない。
レオンはさらりと告げた。
「故グランヴィル伯爵の正式な相続書類上、跡取りは娘ではなく非嫡出の息子─レイナルド・グランヴィルとなっている」
沈黙。
レイナルドは数回瞬きをした。
「……誰の話でしょうか」
「君の話だよ」




