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君の声が聞こえる場所 ――深夜ラジオに届いた手紙は、声を失った男からだった 声がなくても、届く言葉がある。沈黙にも、愛がある。  作者: かーすけ
手術前夜

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17/18

第十六話 変わる前の今夜が、大切な気がして

 六月になった。

 梅雨入り前の数日間、東京は妙に晴れ続けた。

 空が高く、光が強く、でも風は乾いていた。

 この時期だけの、つかの間の清潔な気候。

 彩は出勤のたびにその空を見上げて、もう少しこのままでいてほしいと思った。

 手術まで、一週間を切っていた。


 木曜日の公園は、五月より緑が濃かった。

 葉が大きくなって、木陰が深くなっていた。

 いつものベンチに座ると、木漏れ日が足元に落ちている。

 光と影が混ざって、風が来るたびに模様が変わる。

 諒がすでに来ていた。

 今日の諒は、いつもと少し違った。

 姿勢が、いつもより真っ直ぐだった。

 前傾みになる癖が、今日はなかった。

 何かを決めた人間の、静かな真っ直ぐさだった。

「待ちましたか」彩は座りながら言った。

 諒は首を振った。スマートフォンを取り出した。


 少し。

 でも今日は、待つのが苦ではなかった。

 来週のことを、考えていたから。


「怖いですか」

 これまでも聞いた問いだった。

 でも今日の問いは、以前とは質が違った。

 以前は諒の気持ちを確かめるために聞いた。

 今日は——一緒に怖がるために、聞いた。

 諒はしばらく池を見ていた。

 それからノートを取り出した。

 いつもより時間をかけて書いた。


 怖いです。

 でも今日は、怖さより先に、別のことを考えています。

 声が戻ったとして——最初に何を言うか。

 二年間、ずっと考えていなかったことを、最近考えるようになりました。


「何を言いたいですか」

 諒は少し考えた。

 ノートではなく、スマートフォンに打ち込んだ。

 画面を彩の方に向けた。


 まだ、決めていません。

 でも誰に言うかは、決まっています。


 彩はその文面を読んだ。

 読んで、顔を上げた。

 諒がこちらを見ていた。

 目が、静かに彩を見ていた。

 逸らさなかった。

 彩も逸らさなかった。

 風が来た。

 木漏れ日の模様が、足元で揺れた。

 言葉は来なかった。

 でも言葉がなくても、今日は十分だった。

 誰に言うかは、決まっている。

 その一文が、彩の胸の中で静かに、でも確かな重さで光った。


 手術の前日、諒からメッセージが届いたのは、夜の九時過ぎだった。

 彩は編集室で来週の構成作業をしていた。


 今夜、会えますか。

 病院の近くに、小さな喫茶店があります。


 彩は迷わず返信した。


 今から行きます。場所を教えてください。


 局を出て、地下鉄に乗った。

 車内で、彩は窓の外の暗いトンネルを見ていた。

 明日の手術のことを考えた。

 成功率六割。

 リスクもある。

 その数字が、今夜は冷たく感じなかった。

 数字は数字だ。

 六割は六割だ。

 その外側にある四割を恐れても、何も変わらない。

 今夜、ここへ向かっている。

 それだけが、今の彩にできることだった。


 喫茶店は病院から歩いて三分の場所にあった。

 古い店だった。

 木の扉、曇りガラス、手書きのメニュー。

 夜の九時を過ぎていたが、店内にはまだ数組の客がいた。

 奥の窓際の席に、諒がいた。

 彩が近づくと、諒が立ち上がった。

 いつもの前傾みではなく、今日も真っ直ぐ立っていた。

 コートは着ていなかった。

 病院帰りなのか、シンプルな格好だった。

「待ちましたか」

 諒は首を振った。

 二人で向かい合って座った。

 店員がやってきて、彩はコーヒーを頼んだ。

 諒はすでに紅茶が来ていた。

 カップに手を添えているが、ほとんど飲んでいないようだった。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 言わなくていい沈黙だった。

 喫茶店の静かなBGMが、低く流れていた。

 誰かのピアノ曲で、音数が少なかった。

 ビル・エヴァンスに似た質感の、静かな演奏だった。

 諒がスマートフォンを取り出した。


 来てくれてありがとう。


「来たかったから来ました」


 明日のことが、怖いというより——今夜が、少し惜しい気がしています。


「惜しい」彩は繰り返した。


 手術の後は、何かが変わる。

 良い方に変わることを願っています。

 でも変わる前の今夜が、今はとても大切な気がして。


 彩はその言葉を受け取った。

 変わる前の今夜。

 声のないまま手紙を書いてきた時間。

 スマートフォンの画面越しに言葉を交わしてきた時間。

 公園のベンチで、同じものを見てきた時間。

 その全部が、明日を境に、変わるかもしれない。

 変わることが、悪いわけではない。

 でも今夜この時間が、取り替えのきかない何かであることも、彩にはわかった。

「私も」彩は言った。

「今夜が大切です」

 諒がコーヒーカップから顔を上げた。

「神田さんと過ごしてきた時間が、好きです。手紙も、公園も、レコード店も。声がなくても、あなたのことをたくさん知ることができた。その時間が、私には何より大事で」

 言いながら、続きの言葉が出てきた。

 止めようとして、止めなかった。

「声が戻っても、戻らなくても、私はここにいます。明日の後も、その次も」

 諒はしばらく彩を見ていた。

 何かを打ち込もうとして、画面を見て、また彩を見た。

 打ち込まなかった。

 打ち込む代わりに、テーブルの上に置いていた手を、少しだけ動かした。

 彩の手の、すぐそばに来た。

 触れなかった。

 触れる寸前の距離に、ただ置いた。

 彩は自分の手を見た。

 諒の手を見た。

 触れなかった。

 触れなかったけれど、その距離に、二人の間にあるものが全部あった。

 言葉より静かで、言葉より確かな何かが、二人の手の間の数センチにあった。

 BGMのピアノが、静かに続いていた。

 音と音の間の沈黙が、豊かだった。


 一時間ほどして、諒が立ち上がった。

 明日は朝が早い、と画面に打ち込んで見せた。

 彩は頷いた。

 会計を諒が先に済ませようとしたので、彩は「半分出します」と言った。

 諒は少し考えてから、頷いた。

 その小さなやりとりが、彩には妙に温かかった。

 対等に、ここにいる、という感触。

 店を出ると、六月の夜気が来た。

 梅雨入り前の夜で、空気は乾いていた。

 遠くに病院の灯りが見えた。

 明日、諒はあそこに入る。

 二人は店の前に立っていた。

 諒がコートのポケットを探った。

 取り出したのは、封筒だった。

 白い洋封筒に、万年筆の筆跡。

 彩に、差し出した。

 彩は受け取った。表を見た。

「藤沢彩様」と書いてある。

「今、読んでいいですか」

 諒は少し考えてから、首を横に振った。

 今ではない、ということだった。

 彩は封筒を、そっとバッグにしまった。

 諒がスマートフォンを取り出した。


 終わったら、連絡します。


「待っています」彩は言った。

「ゆっくり、待っています」

 ゆっくり、という言葉を、彩は意識して言った。

 急がなくていい。

 どんな結果でも、ここで待っている。

 その意味を込めて。

 諒は頷いた。

 それからスマートフォンをしまって、彩を見た。

 いつもの目だけの笑い方ではなかった。

 笑っていなかった。

 ただ、真っ直ぐ見ていた。

 その目に、たくさんのものがあった。

 感謝と、緊張と、もう一つ——彩には名前のつけられない何かが、諒の目の中にあった。

 それを彩は、静かに受け取った。

 諒が踵を返した。病院の方へ歩いていく。

 彩は見送った。

 諒は振り返らなかった。

 でも歩きながら、一度だけ右手を少し上げた。

 後ろ向きのまま、小さく。

 それが見えたとき、彩の目が熱くなった。

 堪えた。

 諒の背中が、病院の灯りの方へ遠ざかっていく。

 真っ直ぐな背中だった。前傾みではなく、今夜は真っ直ぐ歩いていた。

 灯りの中に、溶けていった。


 彩は一人で駅まで歩いた。

 バッグの中に、封筒がある。

 読むのは今夜ではない、と諒は言った。

 ならばいつ読むのか——彩にはわかっていた。

 連絡が来てから、読む。

 それが正しい気がした。

 手術が終わって、諒から連絡が来て、その後で読む。

 今夜読んでしまうと、何かが違う気がした。

 この手紙は、結果を知った後で読むものだと、根拠はないけれど思った。


 電車に乗った。

 座席に座って、バッグを膝に置いた。

 封筒の硬い感触が、布越しに伝わってくる。

 諒は今夜、何を書いたのだろう。

 考えて、でも想像するのをやめた。

 読めばわかる。

 それまで、この重さを持っていよう。

 電車が動き始めた。

 窓の外に、六月の東京が流れていく。

 灯りが連なって、人が歩いて、街が続いている。

 どこかで誰かが、今夜も眠れないでいる。

 どこかで誰かが、明日を待っている。

 彩もその一人だった。

 明日を、ゆっくり、待つ人間の一人だった。

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