第十五話 声がなくても、知っていける
返事が来たのは、三日後だった。
封筒ではなかった。
スマートフォンに、見知らぬ番号からショートメッセージが届いた。
神田です。連絡先、教えます。
手紙、読みました。
あなたが正直に書いてくれたことが、嬉しかった。
苦しかったこと、話してくれてありがとう。
彩はそのメッセージを、台所に立ったまま読んだ。
読んで、もう一度読んだ。
嬉しかった、と書いてある。
苦しかったことを話してくれて、嬉しかったと。
苦しさを打ち明けることが相手を傷つけるかもしれないと思っていた。
でも諒には、そうではなかった。
彩はスマートフォンを持ったまま、少しの間動かなかった。
それから返信を打った。
正直に書けなくてごめんなさい。
遅くなりました。
送ってから、短すぎたかと思った。
でも今夜はこれで十分な気がした。
謝罪と、遅れたことへの自覚。
それだけを、過不足なく。
しばらくして、返信が来た。
謝らなくていいです。
遠くなっていた分、今夜は近い気がします。
彩はその一文を読んで、窓の外を見た。
四月の夜が、静かに広がっている。
遠くなっていた分、今夜は近い。
揺れたことで、かえって近くなる。
そういうことが、人の間にはある。
揺れなければたどり着けない近さが、ある。
彩はスマートフォンをテーブルに置いた。
胸の中の棘が、今夜はほとんど感じられなかった。
消えたわけではない。
でも棘があることと、それでもここにいることは、両立する。
そのことを、彩は今夜初めて、腑に落ちた形で知った。
五月になった。
街の緑が濃くなり、光が強くなり、風が温かくなった。
木曜日の公園は、四月より人が多かった。
子どもが走り回り、犬が池の周りをぐるぐる歩き、ベンチのほとんどが埋まっていた。
二人がいつも座るベンチだけが、空いていた。
諒が先に来ていた。
彩が近づくと、いつものように顔を上げた。
でも今日は会釈だけではなく、スマートフォンをすでに手に持っていた。
一つ、見せたいものがあります。
「何ですか」
諒はコートのポケットから、小さなものを取り出した。
ICレコーダーだった。
古い機種で、角が少し擦れている。
随分使い込まれた跡がある。
彩はそれを見た。
「神田さんの」
諒が頷いた。
スマートフォンに打ち込んだ。
音響の仕事をしていた頃から使っています。
声を失ってから、持ち歩くのをやめていました。
でも最近、また持つようになりました。
「なぜ」
音を録りたくなったから。
公園の音。
レコード店の音。
あなたと一緒にいた場所の音を、残しておきたくなりました。
彩は少しの間、ICレコーダーを見ていた。
音を残しておきたい。
声を失った音響エンジニアが、また音を録り始めた。
その事実の重さを、彩はゆっくりと受け取った。
「聞かせてもらえますか。録ったもの」
諒は少し考えてから、頷いた。
ICレコーダーを操作して、彩に渡した。
小さなスピーカーから、音が出た。
最初に聞こえたのは、風の音だった。
木の葉が揺れる音。
遠くで子どもの声。
池の水面が風を受けてたてる、細かい波の音。
それから、鳥の声。
誰かの笑い声。
足音。
公園の音だった。
でも彩が毎週来ている公園の音とは、少し違った。
同じ場所なのに、違って聞こえた。
耳を澄ませているうちに、彩はわかった。
これは諒の耳で録られた音だ。
諒が聞いている公園は、こういう音がするのか。
音と音の間の静けさが、彩が聞くより長い。
細かい音への注意が、彩より繊細だ。
遠くの音も近くの音も、等しく拾われている。
音の中に、諒がいた。
声がなくても、その人がそこにいることがわかる録音だった。
彩はICレコーダーを諒に返した。
「神田さんの耳で聞いた公園でした」
諒は少し目を細めた。
そう言ってもらえると、録ってよかったと思います。
彩はベンチの背に寄りかかった。
五月の光が、池に降りている。
水面がきらきらと揺れている。
同じ光が、今諒の目にも届いている。
同じ光を、二人で見ている。
声を知らない、という棘は、まだある。
でも今日、諒の耳を聞いた。
声の代わりに、この人の聞き方を受け取った。
人を知るということは、その人の声を知ることだけではない。
その人が何を聞いているかを、知ることでもある。
彩はそう思いながら、隣の諒を見た。
諒は池を見ていた。
目を細めて、光の中に何かを見ている。
この横顔を、彩はもう何十回も見てきた。
見るたびに、少しずつ、知っていく。
声がなくても、知っていける。
その確信が、今日の光の中で、静かに根を張った。
五月の終わり、三浦に呼び止められた。
収録後、スタッフが帰り始めた編集室で、三浦がいつもより少し真剣な顔をして言った。
「少しだけ、いいですか」
彩は資料をまとめる手を止めた。
「どうぞ」
三浦はソファに座った。
彩も向かいの椅子に座った。
三浦がこういう顔をするときは、仕事の話ではないことが多い。
「例の人、手術するって聞きました」
彩は少し止まった。
「どこで聞いたんですか」
「聞いたわけじゃないけど」三浦は少し困った顔をした。
「なんとなく、そういう流れかなと思って。違いますか」
彩は答えなかった。
「違わないんですね」
三浦は言った。
「そうか」
しばらく沈黙があった。
三浦らしくない沈黙だった。
この男はいつも、沈黙を軽く扱う。
でも今夜の沈黙は、少し重かった。
「怖いですか」三浦が言った。
「何が」
「手術」
彩はしばらく考えた。
「怖いです」彩は言った。
「成功するかどうか。リスクがあることも知っています」
「そっか」三浦は頷いた。
「俺には何もできないけど」
「できることなんて、誰にもないですよ」
「それはそうだけど」三浦は少し間を置いた。
「藤沢さんがいることが、その人には大事だと思うから。それだけ言いたかった」
彩は三浦を見た。
三浦はもう軽い顔に戻っていた。
「さて、俺はもう帰ります。お疲れ様でした」
「お疲れ様です」
三浦が立ち上がり、コートを手に取った。
ドアに向かいながら、振り返らずに言った。
「ディレクターがいることが、番組にとって大事なのと、同じようにね」
ドアが閉まった。
足音が遠ざかっていった。
彩はしばらく、三浦がいなくなったドアを見ていた。
この男は、いつもこうだ。
核心を言って、追わない。
さりげなく置いて、去る。
その置いていった言葉が、編集室の空気の中にしばらく残った。
彩はそれを、静かに受け取った。
その夜、帰り道に諒からメッセージが届いた。
手術の日程が、決まりました。
六月の第二週です。
会えますか。
話したいことがあります。
彩は立ち止まった。
駅の手前の交差点で、信号が赤だった。
六月の第二週。
一ヶ月もない。
彩は返信を打った。
会えます。
いつでも。
信号が青になった。
彩は歩き始めた。
五月の夜風が、前から来た。
温かかった。
一ヶ月もない、と思った。
でも怖いとは思わなかった。
正確に言えば——怖いけれど、怖いことを理由に外側に出ない、と決めていた。
今ここにいる。
それが彩の、この人への答えだった。




