第十七話 声の前に、あなたに会いたかった
手術の日、彩は仕事に行った。
行かない理由がなかった。
というより、行かなければ、待つことしかできなくなる。
待つことに集中すると、待つことが怖くなる。
彩はそれを知っていたから、いつも通り局に向かった。
いつも通り、のつもりだった。
でも編集室に着いて、机に向かって、気づいた。
構成表の数字が、頭に入ってこない。
目は追っているのに、意味として届かない。
コーヒーを飲んで、もう一度読んで、それでも同じだった。
今日の彩の集中は、別の場所にある。
別の場所で、ずっと何かを待っている。
いづみが資料を持ってきた。
「藤沢さん、先週の聴取率データです」
「ありがとう」彩は受け取った。
いづみはそのまま立っていた。
「何かありますか」
「あの」いづみは少し躊躇った。
「今日、なんか、いつもと違う気がして」
彩はいづみを見た。
この子はよく見ている。
入局したばかりの頃から、そうだった。
言葉より先に、空気を読む。
「大丈夫です」彩は言った。
「ありがとう」
いづみは頷いて、出ていった。
彩は窓の外を見た。
六月の空は低く、灰色だった。
梅雨が来ていた。
雨ではないが、光が柔らかく拡散して、影がなかった。
影のない日は、何となく輪郭が曖昧になる気がする。
自分の輪郭も、街の輪郭も。
スマートフォンを机の上に置いた。
画面は暗いままだった。
午後になっても、連絡は来なかった。
手術は午前中と聞いていた。
でも終わってすぐに連絡が来るとは限らない。
麻酔が覚めるまで時間がかかる。
経過を見る時間がある。
そういうことを、彩は頭では理解していた。
理解していても、スマートフォンが気になった。
三浦が昼過ぎに顔を出した。
「今日の確認、後でもいいですか。ちょっと外出してくるので」
「いいですよ」彩は言った。
三浦はドアを閉めかけて、止まった。
「藤沢さん」
「何ですか」
三浦は少し考えてから言った。
「今日、早めに上がっていいですよ。構成の確認は明日でも間に合うので」
彩は三浦を見た。
三浦は何も言わなかった。
目だけで、わかっていると言っていた。
「ありがとうございます」彩は言った。
三浦はそれだけで、出ていった。
夕方五時過ぎ、メッセージが届いた。
スマートフォンの画面が光った瞬間、彩の胸が跳ねた。
終わりました。
それだけだった。
たった六文字だった。
でも彩はその六文字を読んで、長い息を吐いた。
吐きながら、目の奥が熱くなった。
堪えた。編集室で泣くわけにはいかなかった。
返信を打った。
よかった。
ゆっくり休んでください。
送ってから、バッグを手に取った。
早退することを、いづみに一言だけ伝えた。いづみは何も聞かなかった。「お疲れ様です」とだけ言って、頭を下げた。
エレベーターに乗りながら、彩はバッグの中の封筒を思った。
連絡が来たら読む、と決めていた。
連絡が来た。
帰り道、彩は公園に寄った。
いつもの公園ではなく、局の近くの小さな公園だった。
ベンチが一つ、木が数本、小さな噴水がある。
雨は降っていなかったが、空気が湿っていた。
ベンチに座った。
バッグから封筒を取り出した。
白い洋封筒。
万年筆の筆跡。
「藤沢彩様」と書いてある。
手術前夜に渡されたものを、彩は今ここで開ける。
封を切った。
便箋を取り出した。
一枚。
広げた。
藤沢さんへ。
この手紙を書いているのは、手術の前の夜です。
あなたはきっと、連絡が来てから読んでくれると思います。
そういう人だと、知っているから。
伝えたいことが、たくさんあります。
でも今夜は、一つだけ書きます。
あなたに会えて、よかった。
深夜番組に手紙を書き始めた頃、私はまだ、自分が誰かに言葉を届けられるとは思っていませんでした。
声を失って、言葉は紙の上にしか存在できなくなった。
その言葉が、誰かの深夜に届いているかどうか、確かめる術がなかった。
あなたが「届いていました、ちゃんと」と言ってくれた日のことを、今でも思い出します。
公園のベンチで、池を見ながら。
あの言葉が、私にとってどれほどのものだったか、うまく書けません。
声があったとき、私は大切なことを言えない人間でした。
考える前に言葉が出て、出てしまってから後悔する。
だから大切なことほど、黙っていた。
声を失ってから、書くようになりました。
書くと遅くなる。
遅くなると、本当に言いたいことだけが残る。
そうやって書いてきた言葉の中で、一番本当のことを、今夜書きます。
あなたのことが、好きです。
声が戻ったとき、最初にこれを言おうと思っています。
声で言えるかどうかは、まだわかりません。
でも言いたい相手が、あなたであることは、わかっています。
明日、手術を受けます。
怖いけれど、踏み出します。
あなたに会えて、よかった。
もう一度、書きます。
神田諒
彩は便箋を持ったまま、顔を上げた。
堪えられなかった。
涙が来た。
音もなく、静かに来た。
拭わずにいた。
公園には誰もいなかった。
噴水の水音だけが、規則正しく続いていた。
あなたのことが、好きです。
その一文を、彩は何度も読んだ。
読むたびに、胸の中で何かが揺れた。
揺れながら、でも崩れなかった。
揺れることと、揺れても立っていることが、今の彩には両立していた。
声が戻ったとき、最初にこれを言おうと思っています。
彩は便箋を胸に当てた。
前夜の喫茶店でしたのと、同じように。
声で言われる日が来るかもしれない。来ないかもしれない。
でも今夜、この言葉は確かに届いた。
万年筆の筆跡で、便箋一枚で、ちゃんと届いた。
声がなくても、届く。
ずっとそう思ってきた。
今夜、それを自分のこととして受け取った。
噴水の水音が続いている。
六月の湿った空気の中に、その音だけがある。
彩はしばらくそこに座っていた。
泣きながら、でも静かだった。
悲しいのではなかった。
悲しいのとは全く違う、でも涙が止まらない——そういう夜だった。
翌日、諒からメッセージが届いた。
経過は良好だそうです。
声については、まだわかりません。
もう少し時間がかかると言われています。
彩は返信した。
よかった。
声のことは、焦らなくていいです。
手紙、読みました。
しばらくして、返信が来た。
そうですか。
その二文字を、彩は長い間見ていた。
そうですか。それだけだった。でもその言葉に、たくさんのものが入っていた。
届いた、という安堵。
読んでもらえた、という確かさ。
それから——声が戻るまで待っていてほしい、という、言葉にならない何か。
彩は返信した。
待っています。
ゆっくり。
送ってから、スマートフォンを置いた。
窓の外は、雨になっていた。
六月の雨が、静かに降っている。
彩は雨を見ながら、諒の手紙の最後の一文を思い出した。
あなたに会えて、よかった。
こちらも、そうだ。
声に出さなかった。
返信にも打たなかった。
でも彩の中で、その言葉は確かにあった。
あなたに会えて、よかった。
声のない言葉が、雨音の中に静かに溶けた。
七月になった。
梅雨が明けて、東京に夏が来た。
諒からの連絡は、週に二、三度届いた。
経過は順調だと書いてあった。
リハビリが始まったと書いてあった。
病院の窓から見える空が青いと書いてあった。
声については、書いてこなかった。
彩も聞かなかった。
その代わり、手紙を送り続けた。
番組のこと、いづみが少し成長したこと、公園の木が夏の緑になったこと。
大きくない話ばかりだった。
でも大きくないからこそ、送る価値があると思った。
日常が続いている、ということを、伝えたかった。
諒が退院したのは、七月の半ばだった。
退院しました。
少し歩けるようになったら、会えますか。
彩は返信した。
会えます。
また公園で。
八月の第一週、木曜日だった。
公園に行くと、諒がベンチにいた。
夏の光の中にいる諒は、冬に初めて会ったときとは少し違って見えた。
顔色が、以前より明るかった。
姿勢は、あの手術前夜と同じように、真っ直ぐだった。
彩が近づくと、諒が立ち上がった。
立ち上がって、彩を見た。
スマートフォンを取り出さなかった。
ノートも出さなかった。
ただ、彩を見ていた。
口が、少し開いた。
音が、出ようとして、出なかった。
諒の喉が動いた。
目に、何かが浮かんだ。
悔しさではなかった。
焦りでもなかった。
ただ——もどかしさと、それでも伝えたいという意志が、混ざったような表情だった。
彩は諒の前に立った。
「大丈夫です」彩は言った。
諒が彩を見た。
「声が出なくても、大丈夫です」
諒はしばらく、彩を見ていた。
それからゆっくりと、コートのポケットに手を入れた。
取り出したのは、封筒だった。
白い洋封筒。
万年筆の筆跡。
彩は受け取った。
今度はすぐに開けた。
便箋、一枚。
声が、まだ出ません。
もう少し時間がかかるかもしれない。
もしかしたら、このままかもしれない。
でも今日、あなたに会いに来ました。
声の前に、あなたに会いたかった。
声が出たら言おうと思っていた言葉を、もう一度書きます。
好きです。
声で言えるようになるまで、待っていてほしい。
でも声で言える前に、ここに立っていてほしかった。
神田諒
彩は便箋を持ったまま、諒を見た。
諒が彩を見ていた。
夏の光が、二人の間に降りていた。
公園の木が風に揺れている。
遠くで子どもが笑っている。
池の水面が、光を受けて揺れている。
彩はゆっくりと、便箋を折った。
丁寧に、四つに折った。
そして胸のポケットにしまった。
取り出した手で、諒を見た。
「待っています」彩は言った。
「声が出るまで、ここにいます」
諒の目に、また何かが浮かんだ。
今度は溢れた。
音もなく、静かに。
諒はそれを拭わなかった。
彩も、何も言わなかった。
ただ、並んで立っていた。
夏の公園で、二人で、同じ光の中に。
声はなかった。
でも今この場所に、二人がいた。
それが全部だった。




